プロローグ
『間に合わなかった』
割れた窓から煙を噴く管理局の建物を前に、男――〈読唇者〉はつぶやく。
もはや、セルサスの人工人格は切り離され、世界の制御権の一部は、啓昇党に握られているだろう。それを可能にしたクラッカーたちは、とうに逃げ去っている。
ここに居ても仕方がない。
男は、姿を見せぬまま、管理局を離れようとする。
移動は簡単だ。ただ、自ら編み上げた道に従い、流れていけばいい。
しかし、意識を別の場所へ移す前に、彼は、電子の海が揺らぐのを感じた。
――光に包まれた、翼を持つ白い少女。
今まで、何も存在しなかったはずの場所に、天使のような姿が浮かび上がった。まるで、淡い光の筋が編み上げた、繊細な芸術品のようだ。
その、異世界の存在のように神々しくもはかなげな少女の名を、男は知っている。
ルシフェル。電子の海――レチクルに堕ちた天使。
読唇者の存在に、気がついていないのか。少女は、彼に背中を向け、煙の中をのぞき込むようにしていた。
待ち受けていたような彼女の前に、一瞬の後、一人の少年が現われる。
読唇者は、それを見届けることにした。一体、この世界を安定する働きをする者として有名なルシフェルが、何の用事で、あの少年を待っていたのか。
煙の中から飛び出してきた、黒いマスクとバンダナで顔の大部分を覆った少年は、怯んだように足を止め、少女の姿を見上げる。
「きみは、何だ……管理局の者か!」
少年は、啓昇党の一員らしかった。とはいえ、管理局を直接襲撃するのに使われた、末端の者だろう、と読唇者は思う。
「あたしは、ルシフェル。あなたは、なに……」
「オレは……」
少年は、マスクで少しくぐもったような声に、迷いを表わす。
「この任務に、選ばれた者。この世界を、新時代に導く者だ!」
ルシフェルの、光が強すぎて白としか見えない目が、無感動に、少年の目を見下ろす。その様子は、とても生き物とは思われない。
「それは、あなたの意志なの?」
淡々とした問いかけだった。
しかし、そのことばは、少年の心にかなりの衝撃を与えたらしい。
「そんなこと……仕方がないじゃないか。オレには、他にどうしようもないんだ。一体、どうすればよかったって言うんだ!」
「好きなようにすればいいじゃない……」
透明な、涼やかな声が、余韻を引いて消えていく。
幻のようだった。
今、夢から覚めたように、少年は見上げる。どこにも、ルシフェルの姿も、それがそこにあった痕跡も見当たらない。
全部、気のせいだったんだ。
密かに見つめる読唇者の前で、少年はそう思い込むようにして頭を振り、再び、走り始めた。
第一章 異変 ―闇に堕ちる星― (1)
桜の花びらが降っていた。
まるで、雪のように、薄い桃色の花びらが舞い散っていく。
それは、暖かな春の空気に包まれるような、ぬくもりを感じさせる風景だった。
年季を感じさせる、幹の太い桜の木の下に、人影が見える。若い人間らしい姿は、桜吹雪のベールに隠れてよく見えないが、かすかにほほ笑んでいるように見えた。
少女は、手を伸ばす。桜吹雪に負けないよう、絶対に相手に届くよう、つま先を立てて思い切り、手を伸ばす。
もう何年も、そうしているような気がした。そしていつも、手が届く前に求める相手は消えてしまうのだ。
今回も、どうせ同じだろう。
心のどこかで予想しながら、相手に触れようとする。
伸ばした指先に、暖かいものを感じた。
確かに、何かが触れた。そのことに、少女は驚いた。
心地の良い温もり。
馴染みのない、存在感。
それでいて、記憶のどこかからこみ上げる、懐かしさ。
手が到達すると、今まで抱いたことのない欲望が次々とこみ上げてくる。
ずっと触れていたい。もっと近づきたい。顔が見たい。声が聞きたい。
あふれ出しそうな想いに、満たされることのない欲望。
その葛藤の中で、周囲の景色が薄れていく。待って、と声を出したかったが、出せばさら早く、世界が崩れていくような気がした。
やがて、枝にあふれていた桜もすべて散り、花びらの最後の一枚まで、広がり始めた闇の中に吸い込まれていった。
淡い闇の中で、彼女は目覚めた。
もっと続いて欲しかった夢は終わったものの、心地よい眠りと夢の中から覚醒するのは惜しい気もした。だが、眠り続けていては生きているとは言えない、というのが彼女の信条だ。生きてることを感じるために、彼女は意識を闇から引き出して、頭を振った。
振ったついでに、周囲の景色が視界に入る。いつもと変わりない、クールで機能的な、彼女自身の部屋だった。
ベッドから降りて目の前の壁には、大きな鏡がある。そこに映るのは、長い銀髪に大きな灰色の目の、小柄な少女。彼女は余り気に入っていない、〈銀の妖精〉という異名で呼ばれることもある姿。
「異状なしか」
左右の髪の一束ずつを頭の上でまとめた団子を、軽く両手で触り、つまらなそうに言う。
変わったのは、ただ、夢の中だけ。
それだけでも、いつもよりはマシになったかもしれない、と思いながら、靴を履いて歩き出す。
部屋のドアには、取っ手がなかった。少女が灰色のドアに近づくと、それは小さな噴射音を鳴らし、上にスライドする。しかし、そのドアの先は黒一色だった。
「いつものとこ」
闇に一歩踏み出し、彼女は言った。
瞬間、周囲の景色が一変する。
「おお、妖精のお出ましか」
カウンターに座る男が冷やかしの声を上げた。その向こうでは、少し恰幅のいい体格のマスターが、自慢のグラスを丁寧に拭いていた。
少女の部屋は、もう、視界のどこにもない。木造の壁と天井に囲まれたこの空間には、丸テーブルがいくつも設置され、大勢の客が食事をとったり、ワインやビールを楽しんだりしていた。部屋の隅には大きなモニターが設置されていて、エア・ホッケーの試合の観戦で盛り上がっている一団もある。
「リル、久々だな。例のアドベンチャー・ワールドには飽きたのか?」
少女がカウンターに近づくと、マスターが親しげに声をかけてくる。
リル、と呼ばれた少女は席につくと、置かれていたメニューの一覧を見た。
「どこのワールドも、経過が違うだけで、やることは一緒だよ。最近は、技能体験系に興味があるの……とりあえず、スパイシーグラタンとアイスティー。メニュー変わってないわね」
「自分の記憶で勝負したいからな。セルサスに頼むと、どこの店も同じ味になっちまう」
マスターは苦笑交じりに答え、料理のために奥の厨房へ向かう。
「技能体験系って、まさか、料理とか裁縫とかか?」
先ほどの、カウンター席の茶色の髪と髭の男が、蒸留酒入りのコップを手に、リルにからかうような笑みを向けた。少女は顔も上げず、それに答える。
「そういうのに向いてないのはわかってるでしょ。あたしが訓練する技能って言ったら、護身術とかサバイバル技能とかよ」
「そりゃそうだ」
「もうすぐ、ジルを素手で倒せるかもね」
にこりともせず、いつもと変わりない調子の彼女のことばに、男は驚いたように顔色を変えた。
「じょ、冗談だろ?」
「どうかしら」
本心のわからない曖昧な調子で言い、曇り空のような灰色の目を天井に向ける。一見、何も考えず、放心しているだけに見えた。
しかし、付き合いの長いジルは、少女が五感以上の感覚を使い、きちんと周囲の状況を把握していることを知っている。
「どうだ、見つかったかい? 憧れの人は」
憧れの人。
その単語を聞くと、少女の眉が少しだけ、ピクリと持ち上がる。
情報屋ジルも長い間追いかけている、リルの憧れの人物。あらゆるワールドに精通し、殿堂入りした十人の内の一人。その中でも最年少の人物が、クレアトール、と名のる少年だった。
その正体は、ルシフェルなどと同様にハッカーとして有名な者のご他聞に洩れず、政府が組織した特殊治安部隊の仮想現実のスペシャリストだと噂されていた。
「何か、わかったの?」
さして期待は見せず、リルは視線を向ける。
コップを回して氷の音を鳴らしながら、男は小さく笑みを浮かべた。
「大したことじゃないけどな……最近、あちこちが騒がしい。どうやら、お前さんの目標の人物も、動き出すみたいだぜ」
「そう……」
「仇討ち、か。お前も、意外に執念深いな」
仇討ち。そのことばに、少女は目を伏せる。
「そんなんじゃない。あなたには関係ないことよ」
「つれないね。ずいぶんご執心のようだから、こんな情報でもデートの一回分の価値はあるかもしれないと思ってたんだけどな」
何かを期待するようなにやついた笑みを浮かべて〈銀の妖精〉を見るジルに、少女は、冷めた目を向ける。
「護身術の実践相手にならなってもいいわよ」
「よ、よしてくれよ……オレは貧弱なんだぜ」
焦ったように言って、男はコップの中の液体を一気に飲み干す。
「おい、オヤジ、つけといてくれよ」
「コラッ、いくらたまってると思ってるんだ?」
奥からマスターが怒鳴るが、ジルは聞いていない。耳に届いているのに聞こえないふりをして、逃げるように店を出て行く。
しばらくして、盆に料理を載せたマスターが厨房を出てきた。
「まったく、しょうがないヤツだ。情報屋としての腕は確かなんだが」
「あの様子だと、他に目新しい情報はなさそうね」
リルはフォークを取り、グラタンを食べ始める。完食できた者は数少ない、激辛のグラタンだ。これが彼女の一番の好物だと、一目で見抜ける者はいない。
彼女はそれを、黙々と食べ終えた。表面からして真っ赤な、見るからに辛そうなグラタンがどんどん少女の小さな唇の奥に消えていくのを、マスターは、何かおぞましいものを見るような目で見守った。
「味は落ちてなかったか?」
少女が食器を返すと、彼は恐る恐る問う。
「おいしかった」
無愛想な、その一言で、マスターは満面の笑みを浮かべる。
「まだ、わたしの腕も落ちていない……もとい、記憶も薄れていないようだね」
盆にすっかり空になった食器を載せ、彼は厨房に戻る。
その背中を眺めながら、リルは宙に視線を漂わせていた。だが、目が何も映していない間も、その耳が周囲の会話を捉えている。
「知ってるか? またルシフェルがクラッカーをコテンパンにしたらしいぜ」
「政府が作っといたサイバーフォースの特殊部隊だって話もあるけどな。セルサスは知らないと言ってる……しらばっくれてんのかどうだか」
「ま、おかげでワールドが破綻しなくて済んでんだ、ありがたいことだよ」
となりのテーブルの男たちが話しながら、ビールのジョッキを傾けた。
会話がひと段落したとき、また新しい客が入ってきたらしく、バタン、と少々乱暴な調子の音が聞こえてくる。
ぼうっと宙を眺めていたリルは、それにつられて、後ろを向いた。
どういうわけか、木製のドアの前に、人垣ができている。
立ち上がってざわめいている客たちの中心にいるのは、黒目黒髪の少年だった。年の頃は、一七、八程度。リルよりいくつか上といったところか。
リルが彼のほうを振り向くなり、目が合う。すると彼女は、急に視界のなかで少年の顔がズームアップされたような気がした。手首を握られる感触で、それが気のせいではなく、実際に少年が目の前に迫って来たことに気づく。
少年は、まだあどけなさの残る顔に真剣な表情を浮かべ、じっとリルの目を見つめると、意を決したように口を開いた。
「お嬢さん……結婚してください!」
キメの顔で、勢いよく告白する。
突然のことに、リルは不思議そうに首をかしげた。それでも、その表情に動揺は少ないが、少年の後ろの客たちは、しばらく口をぽかんと開けている。
やがて、少年に怒声が浴びせられた。
「お前、何しに来た!」
「銀の妖精に気安く何言ってんだ!」
「オレたちのアイドルにふざけたこと言うな!」
酔っ払いの投げた空の紙コップが、少年の後頭部に当たった。それでも、少年は微動だにしない。
リルは、他の客から妙なことばを聞いた気がしながら、それを自分の中で、なかったことにした。