第一章 異変 ―闇に堕ちる星― (2)
「あなた……誰?」
リルが無感動に問うと、少年は、反応があったのがよほど嬉しかったのか、頬を紅潮させて答える。
「オレ、クレオって言うんだ。きみは?」
「あたしは、リル」
短く答えて、彼女は素早く、自分の両手を少年の手から解放した。
「あなた、何の用でここに来たの?」
「あ……」
彼女のことばで、クレオは本来の目的を思い出したらしい。
「そうだ! レイフォード・ワールドで、塔に閉じ込められてる連中がいるんだよ。セルサスに言っても反応ないし、誰か、パス持ってる人、一緒に来てくれないかな?」
「塔って、アガクの塔? あそこは、かなりレベルが必要なはず」
いくつもあるヴァーチャル・リアリティー・ゲーム――VRGのなかでも、異世界ファンタジー風のRPGは数多い。そのなかで、エメラ・レイフォードが製作したレイフォード・ワールドは、二番目に多い利用者を得ていた。
「ああ、オレ、レベル二三まではあるから、あと何人かいれば大丈夫なんだ。ただ、ここからレイフォードに行くのに、スペース・ワールドを通らなきゃいけないけど。どうも、記録されてる前回の移動がそのまま有効らしい」
本来なら、この仮想現実を支配するAI、セルサスが移動を管理しているはずだった。どこでも行きたい場所を言えば、セルサスがそこに移動させてくれる。
リルは、目覚めてからここへ来るまで普通通りの気分でいたが、自室の部屋からここに移動できたのも、いつもそうしていたのが記録されていたからというだけらしい。
ためしに、彼女は天井を仰ぎ見た。
「セルサス?」
周囲の者たちが、邪魔をしないように口をつぐんだ。皆、彼女の呼びかけが大切なものだということを理解している。
しんとなった店内から、声という存在がなくなる。それは、数分の時間が経過しても、変わりなかった。
「やっぱ駄目みたいだな」
「それじゃ、オレ、家に帰るのにスペース・ワールド通んなきゃなんねえよ」
酔っ払いたちの会話をきっかけに、店内がざわめく。
スペース・ワールドは、宇宙空間を舞台としたVRGだ。こちらも、人気の高いワールドである。
「システム自体に問題があるなら、あたしたちがこうしていることもできないはずだし……基礎プログラムは動いているみたいね。セルサスのパーソナリティだけが停止しているか、機能を制限されているんでしょう」
リルは立ち上がり、ポケットからコインを出してカウンターに置いた。
「行くのかい?」
本来代金は取らないが、心づけとして珍しい装飾のコインを拾い上げながら、マスターが尋ねる。
クレオが、嬉しそうに目を見開いた。その期待に応えるのは少々嫌だったが、リルは、小さくうなずく。
「あたしは、レイフォード・ワールドでも、スペース・ワールドでも、レベル二〇以上はあるわ。その条件に合う人は、ここじゃ他にいないでしょう」
「ありがとう、リルちゃん!」
クレオは手をのばし、再び少女の手首を取ろうとした。
その手をすり抜け、リルはドアに向かう。
「早くしないと、置いてくわよ」
軽く手を振り、ドアノブを回す。そっと押し開けると、先には闇が広がっている。
駆け寄ってくる気配を背中に感じながら、ためらいもなく一歩踏み出した途端、周囲の景色が一変した。
高い天井に、柔らかい光を放つ灰色の壁。壁には等間隔で透明な素材が使われ、外の宇宙空間を眺めることができた。
スペース・ワールドの出発地点、宇宙ステーション・ゼロのロビーだ。空間の中央には長椅子が並び、多くのワールド参加者が休憩し、あるいは仲間と作戦を話し合ったり、談笑している。
「ここからレイフォード・ワールドに行く道筋はわかってるの?」
スペース・ワールドに入った途端、リルとクレオが今までこのワールドで手に入れた装備が手元に出現する。リルは、玩具のように小さな光線銃、ハンドレイガンを、白いコートの内ポケットに入れていた。
一方のクレオは、対レーザー用の特殊繊維で編まれたチョッキを着て、大型レイガンをベルトに吊るしている。
「ちょっと遠回りになるけど、ここから惑星スノークに行って、そっからイルズ・ステーションに行くんだ。そこから友だちがレイフォードに行った直後、セルサスが応答しなくなったから、間違いない」
「じゃ、スノーク行きのバスに乗りましょ。あなたもパイロットじゃないみたいだし」
多くのVRGでは、最初に自分のクラスを選ぶ。冒険ファンタジーなら戦士、魔術師、格闘家など、このスペース・ワールドでは、パイロット、銀河警察の刑事、宇宙海賊、商人などだ。
「オレが払っとくよ」
クレオがチョッキからクレジット・カードを取り出し、フロントに目をやる。
しかし、その視線の先にあったフロントが、大きな男の身体で隠された。駆け出そうとしていたクレオが見上げると、体格のいい三〇前後の大男の顔が、愛想笑いを浮かべている。
「ぼうやたち、アシが必要なんじゃないか」
男に見下ろされ、クレオは一歩、後ずさる。その後ろで、リルが見上げた。
「あなた、運び屋?」
運び屋も、パイロットの一種だ。大男は懐から、パイロット用のIDカードを取り出して見せる。そこには、ジェンガン・ローアという名が書かれていた。
「行きたい場所はどこだ? バスより、二割引で連れてってやるぜ」
「本当にそうなら、頼みたいところだけど」
バスと違い、直接イルズ・ステーションに向かえるなら、魅力的な提案だった。もちろん、このゲームを何度も経験しているリルは、運び屋のふりをして客を襲う宇宙海賊などがいるのも知っていた。
それでも、返り討ちにする自信があるから、彼女はジェンガンの提案をのむ気になった。
「ただ、できれば同じ行き先のヤツをあと二人まで捜して乗せたいから、同乗者がいてもいいならの話だけどな。もう十分ほど待ってもらえるか?」
「その条件でいいわ。ここで待ってるから」
クレオが迷っているうちに、リルがそう決めて、ロビーの端に備え付けられた長椅子に座った。
しばらくすると、ジェンガンが一人の少女を連れて戻ってくる。
その少女はクレオと同年くらいで、リルとはまったく逆の雰囲気をまとっていた。
炎のような短い赤毛に、日に焼けた肌。露出度の高い涼しげな服の上から、ポケットに様々な小道具入りのベストを着ている。ベルトにホルダーごと吊るされた、奇妙な紋章が刻まれた見かけない形の光線銃が目立つ。
「あら、キミたちが同乗者? よろしくね。あたしはルチル。キミたちは?」
「リル」
「オレは、クレオ。一八歳。よろしく!」
明るい声で問う少女に、リルは短く答え、クレオは背筋を正して自己紹介した。
「今日の客は三人か。行き先はイルズ・ステーション。よろしく頼むぜ」
ジェンガンが、三人の少年少女を、個人シャトル用のプラットフォームが並ぶポート04に先導する。
プラットフォームには一機ずつ、シャトルが横付けされていた。シャトルが発進信号を出すと、進行方向にあるハッチが開く。同時に見えないシールドがシャトルからハッチまでのゲートを包み、周囲の気圧を保護する。
普段なら、真空に投げ出されたところで『現実に』死ぬわけではない。どのVRGも、ゲームオーバー後は、所持金ゼロやスタート地点に戻されるといったペナルティを受けるだけだ。セルサスの機能が制限されている今は、どうなるか誰にも保障できないが。
ジェンガンのシャトルは弾丸に似た形状で、灰色の五人乗りのものだった。側面ハッチが上に持ち上がり、パイロットのジェンガンは操縦席に、その後ろにリルとクレオ、最後部座席にルチルが座った。
『快適な旅をどうぞ』
テロップが表示された前面モニターに、開いていく出口が映る。ジェンガンは慣れた調子で操縦桿を握り、シャトルを操った。
シャトルがステーションから、暗黒の宇宙に飛び出す。遠くには、尾を引いて画面の外へ流れる光の点も見えた。
方向転換をするときにかすかに圧力を感じるだけで、何も恐れるようなことはなかった。このスペース・ワールドでは日常的な移動だ。
「ねえ、着くまでどれくらいかかりそう?」
一番後ろから、ルチルが身を乗り出してきいた。
「そうだな。普通に行けば一時間ってところだ。カットするならしてもいいぜ?」
ゲームだけに、本来必要ない時間を体感的にカットすることができる。無駄な時間まで疑似体験したくない参加者のための機能だ。
「えー、あたし、いいや。同乗者のみんなとの時間も楽しみたいし」
席の後ろから、ルチルはクレオの首に腕を回した。からかうような笑みで少年を見下ろすのに対し、クレオは困ったようでも嬉しそうでもある、にやけた笑みを浮かべる。
「そうですねえ~……オレも、色々楽しみたいことがあるからなあ」
「この色ボケ餓鬼が」
ジェンガンのつぶやきは、鼻の下を伸ばしている少年の耳には届いていない。
リルは、じっと窓を模したモニターを見ていた。変わった天文現象の起きる宙域でも通らない限り、宇宙空間の旅は、慣れてしまえば退屈なものだった。
それでも、彼女もルチルと同じく、体感時間をカットする気はなかった。ランダムで発生するトラブルに対応するには、やはり普通に時間を体感していたほうが有利だ。
「ね、二人とも、どの辺り出身? あたしは、大体この辺か、ラクロア・ワールドをうろついてるんだけど」
ラクロア・ワールドは、様々なリゾート地を合体させたようなワールドである。ビーチに水着姿で海水浴も、アイスクリーム片手に遊園地を征服するのも、ルチルにはよく似合うように思えた。
「オレは、ここかレイフォードか、2Dゲーム・アーケードかな。あとは、部屋でゴロゴロしてるって感じ。……ねえねえ、リルちゃんは?」
突然クレオに話を振られて、リルは眠たげな顔で振り返った。
「色々なワールドに行くわ……そうでないときは、ギルサーの酒場」
「あそこに行けば、リルちゃんに会えるかも知れないのかあ。覚えておこう」
いや忘れてくれ、とリルが内心思ったかどうか定かではない。
彼女が再び窓の外に目をやったとき、ルチルが思い出したようにことばを続ける。
「そういやさ、レイフォードにサーペンス・アスパーが現われたって知ってる? あいつ、先週、例のルシフェルにお灸を据えられたそうだけど」
サーペンス・アスパーの名は有名だった。
一時期、VRG最高の参加者数を誇ったシュメール・ワールドをはじめとする多くのワールドのレベルランクで、一位を保持していた男だ。クレアトールや〈読唇者〉、ペリタス兄弟同様、一応殿堂入りの十人にも含まれているが、彼には常に、クラックによるデータ改ざんの噂がつきまとい、やがて一度は逮捕され、表舞台から姿を消していた。
しばらく前から、あまり参加者の多くないワールドに復帰し始めたということは、リルやクレオも耳にしていた。
「レイフォードでも何かやらかすかもしれないな。ま、ズルして得しようとするヤツなんで、すぐにしっぺ返しを受けるよ」
「まあ、プレイヤーにも色んなヤツがいるからな」
振り返りもせず、操縦桿を握ったまま、ジェンガンが口を挟んだ。
「世の中にゃ、こんな世界にいるくらいならずっと寝てたほうが面倒がないってヤツや、親兄弟とも二度と会えないなら、二度と目覚めないほうがいいってヤツもいる。それだけなら、他人に迷惑はかけないが……気に入らないワールドを潰そうってヤツ、気に入らない人間の意識体を消しちまおうってヤツもいる」
「クラッカーってヤツだねえ。逆に、役に立つハッカーもいるけどさ」
「そうだな。ルシフェルや読唇者、クレアトール、〈ブルーラージ〉みたいな連中だ」
ルチルのことばに、パイロットは感心た様子でうなずいた。同じく、クレオも腕を組み、大げさに首を縦に振る。
「セルサスがいれば大丈夫だし、悪いのがいればいいのもいるってことだよ」
「そうだね」
赤毛の少女は、日に焼けた顔に、眩しそうなほほ笑みを浮かべる。クレオの純粋さをうらやむような笑顔だ。
その笑顔が消えた後、不意に、彼女は声のトーンを落として、独り言のようなことばを口にした。
「いつか、こういう生活とオサラバするときも来るのかな……あたしはけっこう、気に入ってるけどね」
こういう生活――仮想現実、ヴァーチャル・リアリティー内での生活。
五年ほど前まで、その外側、現実世界にも生活はあった。地球上の文明は発展し、ある程度の人間たちが太陽系外のコロニーで暮らすまでになっていた。
しかし、突然現われた小惑星の落下を止めるほどには進歩していなかった。地球上の人類の半分は宇宙船で脱出できたが、もう半分は残るしかなかった。そこで選ばれた手段が、凍結睡眠である。
地下シェルターに並ぶ、肉体の老化を減速させるカプセルに入り、それぞれの脳をセルサスの創り出す仮想現実につなげる。その仮想現実のなかで生活し、あるいは眠り続けながら、地球上に残った人類は待ち続ける――破壊された地上が浄化されるか、脱出した人類が迎えに来てくれるまで。
小惑星との衝突で死傷者は出なかったが、家族と生き別れた者も多い。彼らは、もう、二度と会えないと覚悟していた。
「早く……脱出した人たちが迎えに来てくれるといいけど」
少年が、天井を見上げた。
そして、肩にかかる日に焼けた腕に気がつく。視線を反対側にやると、赤毛の少女の顔があった。寝息が頬にかかり、彼は赤面する。ルチルは、少年に背中からかぶさるようにして寝入っていた。
目のやり場に困って、リルを見る。リルのほうも、静かな寝息をたてていた。クレオは、その、妖精の二つ名に相応しい寝顔に見入る。
目が離せずに、じっと見つめていると、あたたかそうな襟のファーに顔を埋めるようにして眠る少女の唇が動く。少年は見ているのがばれたか、と焦るが、少女が目覚める気配はない。
「お母さん……」
彼女の唇から洩れたのは、かすかな、ささやきのようだった。
そのことばに、クレオは一瞬、胸を衝かれたように動きを止めた。しかし、彼のその感情を、太い声が拭い去る。
「両手に花ってヤツだな、坊や」
操縦席から、ジェンガンが意地の悪い笑みを見せた。
クレオが反論しようと口を開きかけたとき、リルが彼の肩にもたれかかった。少年は思わず、口を閉じて身体を緊張させる。
「あと十分足らずだ。それまで幸せを噛みしめてな」
ジェンガンのことばに内心うなずきながら、彼ははかない幸福の時間を楽しむことにした。