『どこかに気分転換に行かない?』――時間をもてあました桐紗の提案を受けて、昼食後、美佐子は早速、楽駕高校の裏山に出かけてみることにした。
家政婦の光江も休み、昼前に祖父も迎えに来た道場関係者たちと出かけ、静見はいつもの通り縁側で睡眠、他の居候たちは顔も見せない。この状況で家の中に娯楽を求めるのは難しかった。テレビを見ながらゴロゴロするという選択肢もあったが、高校生がせっかくの休みをそのような過ごし方で消費するのも味気ない。
少女たちはそんな思惑で家を出てすぐ、メテオ――もとい、九虎丸を連れた竜樹と出会う。
「こいつが静見さんに会いに行くって言うから、ついてきた」
少年はつまらなそうに言うと、少し離れたところに腰を下ろしている黒猫に目を向ける。
「あっしは別に、一緒に行こうなどと頼んでやせんぜ。竜樹の上がオナゴたちに会いたいから、ついてきたんでしょうに」
周囲に聞く者がいないと見るや、淡々と述べる。彼の、嘘偽りなく事実を並べただけ、という調子のことばは竜樹にとって痛いところをついたらしい。
「オレはただ、散歩のついでにだな……!」
少年は顔を真っ赤にさせ、口ごもる。美佐子にとって、あまり短気でもない幼馴染みのこういう表情は珍しく思えた。
だが、猫にムキになるのが馬鹿馬鹿しくなったのか、彼はわざとらしい咳をひとつついて、顔色を戻す。
「とにかく、ご主人さまに用があるならとっとと行っちまえ」
「へえへえ、言われんでも」
九虎丸は少し面白がるような調子で言うと、身軽に神代家の中庭へ続く柵を飛び越え、姿を消す。
それを嫌そうに見送ると、少年は溜め息を吐いた。
「しゃべらない頃の方が、まだ可愛げがあったぜ」
「それは、進藤くんの扱いが悪いからじゃないの?」
「まさか。……まあ、確かに可愛がってるとは言えないけど、むしろオレがあいつにいじめられてるんだぞ?」
「そんな大げさな」
真剣な表情がおかしくて、美佐子は笑う。
ふたたび歩き出した少女たちに竜樹も肩を並べた。散歩のついでなのか、同行するつもりらしい。
「それで、どこ行くんだ?」
「高校の裏山に行ってみようと思うの。お祖父ちゃんが、昔の城跡があるって言うから見てみようと思って」
その城跡がどういう歴史を辿ってできたのか、どこまで話すべきか少し迷ってから、美佐子はとりあえず、必要な部分だけ話すことにした。
「まあ、見て面白いもんじゃないかもしれないけど、古い物は貴重だから、行ってみるのもいいかもね」
頭の後ろで手を組んで歩く桐紗の口ぶりは、どうやら大治の話したことを知っている風だった。
それも考えてみれば当たり前のことか、と美佐子は思う。傀儡狩りなら、皆、最初の傀儡狩りの若者が伝え歩いたという傀儡誕生の成り行きの伝承を耳にしているはずだ。
「それにしても、お祖父ちゃんに聞くまで気づかなかったな。こんな近くにそういう城跡があるなんて」
高校の裏山自体には、今までに何度も足を運んでいた。小学校の秋の遠足では、裏山の広場でバーベキューをやるのが恒例行事だ。
静かに木々が茂る山の雰囲気は、嫌いではない。
美佐子は少し浮かれた気分でサンドイッチを作り、小さめのリュックに入れて持っていた。
「まあ、春のハイキング、ってのも乙なものでしょう。桜、咲いてるといいな」
となりを歩く桐紗の足取りも軽い。
裏山は、秋には紅葉、春には桜が楽しめる地元の人々の憩いの場になっている。一度、ゴルフ場が山の上にできるという話が出たこともあったが、土地の者や周囲の住人たちの反対にあい立ち消えになったらしい。
それを美佐子も良かったと思う。あの山の風景は、できる限り自然のまま残しておいて欲しかった。
山道が見えてきたころ、気分よく歩いていた彼女の感覚に不意に何かが触れた。
――見られてる。
それは傀儡の気配を感じた瞬間と、似て非なるものだった。
そっと最小限の動作で振り返ってみる。何の変哲もない、塀と電柱に囲まれた道が続いている。
「美佐子ちゃん、どうかしたの?」
桐紗は、周囲の異変を敏感に感じ取る。
それは予想していたことだが、美佐子は――それに竜樹も、彼女の次の行動に呆気に取られた。
「もしかして、コレのこと?」
そう言って背後にある電柱に歩み寄りつまんで取り出したのは、黒いスーツにコートの男だった。
「いでででで!」
耳を引っ張られた男は慌てて立ち上がり、桐紗が手を離すと逃げるように跳び退く。
「コレ、という扱いはないでしょう、お嬢さん!」
「黙って女の子のあとをつけるような男は、『コレ』で充分だよ」
桐紗が向ける視線は冷たいが、二〇代後半と見えるその男は、少女とは知り合いらしい。桐紗も本気で怒っている様子ではない。
男は頭を掻いて、未だ茫然としている美佐子と竜樹に向き直った。
「いやあ、どうもすみません。この辺を探っている者がいるというので、日潟さんに頼まれて見回っていたんですよ」
「日潟さん……?」
美佐子が覚えのない名を聞き咎めると、それが予想外の反応だったのか、男は困ったように桐紗を見る。
「ああ、言ってなかったっけ。日潟数馬っていうのがあたしの保護者というか、パトロンというか、まあ、そんなもの。で、この人は日潟の部下の三石真。一応刑事なの」
「はあ、どうも……」
頭を押さえたまま紹介を受けてぺこりと頭を下げる男の雰囲気は、まるで、冴えないサラリーマンのようだった。刑事に見えないということは、ある意味、プロらしいと言えるかもしれないが。
「刑事ねえ……それで、この辺りを探っている者がいるって?」
半信半疑な様子で、竜樹が目を向ける。
「いやあ、あんまりこういうことを教えてはいけないんですけど……探偵がこの辺を調査していたようです。誰が依頼したのかは、ずいぶん慎重に身分を隠していたらしく、わからなかったんですが……」
「日潟も、手回しがいいねえ」
もうそこまでやったか、という調子で桐紗が感歎する。
逆に、美佐子は少し心配だった。神代家の居候には、事情あって家族や知人から身を隠している者もいる。そうでなくても、怪しまれたときになぜ赤の他人を住まわせているのかなど、上手く説明する自信がない。
探偵だけでなく、刑事も警戒すべき相手だった。だが桐紗が神代家にいることを容認しているのなら、こちらはそれほど心配することはないと思えた。
「日潟さんはあなたを心配していましたよ……さあ、そろそろ仕事に戻ります。とりあえず、お嬢さんが元気だと連絡しておかないと、あとでどんな目に遭わされるか……」
ぼやきながら歩み去って行く刑事の姿を、桐紗は顔に苦笑いを浮かべて見送った。
三石の語る日潟像は、娘を心配する父親そのままのようだった。美佐子は、桐紗が『保護者』とどこか他人行儀に言う相手のことなのでもっと感情抜きの付き合いかと思っていたが、そうでもないらしい。
「まったく、うるさいのから離れてせいせいしたと思ってたのに、部下を使ってまで見張るかねえ」
桐紗が文句を言いながら歩き出すと、美佐子はなぜか胸が温かくなったような気がした。
「それが、家族っていうものよ」
「家族、ねえ」
溜め息交じりに言った少女の声は、少し困ったような声色でありながら、どこか嬉しそうにも聞こえた。
他愛のない話をしながらなだらかな山道を歩いているうちに、目的地が見えてくる。
「お祖父ちゃんの話だと、この辺りみたいだけど……」
美佐子は木々の少ない、開けた場所で足を止めた。街を一望、とまではいかないが、付近の街並みを見下ろすことのできる崖の上だ。
「あんまり人の入らないところだって言ってたなあ」
「それならあの辺じゃないか?」
そう言って竜樹が指を差したのは、木々の間に草が長く生い茂った、いかにも人の手の入っていない一角だった。
「あたしも、そんな気がするなあ」
何かを感じたのか、言うなり、桐紗がそちらに向かって歩き出す。それを残る二人も追いかけた。
そこはまったく手入れされていない様子で、草が伸び放題になっている。桐紗はそれを踏んで道を作りながら進んだ。
やがて、彼女は草のない箇所を見つける。段差があり、その段差の下に溝が掘られていた。段差の断面は一見ボロボロの岩肌と見えたが、よく眺めてみるとひし形の模様が等間隔に並んでいると見えなくもない。
「昔の建物の、堀の跡かな」
「城があった、って言うのは本当っぽいな」
後ろで美佐子と竜樹がことばを交わすのを聞きながら、桐紗はボロボロの断面をそっと撫でてみる。
触れるなり、彼女はかすかな映像が目の前に浮かぶのを捉えた。
幾重にも聞こえる苦しみの声と悲鳴、怨嗟の声。老若男女があまたの化け物に喰われ、つらぬかれ、切り裂かれ、大地に無残な死に顔を晒す。
重なった死体と、燃え上がる周囲の家々。そこを縫うように白い傀儡が這う光景が薄く展開され、映像は途切れる。
この城跡が眺めてきた記憶の断片だろう。その記憶が確かなら、今彼女らが立っている大地も大量の血を吸ってきたことになる。
しかし、桐紗はそれに何の感慨も抱くことはなかった。
「この近くで、ちょっと休んでいく?」
「そうだな。昼飯は食ってきたけど、サンドウィッチ食べたいな」
美佐子と竜樹がそう提案するのにも、彼女は反対などしない。
「あたし、タマゴサンドが好きだな」
今を生きるものは、過去に囚われてはいけない。それに、遥か遠い昔までを遡れば、どこの大地にも血と汗と涙は染み込んでいるものだ――と、彼女は割り切っていた。
「ちょっと作り過ぎちゃったから、たくさん食べてね」
「ああ、遺跡の近くで食べるってのもなかなかいいものかもな」
「友達と食べる、っていうのもおいしい理由のひとつだよ」
かつて多くの人々が無念のうちに死んでいった大地で、少年少女たちは楽しげに談笑しながら午後を過ごした。
いつもは静かな時間帯に、いつもはいないはずの者たちが、騒がしくことばを交わしながら、廊下を歩いて来て居間のテーブルを囲んだ。
「光江さんは、あいにく休日でのう。大したものは出せんが、ゆっくりしていってくれ」
「なあに、座る場所さえあればどこでもいい。ここは豪華な酒宴の席だよ」
神代大治に、道場でよく見る顔が三人。一人は、師範の松山司郎だ。
彼らは持ち寄ったつまみや酒瓶を卓の上に広げ、賑やかに杯を交わす。
「……おお、お主も飲まんか?」
大治が、縁側の静見が起きていることに気がつき、声をかけた。
あまり歓迎できない状況に、静見はわずかに顔をしかめる。
「……外でやるのではなかったか?」
仕方なさそうに口を開いた彼に答えたのは、大治ではなかった。
「それが、行きつけの店に寄ったら息子が生まれたから臨時休業だってんでねえ。目出度いことだからしょうがないが、他の店探すのも今更なんで、ここでやることにしたんだよ」
「まあ、十年通った道場を見ながらお別れというのも、良いものです……丁度、桜も見ごろですし」
眼鏡をかけた男が、中庭に目を向けて杯を掲げる。
静見が目を向けると、桜の木の枝に点在する蕾も、だいぶ開いていた。鮮やかな色がそよ風に揺らいで音を立てる。
「人を送り出すことと祝い事に、金と恥を惜しむことはない。ほら、お主もここへ座らぬか。一杯くらい、花見酒を楽しむのも良かろうて」
大治のことばに、静見は少しだけ迷ってから身を起こす。
酒豪たちの中にあって、一杯でも口にしたら、それだけで終わらせてはくれないものと予想はついていた。しかし、情に訴えられては無視できない性質なのだ。
――あるいは、それは桜の妖力による誘いだったのかもしれない。
陽が傾き桜も燃えるように染まったころ、長らく空けられていなかった玄関の戸が開けられる。
「あ、誰か来てるみたい」
玄関に並ぶ靴を見て、美佐子が言う。
竜樹とは帰り道の途中で別れ、少女二人は真っ直ぐ家に帰ってきたのだった。裏山で見つけた城跡は見ていて面白いような類のものではなかったが、緑の中でサンドイッチを食べるのは良い気分転換だったので、散歩としては満足できるものだった。
「お客さんが来てるなら、おもてなししないといけないねえ」
靴を脱いでそろえ、ついでに脱ぎっぱなしの来客の靴もそろえてから、少女たちは夕日に染まる縁側廊下を並んで歩いていく。
廊下を歩き出してすぐに、いつもの姿がないことに気がついた。縁側には歩みを遮るものは何もない。
「静見さん、出かけたのかな?」
美佐子が周囲を見回しながら言い、居間をのぞき込むと、顔をしかめる。離れたところまで漂ってくる酒の匂い。
「もう、お祖父ちゃんたら!」
赤ら顔の大治が気持ち良さそうにいびきをかきながら大の字になっているそばで、机に突っ伏している男や床に転がっている男が三人、酔い潰れている。
卓の上には、空の酒瓶が十本近く並べられていた。
「飲み始めると際限ないんだから……」
「タクシー呼んだほうがいいかな。それとも、この人たち泊まってくの?」
「それも、お祖父ちゃんに訊かないと……ほら、起きて」
孫が揺するのも、今の大治にとっては心地よい揺りかごに等しいのか。なかなか目を覚まそうとしない。
桐紗はそれを横目に、酔い潰れている男たちを座布団の上に寝かせてタオルケットをかけてやると、縁側に出てみる。
――桜の木よ、教えておくれ。
織術は、あらゆるものから記憶を引き出すことができる。彼女は桜の木にささやきかけ、わずかに残る記憶を辿った。
ほんの一瞬、脳裏に、奥へと立ち去る藍染浴衣の後ろ姿が見えた。
――なんだ、家からは出てないんだ。自室にいるのか。
それにしても、珍しい、と彼女は思う。静見が自室で過ごすのは、大抵傀儡狩りから帰ってきてから朝方までだけだ。
――まあ、いいか。どうせ、夜には会うんだし。
気持ち良さそうに寝ている酔っ払いたちを見ながら、桐紗は気楽に頭の隅に湧いた疑問を受け流した。