連日の快晴も途切れ、空は白い雲に覆われていた。
それでも、気温は寒いと感じるまでは下がらない。窓を開けていても、短い間なら半袖でも充分過ごすことができた。
『そっちは大丈夫なのか? 満月まであと少しだが』
耳慣れた男の声が桐紗の白くシンプルな形の携帯電話から流れる。
居候である彼女の部屋は二階の美佐子の部屋のとなりにあった。寝泊りを想定した部屋ではないようだが、充分に広く掃除も行き届いている。
部屋の窓際で空を眺めながら、少女は声に気安く応じる。
「適当にやり過ごすよ。そっちだって忙しいんでしょ? あたしにかまってる余裕、ないんじゃないの」
『そうは言うけどな』
若い男の声に溜め息が交じる。何か気がかりなものを抱えた声色だった。
日潟数馬。それが、桐紗の電話相手の名だ。
まだ三〇歳にもならない彼だが、名目上桐紗の保護者となっていた。しかし刑事である彼に到底『親代わり』となる時間的余裕などなく、桐紗も相手にそれを求めてはいない。
それでも、彼はまさに『保護者』として桐紗の身の安全を気にかけていた。
――物好きだねえ。
感謝の念はあれど、少女の保護者に対する最大の思いはそれである。
得体の知れぬ出身も家族も知れない少女を、数馬は恩人の頼みで引き取った。後に聞いた話では、桐紗が一時的に世話になった神社の宮司に、どうしても返さずにはいられない恩があったらしい。
桐紗がそれを詮索することはなかったが、彼が常に手帳の中に若い女の写真を持ち歩いているのを何度か見て知っていた。その当人はおそらく亡くなっているだろうということ、それが宮司への恩と関係があるのだろうということは簡単に予想できた。
『たまたまそっちで警備に駆り出された警官に聞いたんだが、どうも探偵にその辺を探らせている連中がいるようだ』
たまたまでそんなことが知れるかい、と思うものの、情報の内容は警戒すべきものだったので、少女は気を引き締めて目を細める。
「ふうん……あたしのことに勘付いた者がいるのかな」
『だとしたら厄介だぞ。気付くことのできる者は限られているからな』
「傀儡狩りを含む術師か……過去の記録を洗った誰かが怪しんでるっていう可能性もあるけれどね」
自嘲めいた笑みが、いつもより大人びたような顔に浮かぶ。なるようにしかならない、そのときになれば覚悟はできているという、昏さのある嘲笑。
「ま、適当にやるさ。危なくなったら逃げ出せばいいんだから」
深刻そうな相手の声と正反対のような明るい声をかけて、携帯電話を切る。
――いつまで、この平穏が続くかな。
今この場を包んでいる空気のような、のんびりとした日常がずっと自分を受け入れ続けることができると、彼女には信じきることができなかった。
タン――
静かな道場に、一定の間を置いて、小気味良い音が響く。
神代道場は午後から公民館で勧誘会を開くために、本日の稽古は休みとなっていた。こういった休みがあると、時折、鉄板をかけられた壁に的が設置されることがある。
筒袖の和服に袴、弓道衣姿の美佐子が弓を引いていた。その目は同級生の誰もが見たことのないほど鋭く、何の迷いも感じられない。
事実、今の彼女の心は平静そのものだった。
ここ最近の事件で、精神的に動揺することが多かった。傀儡、などという異質な存在を何度も目にしたのだから、それは仕方がないと言えば仕方のないことだ。
だが、混乱するような事態にあってこそ冷静であれ――それが弓を手にするときに彼女が心がけていることだった。それに、自分の恐怖が傀儡に力を与えているであろうことがたまらなく悔しい。
――もう恐れない。
また傀儡と出会う可能性があるのか、そのとき何ができるのかはわからない。それでも、覚悟だけは決めておきたかった。
矢をつがえ、ゆっくりと弦を押し開く。静かな空気をわずかも乱すことのないような、ぴたりと停止したかまえで、的を見る。
やがて、それが自然の流れであるかのような動作で手から矢が離れ、吸い込まれるように的の中心近くに突き立つ。
的を見ながら静止し続ける美佐子の意識の外から、控えめな拍手が響く。さほどの違和感なく静寂を押しのけるような音だったが、完全に集中していた美佐子は初めて観客に気がつき、目を見開いて振り向いた。
「精が出るのう」
大治が縁側にあぐらをかいて茶をすすっていた。今の今まで、少しも気配を感じさせずに。
相手の姿を認めると、彼の孫は長い息を吐きながら肩をすくめる。
「お祖父ちゃん、驚かせないでよ」
「悪い悪い。でも、お前があんまり集中しているもんだから、邪魔しては悪いかなと思ってな」
その陽気な笑顔を見ると、美佐子はほっと、胸があたたかくなるような気がした。それも当然のことだ、と自覚する。今の彼女にとって、相手は唯一の肉親。最も気の許せる相手なのだから。
幼いころから馴れ親しんだ道場で、弓を手に祖父の姿を目にすると、驚くほど心が落ち着く。決して変わることのないものが地に太く根を張った大木のように、心の芯を満たしてくれる。
「お祖父ちゃん、さ」
澄み切った心の中にわずかにわだかまるものを、できるだけ早いうちにすべて吐き出してしまいたかった。
孫のことばに、祖父は『おう』と声を返す。
「傀儡、って知ってる?」
何となく、気がついていた。
静見をこの家に連れてきた祖父。
もともと歴史や古文書に興味は見せていたものの、妖怪や付近の伝承に傾倒し始めたのも丁度その頃からだ。
祖父なら、知っているのではないか。
「そうだな……」
美佐子の視線を受け止めながら、ぽんぽん、と床を叩く。孫娘は素直に祖父のとなりに正座した。
「昔話をしようか」
直接質問に答えないのは、何度も経験したことだ。それでも、回りくどくても祖父なりにきちんと答えてくれることは知っているので、美佐子は大人しく耳を傾けた。
「あれは……何百年も前の話だ。正確な日時はわからん。ずいぶん昔のことなのは確かだがのう」
――大昔、ある地に妖怪祓いの一族が住んでいた。
時代は、人々の暮らしが目に見えない類のものの働きと密接していた頃。一族は土地の領主に重用され、領主と領民のために働き、領主も善政を布いていた。のんびりとした、崩れることはないと思われるようなのどかな日々が続いていたのである。
しかし、のどかな国ゆえか。領主の息子に一人、労働を厭い、それでいて誇りだけは高い男がいた。城の者たちはその息子を笑い、いたたまれなくなった彼はついに国を飛び出した。
数年後、彼は一人の呪術師を連れて城に戻ってきた。
人々の尊敬を勝ち取りたい男は、血族でもないのに重用され尊敬されている妖怪祓いの一族を妬み、志を同じくする呪術師とともに、禁断の術に手を出す。
――妖寄せの儀式。
大きな力を持った妖怪たちが夜な夜な町を襲うようになり、妖怪祓いを業とする者が毎晩戦に駆り出されるようになった。妖怪を祓うことで賞賛を得ようと、領主の息子と呪術師は妖怪祓いの儀式を行うが、もはや禁術は彼らの手を離れ、城下を襲う妖怪たちは数を増していくのみ。妖怪祓いの一族も、幾人もの犠牲者を出す。
弱った呪術師は、毒をもって毒を制すことを考え、妖怪の魂の欠片から種をつくり出した。負の感情に反応する人形――傀儡を。
阿鼻叫喚の夜の戦場で、妖怪たちと傀儡が喰らい合う。
だが負の感情で動く人形で負の存在を祓おうなど、土台、無理な話だったのだ。妖怪はすぐに傀儡を支配し、脅威は増大した。
呪術師は領主の息子と共謀し、最後の手段として、妖怪払いの一族の幼い少年を誘拐した。高い潜在能力がある、ゆくゆくは誰にも負けぬほどの術の使い手になるだろうと期待されていた少年を。
そして、一族の守る祭壇から盗み出した、強力な妖怪の肝を少年に喰らわせた。妖怪の魂の一部をも封じる干からびた肝を取り込んだ者は、永遠の命と強大な霊力を持つことになるという伝説に従ったのだ。
力を手にした少年を操りの術で意のままに操ることで、負の感情などに左右されることのない、生きた人形を作り出そうとしたのである。
それも、本来ならあまりに強引、あまりに無理な手段だった。優秀な術師の血をひいているとはいえ、妖怪の魂の欠片を融合させるには、人間の肉体は器として脆過ぎる。
少年は妖怪の大き過ぎる力と相容れることのない邪悪な気に三日三晩苦しみ、しかしやがて、呪術師の狙い通りに妖怪の力を手にした――が、その力は想像以上に大きく、操りの術など通用しなかった。
少年はどこかへ消え去り、一族や城の者もほぼ全滅し、国は魑魅魍魎が跋扈する荒れた様相を呈した。領主の息子も呪術師も国外に逃亡しようとしたところで殺され、その際に、傀儡の種があちこちに散らばったとされている。
「……その国、どうなったの?」
祖父が一度口を閉じると、美佐子は初めて質問する。
「その十年ほど後、ある妖怪祓いの若者がその国の妖怪たちを封じ、残ったものを退治し、全国の妖怪祓いの者たちに傀儡のことを伝え歩いたという。おかげで傀儡狩りのための色々な体制ができたそうな。めでたしめでたし」
「めでたいかなあ」
祖父のおどけた調子に口を尖らせてみせながら、もう一度、傀儡に関する昔話を思い返してみる。
最初の傀儡狩りである若者は、行方不明となっていた、妖怪払いの一族の少年ではないだろうか。彼が傀儡のことを伝え、その結果傀儡が存在する場所には必ず傀儡狩りもいる、という制度ができたのではないか。
まだまだ、疑問は尽きない。だが、それを頭の中で質問としてまとめる前に、となりで祖父が立ち上がる。
「そろそろ、勧誘会の準備をしとかんとな。今日は送別会もあるから、帰りは遅くなるかもしれん」
縁側廊下の奥へと歩み去って行く背中を呼び止めようと、美佐子が口を開きかけた、そのとき。
「あ、そうだ」
大治は唐突に振り返ると、
「高校の裏山に、その国の城跡があるぞ。機会があれば見てみるといい。まあ、ちょっとした石が並んでいるくらいだがのう」
と言い残し、そのまま茫然としている孫の視界から消え去っていった。