第二章 消失 ―〈英雄〉の凱旋― (2)
ルチルが食事を終えると、五人は店の主人に声をかけ、一晩泊る部屋を借りた。隣り合った中部屋を二つ借り、男性陣と女性陣に分かれる。クレオが気を利かせて一階を条件につけたので、車椅子でも不便はない。
「いい? 明日のために、きっちり休んでおくんだよ」
廊下を照らす淡いランプの灯の中で、ドアから顔を出したルチルが、まるで姉のように、となりのドアから半身を出している少年剣士に言う。
廊下の窓から見える外は、すでに夜闇に包まれていた。少しだけ、空気が冷たくなったようにも感じる。
「ああ、大丈夫。おやすみ、ルチルちゃん」
「うん、おやすみ」
お互い手を振って、それぞれの部屋に入る。
彼らが選んだのは西洋風の部屋で、並んだベッドの間にある燭台の灯と窓からさし込む月明かりだけが、内部を照らしていた。
「そろそろ休みます?」
ベッドに腰掛けて本を読んでいたシータが、気配に気づいて顔を上げた。
それを見て、いたずらを咎められた子どもに似た表情で目を見開くクレオに、白いローブのハンターは首をかしげる。
「何か?」
「いや……」
クレオは慌てて両手を振って見せる。
「何でもないから。た、ただ一瞬、女の子と一緒の部屋にいるみたいだなーと……」
「ライトニングしましょうか?」
「い、いや、しょうがないじゃないかっ」
剣呑な目でにらむシータから後ずさりしつつ、自分のベッドの上に放ってあったマントと剣を取り、身につける。
「……どこへ?」
「落ち着かないから、ちょっと外で素振りでもしようかなって……すぐ戻るから」
答えながら、彼は逃げるようにして、部屋を出た。となりの部屋のルチルたちや他の宿泊客を起こさぬよう、静かな足取りで廊下を歩く。
だが、その足は、外には向けられない。彼は、二階へ向かう階段の下にある影の中に滑り込み、歩みを止める。
右手を懐に入れ、取り出したとき、そこには大きな法螺貝が握られていた。
「こちら、クレオ……」
周囲の様子をうかがってから、少年はささやきかける。
『こちらの準備は整った。そちらはどうだ?』
くぐもったような男の声が、法螺貝から洩れた。その声を聞く少年の顔には、緊張の色がにじんでいる。
「予定通り、明日、塔に向かいます」
『そうか。手順は覚えているな? ある程度、お前の仲間にやらせてもいいが……失敗は許されぬ』
「承知しています」
普段の少年からは想像もつかない、張りつめた声に、慣れたような丁寧な口調。
彼は、その調子のまま、ことばを続けた。
「しかし……不穏な因子が混入しているとは、本当でしょうか?」
『間違いない。何としても、取り除かなければならん……もっとも、目的を果たした暁には、お前の仲間たちには全員死んでもらわなければならぬやもしれんが』
返ってきた答に、少年の目が、わずかに見開かれる。
しかし、声には動揺を表わさず、最後まで事務的に、彼は交信を終えた。
それと、ほぼ同時に。
「あなたの、お友だちですか?」
突然の声に振り向くそこに、あるはずのない姿がある。
気配も、物音もしなかった。交信しながら、クレオは周囲を見回していたのだ。
「なぜ……ここに」
そこまで言うので、精一杯だった。
白いローブに金髪の、少女と見まごう顔立ちの少年が、静かな視線を向けている。責めるでも、驚くでもなく、無表情で。
どこまで聞いていたのか。
何を知っているのか。
問いたいことを口に出せず、クレオは相手の目を見る。相手のほうが問い詰めて来ないのは、まずい状況だと、彼は経験的に知っていた。
焦りを顔に表す彼とは対照的に、落ち着いた様子で、シータが口を開く。
「……やはり、あなたは、啓昇党の――」
クレオが動いた。
音もなく闇の中から抜け出し、素早く、右手の側面を相手のこめかみめがけて振る。明らかに訓練を受けた者の、達人以上の動きだった。
しかし、彼の手に伝わるのは、宙を薙ぐ感触のみ。
いつの間に視界から消えたのか。シータはクレオの背後に回りこみながら、宙に伸ばされた腕を取って後ろで捻る。
「つっ……」
強い。
内心、クレオは舌を巻く。何年もの間戦い方を叩き込まれてきた彼自身より、このハンターは、はるかに強い。実力の差が、はっきりと身にしみる。
窓から洩れる月明かりの中、静かな攻防は終わり、彼は目だけで相手を振り向く。姿を捉えることはできないが、今ははっきりと、その気配を感じることができた。
ただ、神経を研ぎ澄まして相手の動きを待つ。その、彼の背後で、シータが笑った。
「賢明な判断です……さすが、英雄候補だけのことはある。創られた〈救世主〉」
「どこまで知っている?」
ようやく、質問が口に出た。感情のない声で。
「あなたたちが怪しい動きをしていることは、すでに一部で噂になっていますよ。だから、管理局側もサイバーフォースを投入していた……その動きを見ていれば、あなたたたちの側の行動も大体わかりますからね」
「あんたは、オレたちを止めるのか?」
シータが、手を放した。クレオは弾かれたように一歩離れ、相手と向き合う。
「それは、あなたたちの行動にもよりますよ。あの塔であなたの同僚に出会ったとき、あなたがどうするか」
「お人好しだな。殺しておけばよかったと思うかもしれないぜ。そんな危険な橋を渡るのか?」
「わたしが死んでも、悲しむ人はいませんからね。それに、あなたの生死を決めるのは、あなたの意志を見届けてからでも遅くはない」
「オレは……役目を果たすだけだ。英雄になるための役目を」
声をひそめながらも、少年は強い決意を込め、宣言する。周りに向けてではなく、何より、自分の中の迷いを振り切るように。
シータの表情が、初めて変化する。それはどこか、哀しげに見えた。
「あなたはそれでいいのですか? 傀儡となって、与えられた役割を演じ、創られた運命を辿り続けるままで」
意外なことばをかけられ、英雄の役目を与えられた少年は、わずかに目を見開く。
未来を選択することも許されない運命に、疑問を抱いたことは少なくなかった。
新しい生命の進化の形態をめざそうという思想を持つ、啓昇党の一員である両親の間に生まれ、当然、彼もその思想の影響を受けて育った。
やがて生活の場がサイバースペースに移り、その思想や党の活動が少しずつ変化し――疑問を持つことが多くなっても、英雄の役目に選ばれ、両親の喜びを目にし、訓練に打ち込んでいるうちに、嫌なものはすべて意識の外に追い出していた。
その忘れていたい事実を、突きつけられて。
思わず、迷いが顔に出る。
「あなたが、本当に英雄であり続けると言うのなら……」
クレオの表情を見て、シータは無表情に戻り、言った。
「いつかは、わたしたちを殺そうとするのでしょうね」
そこまで告げると、彼は興味を失ったように、背を向けて歩き出す。
リルを。ルチルを。ステラを。シータを。
いずれ、その手にかけなければならない――それは、先ほどの交信で言われたことでもある。
残された少年はしばらくの間、静まり返った廊下に立ち尽くし、自分の両手を見下ろしていた。
空は晴れ渡っていた。
風は時折そよ風が吹く程度で、旅にはいい日だ。もしシステムの異状がなければ、多くの冒険者が旅立つ姿を目にしたに違いない。
しかし、実際にカロアンの門をくぐったパーティーは、一組だけだった。
「何か、情けない連中だねえ。ちょっとくらい出てみりゃいいのに」
盗賊系の役割として、やはり先頭を歩きながら、驚きの表情で見送る他の冒険者たちの顔を思い出し、ルチルが溜め息交じりに言う。
昨日のリザードマンの異常発生を考えれば、町の外に出ないのは正解に思える。だが、スリルを求めるルチルの目には、黙って町にこもるのは冒険者にあるまじき行為に映るらしい――と、リルは思った。
彼女はステラの車椅子を押し、ルチルとクレオの後ろにいた。最後尾では、昨日と変わらずシータが周囲に目を配っている。
ステラは一人でも問題なく行動できるらしいが、今は、車椅子の上で寝息をたてていた。
「どんな夢を見てるんだか……」
仮想現実のなかでも、夢は見る。幸せそうな少女の顔を後ろからのぞき込み、リルはほほ笑んだ。
顔を上げたとき、彼女は、先を行くクレオがあくびをしているのを見咎める。
「眠れなかったの?」
「ああ……ちょっと緊張しちゃってさ。でもまあ、大丈夫だから」
少年剣士は慌てたように手を振り、愛剣の鞘を叩く。
戦えないほど弱っているわけでもないらしい、とわかって、リルはそれ以上追求しないことにした。
彼女は、知っている。昨日、クレオが一度部屋を出てから、朝まで戻らなかったことを。それに、シータが一度彼を追って出入したことも。
二人とも昨日と変わりない様子で振る舞い、リル自身もまた、何も知らないかのような態度をとっていた。
今は、それでいい、と彼女は思う。
今は、塔で起こる何かに向かう道しかない。
「どうやら、ここまでは問題なく来れたようだね」
ルチルの声で、リルは足を止める。
町から北上して間もなくの所にある、アガクの塔。その扉が、目の前に鎮座していた。
この塔は、レイフォード・ワールドの各地にあるものの中では、高いほうではない。それでも、カロアンの町にあるどの建物よりもはるかに高かった。一度塔をクリアしたことのある者は、塔が四階建てであると知っている。
だが、今は構造がおかしくなっている可能性もあった。
「永遠にループするように変化していないことを祈ろう」
少し緊張した声で言って、クレオがルチルのとなりから進み出て、両開きの木の扉を押し開けようとする。
彼の両手が、扉の表面に触れた途端――
『やっときたか』
男の声が、どこかから響いた。
それぞれが、反射的に武器に手をやる。ステラも目を覚まし、即座に周囲を見回した。どこにも、声の主らしい姿はない。
『来るべくして来た、運命に導かれし五人……いや、四人、のようだな。変わった者たちだ』
「誰だ!」
周囲の気配を探りながら、クレオは叫ぶ。
落ち着いた、少し年季を感じさせる男の声は、塔の内部から響いているようにも思えた。だが、それはあくまで感覚のみの印象で、音声は伴っていない。頭の中に、直接ことばを伝えているかのようだ。
『わたしは読唇者。ここで奇妙なことが行われるようなので、潜入した。しかし、ここはどうやら、きみたちが最上階に辿り着かなければ、展開しないらしい』
読唇者、と聞いて、ステラ以外の顔色が変わる。
有名なハッカーにして、ワールド殿堂入り十人のうちの一人。普通の冒険者はとてもかなわないような相手だ。
一瞬怯みかけて、クレオは気力を奮い立たせ、剣の柄を握る手に力を込める。
それをどこかから見て、読唇者が伝えたのは、控えめな笑い声だった。
『きみたちの邪魔をする気はない。おそらく、システムの異状の原因となった者たちは、なかのほうだろうからな。ただ、ダンジョン攻略は早く頼むよ。異状が悪化すれば、わたしがこうして潜むことも難しくなるかも知れんからな』
「ご注文通り、攻略できるといいのですけどね」
のんびりした口調で注文をつける相手に、シータが苦笑交じりにつぶやく。
どうやら、それを最後に、読唇者との交信は切れたらしい。なかに魔物の気配も感じられなかったので、クレオが改めて、扉を押し開く。