第四章 新たな器に眠る秘密(4)

 嵐のさなかのような強風が吹き荒れ、イサリは刀を戻して身を丸め、緑の大地の上を転がる。離れたところでは、吹き飛ばされかけたユトをイグナスがつかまえ、地面に伏せた。
 はばたきながら、魔神竜は口を開ける。
 風の弱い辺りまで転がったイサリは腰を落とし、今度は竜に向かって走る。そこへ、赤い光弾が一直線に飛ぶ。
「イサリさん!《
 少女の足は、真っ直ぐ走る動きを止めようとはしない。よける気配のない少女に、ユトの悲鳴のような叫びがあがった。
 光弾が、目の前に迫る。その前に、すでに少女の右手は動いていた。
 素早く抜き放たれた刀の刃に刻み込まれた赤い光が、光弾に飲み込まれたかに見えた次の瞬間、赤く輝く球体は霧散する。
 光が失われたあと、少女にも刀にも、傷ひとつなかった。
「さすがは聖剣……どうやら、溶けないようだね《
「試してから言うな!《
 フェイブルが少し焦ったような声を上げるが、金属をも溶かす光を浴びたというのに、刃は焦げ付くこともなく、赤い文字を浮き上がらせている。
「ユト、今のうちに何か別の入れ物を探して!《
 叫んで駆け出す少女を見送りながら、束の間、茫然としていた大師は我に返る。
 法衣のあちこちをまさぐり、封印に丁度良いものを求める。今になって、荷物を馬車に置き、最低限の物だけしか持たなかったことを後悔するが、もう遅い。
 泣き出しそうな顔で荷物を探っているうちに、彼はふと、ここまでの道のりで乗ってきた、馬車の中でのことを思い出した。
「イサリさん、水筒!《
 二度目の光弾を斬り飛ばした少女がそれに応え、刀を振り抜きざまに左手を腰にやり、水筒を放り投げた。
 竜の目が、それを追う。
 燃やされる――
 焦りに突き動かされ、イグナスが剣を投げた。竜は、光弾をとっさに水筒とは別の方向に向け、飛来した三叉の剣を蒸発させる。
 水筒は、ユトの手に渡った。
 栓を取って顔を上げるなり、彼は、浮遊感を覚える。イグナスがその身を抱え上げ、竜から離れようと、全力で走った。
 仰向けになったユトには、鋭い爪が伸びた前足の裏も、それが頭上めがけて降りてくるのも、はっきりと見えた。
「うわああ……!《
 逃げても逃げても、前足は遠ざからない。
 爪の一本一本が、人の胴など軽く貫ける長さと鋭さを持っているように見えた。悲鳴を洩らすユトを護るように抱えたまま、イグナスは膝をつく。
 離れる動きの止まった二人に、足は狙いを定めるように一瞬止まり、次の瞬間には、体重をかける。
 焦りで手もとが狂わぬよう心を落ち着け、ユトを降ろしたところで、イグナスは右手を腰に吊るしたナイフに伸ばした。
 赤黒い前脚は、落下の動きを一気に速める。
 そのまま二人の人間を踏み潰そうという脚が、落下の途中でビクリと震え、狙いを外して大地を割った。草の絨毯がめくれあがり、土が舞い散る。
 ギャアア、と竜が鳴く。その前脚に、青いナイフが突き立つ。
 イグナスは振動に足を取られながら、急いでユトを連れて離れた。
「早く封印を……
 充分に魔神竜から距離をとって、両手に握りしめていた水筒を確かめる。
 竹の鮮やかな緑に目を落とすなり、大師は、口を大きく開けた。
「あああっ!《
 首をもたげた竜の動きを警戒していたイグナスも、つられて目をやる。
 竹の表面が筋をなぞるように割れ、底に空いた大きな穴からは、薄く緑に色づいた水がしたたっていた。
「倒すしかないかもな《
 ブーツのかかとに隠してあった小型の仕込み剣を引き抜き、イグナスは少女の姿を捜した。
 巨体の後ろのほうに、長いスカートの裾をひるがえして駆け回る少女の姿が見える。イサリは竜の尾に弾き飛ばされそうになりながら、何とか大きな胴によじ登ろうと、尾が止まる隙を探っているようだった。
聖神啓示エル・ディ・スケーラー!《
 封印作戦からいつもの戦いへと頭を切り替え、ユトが法術を解放する。
 土色の穴が目立つ草原の大地から、光の帯が伸びた。竜は先端を伸ばしてくる帯を素早く見回し、翼をはばたかせるが、白い帯は揺らぎもせず、その脚や胴に絡みつく。
 さらにユトは印を結び、エルの守護をイグナスとイサリに与え、イグナスの短剣に破邪の光を宿した。
「魔神兵を倒すのと同じ手段が通じるかわからないが……
 イグナスは駆けた。迎え撃つように、光弾が飛ぶ。
 イサリのように斬ったりはせず、横にかわし、光の帯が創りあげた階段に跳びつく。
 魔神竜は三度翼を動かす。強風に煽られ、人間たちは、帯にしがみつくのが精一杯だ。
 ふと、上思議な感覚が竜に飛びついた者たちの身体を包んだ。
 魔神竜の巨体が、ふわりと浮かんだ。引っ張られるように白い帯が伸び、細くなっていく。
聖神槍エル・ザ・フラメア!《
 ユトの指先が、大きな翼のうちの一方をさした。その指先から放たれた白い槍が、翼に穴を空ける。
 竜が落ちた振動に耐えながら、イグナスは光に導かれるように、太い首の裏に身を引き上げる。一方のイサリは硬い鱗の間に剣を刺し込むことで身体を支え、尾の先からよじ登った。
「こやつにも核はあるはずだ。それさえ取り出せば……
 フェイブルに答えようと口を開きかけたところで、竜が身を震わせた。少女は慌てて刀の柄を握りしめる。
 大きく左右に揺られながら、歯を食いしばって耐える。ここから地面に落下すれば、即死とはいかないまでも、無事では済まない。
 尾を登りきると、イグナスが短剣をかざすのが見えた。
 刃に宿った光が、翼の間をさし示す。
「イサリ、頼む《
 短剣では核に届かないと判断して、イグナスが少女を呼んだ。
 白い帯づたいに、イサリは神官戦士に近づく。
 竜が自分の上に乗っている者へ首をめぐらせようとするのを、はるか下に見える白い姿が、再び光の槍を投げつけて牽制する。竜がユトに口を向けると、今度はイグナスが短剣を鱗の間に刺し、動きを止めさせた。
 振り落とされないように気をつけてさえいれば、恐れることはない。あとは、核に一撃を食らわせるだけだ。
 切っ先を下に向けて刀を振り上げ、イサリは、全身の体重と筋力をもって突き立てた。
 肉を切る、鈊い音が耳に届く。赤黒い血があふれ、靴のかかとを濡らす。
 刀は鱗の隙間に刺し込まれ、刀身の半分まで飲み込まれたところで止まる。体重をかけ、押し込もうとするが、どうしてもそれ以上は刺し込めなかった。
「威力が足りないのかもしれん。ここはやはり……
「あれやるの?《
 少し嫌そうに言って、イサリは刀を抜いた。押し込むのとは違い、拍子抜けするほど軽い手応えで、するりと抜ける。
 黒い刃は血を弾き、すぐにもとの艶と輝きを取り戻す。
「イグナス……ちょっとさがって《
 ああ、と答え、神官戦士は間をあけた。歴戦の戦士である彼にもほかに手はないとは限らないが、ここは、少女に任せることにしたらしい。
 刀をかまえた少女は、じっと標的を見据えながら、小さくつぶやいた。
「本当に言うの?《
「言わないとオーラ出してやらんぞ《
 即答されて、少女は溜め息を吐いた。
 揺れに足を取られぬように踏みしめながら、意識を研ぎ澄ます。
 あらゆる雑念を頭から追い出し、世界に自分と標的だけが存在するような感覚を捉えたところで、彼女は刀を振り上げ、踏み出した。
「あとは野となれ山となれ! 魔神龍爪撃!《
 赤い光が、血を吹く傷口に向かって線を引いた。
 三本の上可視の刃が、硬い鱗を割り、深い傷を刻んだ。魔神竜が叫びを上げ、身体を激しく揺する。 
 吹き飛ばされかけて、イサリは光の帯にしがみついた。
「効いたか?《
 同じく帯にしがみつきながら、イグナスは魔神竜の皮膚に空いた傷口を見下ろした。
 竜は、動きを止めない。低い、怒りのこもった唸りをあげ、身体を大きく揺らす。
「ダメなのかぐっ《
「舌を噛むぞ《
 フェイブルの遅すぎる忠告を聞き流し、手が痺れきたのを無視して、ぎゅっと帯を握りしめる。宙吊り状態のまま、イサリは揺れがもう少しおさまるのを待った。
 しかし、なかなか揺れは収まらない。彼女は身体を持ち上げようと、脚を振り上げた。
「スカートなのを忘れてないか?《
「ちゃんと下にハーフ・パンツはいてるよ。だいたい、今はそんなこと、言ってる場合じゃ……
 膝を帯にかけたところで、ポケットから何かが落ちた。
 いつの間にか近づいて来ていたユトが、それを拾う。
「あああ……
 恥ずかしさと焦りと心配で混乱しながら、下に顔を向ける。
 ユトは彼女が落とした茶色の布を拾い上げ、目を丸くしていた。ここに存在するはずのない物なのだから、驚くのも当然だ。
 そばに寄っていた姿に魔神竜が気がついたのか、それとも偶然か。大きな脚が、白い姿を蹴り飛ばすように動いた。
 ユトはジントの靴下を手にしたまま、地面を転がり、直撃を回避する。
 さらに地団太を踏むような動きをする魔神竜を止めようと、イグナスが何度も短剣を突き立てた。そのたびに竜は叫び、大きく身体を振った。
「どうやら、核はもっと深い場所にあるらしいな……さて、打つ手なし、か?《
 窮地を、むしろおもしろがるように、フェイブルは言った。
「二人とも、しっかり帯につかまって!《
 イサリが文句を返そうとするのを、地上からでもよく響く、ユトの声が遮った。
 何か、魔神竜を倒すための手があるのか。大師の真意がわからないまま、二人は言われた通りにする。
 正面に立つユトの姿へ、竜は口を開く。
 逃げようともせず、見上げる大師の手は、めまぐるしく印を結び続ける。
 竜の口から、赤い光が洩れた。
「ユト!《
 イグナスが警告するが、白い法衣姿は一歩もその場を動かず、何度も手を組み合わせて法術のための印を結び、オーラを練る。
 光弾が、巨大な口から放たれた。
 真っ直ぐ飛んでいく光弾が、小さな姿を隠す直前、聞き慣れた声が響く。
聖神黙示録エル・ア・カルメン
 草原の中に、淡い光が渦巻いた。
 赤い光弾は蒸発し、赤黒い竜の姿が白いベールに包まれ、その輪郭が縮んでいく。
 それは小さな、拳大の光の球にまで収束した。さらに、蛍の光のような大きさにまでしぼみながら、大師が手にしたものの中へ吸い込まれる。
 捕らえるべき相手を失った帯がゆっくりと大地に引き込まれ、イサリとイグナスも地上に降りた。
 少女は、愕然と大師の手もとを見る。さすがのフェイブルにも、ことばはない。
 大師の手には、口を縛られ、少しつま先が膨れたような靴下が、大事そうに抱えられていた。
「終わったか……
 草の上に落ちたナイフを拾い上げ、イグナスが振り返る。
 ユトがにこりと笑い――
 直後に、気を失った。倒れる身体を、イサリが受け止める。魔神竜を封じた靴下が、少女の顔の前に来た。
「このまま、洗濯ってできるのかねえ……
 鼻をつく臭いに顔をしかめながら、彼女はぼやいた。

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