『可愛いメイド三姉妹があなたをお待ちしております!』
ドアに貼られた紙には、そんな文字が躍っていた。
それにつられたのか。〈雪の城〉亭には、普段より多くの客が姿を見せているが――それも、前回のバニー作戦のときほど盛況とは言えなかった。
理由は、三人娘の朊装が、いつものウェイトレス姿とさほど変わりないからだけではない。
もはや、ここで大師の姿を見ることはない。それを目的に訪れていた者たちの半数程度も、縁のない店に通うことをやめたのだろう。
それでもなお、ほかの飲食店、それに大師が立ち寄る前に比べて、かなり賑わってるほうだと言えた。
「イサリ、一緒に行きたかったんじゃないの?《
空の食器を盆に載せたリノンが、カウンターに歩み寄り、その奥にいるイサリに声をかけた。
ウェイトレスとそれほど変わりないとはいえ、少女たちは、いつものシンプルなものに比べ、少し邪魔なくらいフリルのついたエプロンを着ていた。それでも、着ぐるみに比べ、彼女たちにも抵抗はない。
「そういうリノンはどうなの? 神官戦士さまについて行きたかったんでしょ《
盆を受け取る黒髪の少女の、やり返すようなことばに、赤毛の少女は、少しだけ寂しそうに笑った。
「いつか、追いかけていくわよ。そのときまで、もっとステキな人に会えなかったら、の話だったけど……でも、あんな人は、そうそういないか《
「一途だねー……《
感心しているような、あきれているような幼馴染みに、今度はリノンが、きき返す。
「あんたはどーなの?《
すぐには答えず、イサリは食器を洗う。
「住む世界が違うんだよ《
何もかもが特別のような存在。それもそのはず、彼は、この世にその地位にある者は二人といない法王なのだ。
ニホバルのような田舎の農民の娘とは、本当なら話しをすることもない、触れることもないはずの人。止めることも、ついていくことも、到底できる相手ではない。
――一緒にいたいなんて、思うだけ無駄だ。
それが、本心だった。
大きく息を吐いて、彼女は、今頃はもう次の町に着いているであろう、大師たちのことを思う。
壺の中身を封印しなおしたあと、ユトとイグナスはその日の昼過ぎまで、ニホバルに滞在した。郊外に置いて来た襲撃者たちやギルセのことを警察に任せ、後始末を終えると、彼らはすぐに旅立っていった。
旅立ちのとき、ユトは本当に残念そうな顔をしていた。それだけに、彼を引き止めることはできない、と思わされる。
「離れがたいですけど……わたしは、使命を果たさねばなりません《
教会の前には、クレイル司祭と農民の一家、警官たちとリノンが見送りに出ていた。礼拝に来た者たちも、遠巻きにそれを眺めている。
「皆さんには、本当にお世話になりました《
「いんや、こっちこそ手伝ってもらってよ《
「また、いつでも寄ってよ《
ジントとミユリが気楽に言うとなりで、クレイル司祭は恐縮しながら首を振る。
「とても光栄です、大師さま。どうぞ、またいらしてください《
ユトは嬉しそうにほほ笑み、うなずいた。
「はい……いつか、また。この町は仮面の騎士が護ってるんです。何があっても大丈夫ですよ、ね、イサリさん?《
「あ、ああもちろん、当たり前じゃない《
急に話を振られて、少女は慌てたようにうなずいた。
「世界の危機みたいなことがあっても優秀な法王さまが対応してくれるし、そっちも、道中、心配なさそうだしね《
「え、ええ、当然ですとも《
二人は、顔を見合わせ、しかし目はそれぞれに明後日の方向を見ながら、奇妙な笑い声を上げる。
「仲がよろしいことで《
上思議そうな顔をして二人を見ている者たちのなかで、イグナスがあきれを含んだ声を出す。
「そろそろ行くぞ。日暮れまでに次の町に着かないとならないからな《
素っ気ないことばに、神官戦士をチラリと見てから、大師は何か言いたげに、イサリを振り返った。
色々と言いたいことがあったような気がした。それなのに、イサリの頭に浮かぶことばは、簡単な一言だ。
「気をつけて《
何も言わないまま、大師はうなずいた。
警官たちの敬礼と、多くの人々の目に見送られ、二つの背中は、ニホバルの門をくぐり、小さくなって、やがて見えなくなった。
それが、昨日のことである。
地元の新聞は『大師さまがニホバルを旅立つ』、『謎の張り紙はロレイズ・カンファースの策略?』などと騒ぎ立て、スカウコー巡査長ら警察は忙しく動き回っているものの、日常に戻ったイサリにとっては、すべてが夢だったようだ。
「住む世界が違ったって、同じ時代に生まれ落ちたのは運命です。あたしなら、追いかけますよう《
ミルティが悔しそうに、両手を組んで天井を見上げる。
お馴染みのポーズを一瞥して息を吐くと、イサリは、追憶を振り切るように頭を振り、布巾を手にカウンターを出る。
出入口近くのテーブルの上を拭き始めたとき、チリン、と新たな客を知らせる鈴の音が鳴った。
「いらっしゃいませー《
テーブルを拭きながら愛想笑いを浮かべ、顔を上げる。
入ってきた客と、目が合った。
「あ……《
この辺りではまず見ない、薄紫の目。
流れる月光のような、白銀の髪。
そのどちらも、この世に二つとないと思えた。
見間違えるはずはない。ドアの前に立っているのは、確かに、旅立っていったはずの大師ユトと、護衛の神官戦士イグナスだ。
ユトは必死の目で店内を見渡し、イサリに駆け寄った。
「ここで……働かせてください!《
彼のことばに、店内のほぼ全員の客の目が点になる。
後ろで頭をかいていたイグナスが、財布代わりにしていた小さな袋を、手のひらの上に取り出した。袋の底には大きな穴が開き、銀色の、溶けた金属がこびりついている。
「あ……あのとき……《
神官戦士の無言の説明によると、魔神竜が吐き出した金属をも溶かす高熱が、彼らの路銀を文字通りに消し去った、ということらしい。
話を聞きつけて、厨房からディーカが飛び出した。彼女が大師に向けるのは、満面の笑み。
「もちろん、大歓迎ですとも《
「ありがとうございます《
素直に喜びを表わして頭を下げるユトを、イサリは夢の続きを見ているような気分で眺めていた。
「イサリさん……また、よろしくお願いします《
大師が手を差し出した。
これは夢じゃない。思わず握った手に確かなぬくもりを感じて、少女は思う。
「こちらこそ、よろしく《
茫然としていたその顔をほころばせ、彼女は、今まで他人に見せたこともないほど素直に、嬉しそうにほほ笑んだ。
〈了〉