第四章 新たな器に眠る秘密(3)

「ちょっと、イグナス!《
 御者のほうを振り向くと、そこに、神官戦士の姿はなかった。どこかで、金属音が立て続けに聞こえる。
「敵襲か!《
 叫ぶ刀をつかんで、イサリは幌の後ろから飛び出す。ユトは、イグナスを追うようにして、前から。
 矢を弓につがえた姿が十人ほど、くぼみに伏せっていた。先ほどの金属音は、イグナスが矢を斬り飛ばしたためのものらしい。
 敵を認めると、イサリは一直線に走った。
「ちょっと、イサリさんっ!《
 法術を使おうと手を組み合わせながら、ユトが慌てて声を上げる。
 それも、少女の耳には届いていない。
「よくも……あたしのおにぎりを!《
 矢が、急速に近づく少女に放たれた。
 駆ける速さを緩めないまま、イサリは抜刀と同時に空を斬った。宙にあった何本もの矢が、標的に達しないまま草原の大地に弾き落とされる。
 次の矢をつがえる時間もない。刃を紊めたイサリが、鞘入りの刀を大きく振るいながら、襲撃者の一人に膝蹴りを叩き込む。
聖神振空波エル・ザ・トリメア!《
 イサリから離れた位置にいる襲撃者たちを、ユトが放った上可視の塊が弾き飛ばす。
 ――ある意味凄惨な、一方的な光景が展開されていた。
 加勢は必要ないと判断してユトの横にいたイグナスが、刀を振り回して大の男を叩きのめす農民の少女を見て、肩をすくめる。
「食べ物の恨みは恐ろしいな……
 間もなく、戦意を失った十人の男たちがロープにつながれ、草原の少し窪んだなかに、ひとかたまりにされた。
「引き返すわけにもいかないし、置いて行っていいよな《
「うん、いいと思うよ。ほかの馬車にひかれるかもしれないけど《
 イグナスとイサリのことばに、男たちは恐々と二人を見上げる。
「オ、オレたちは頼まれただけなんです!《
「そうだ、命令された通りにしただけなんだ!《
 訓練された暗殺者というわけではないらしい。我先に、口を開き始める。
「ほお、誰に雇われたんだい?《
 雇い主も、腕のいい暗殺者を雇うだけの資金がなかったのだろうか。そんなことを思いながら、イサリはいかにも素人らしい、それぞれの顔を見回す。
 さすがに雇い主の吊前を口に出すのは気が引けるのか、彼女の問いかけに、男たちは一斉に黙る。
 神官戦士は肩をすくめた。
「オレたちが退治し切れなかったら魔神兵に踏み潰されそうだが、ここに置いていってもいいよな?《
「いいんじゃないでしょうか《
 イグナスの分のまんじゅうをもらって上機嫌のユトが、質問を良く聞かずに、適当に相づちを打つ。
「あ、あいつだ! ギルセだ!《
「ギルセ?《
 たまらず叫んだ男のことばに、三人は、ローメル通りで起きたことの記憶を刺激される。
……って、確か、ロレイズの側近の《
「あいつ、ロレイズのそばにいたから壺のことも知ってたのか。しかも、ロレイズより先に持ち主を突き止めたわけだな《
 イグナスがあきれたように、鞘入りの剣で肩を叩く。
「ギルセさんは、壺は売ればとても高く売れるって……壺を取って来たら、オレたちにも礼金は弾むって言うから……
「そ、そうだ、いい儲け話だからって言われて来たのに、こんな……
「借金があるから、ギルセさんには逆らえなかったんです!《
 最初の引っ掛かりを越えたあとは、男たちは饒舌だった。
「どいつもこいつも、金、金か。ま、ギルセのことは帰ったあと、警察に任せよう《
 ギルセがロレイズに報告することなく、独自に壺を手に入れようとしたのも、利益を独り占めにするためだろう。
 その強欲さにさらにあきれた声を出しながら、イグナスは馬車に歩き出す。それを、イサリと、まんじゅうを両手にしたユトが追いかける。
「ま、待ってくれ、本当に置いて行く気か!?《
「薄情者ー!《
 悲痛な声を背中に受けて、大師が立ち止まる。
 期待を込めて見守る男たちに、彼は、純真無垢な、眩しいほどの笑顔を見せた。
「わたしたちが無事に帰ってこれたらちゃんと連れて帰りますから、それまで大人しくしていてくださいね?《
 その笑顔に、一度は相手の命を亡きものにしようとした襲撃者たちは、何も言えなくなる。
 無言のまま、彼らは再び動き出す馬車を見送った。
 馬車は道なき草原の真っただ中を、さらに北東に進んでいく。誰ともすれ違うことのない、人の生活の気配がある方向から離れるばかりの、孤独な旅路だ。
「そんなに好きなら、あたしのもあげようか?《
 もらったまんじゅうを、皮をはぎ、大事に大事に時間をかけて食べるユトに、イサリは、残る自分の分のまんじゅうを差し出す。
 ユトは指にとったあんこを舐めとりながら、首を振った。
「ダメですっ。それはイサリさんのお母さんが、イサリさんのために作ったんですから、イサリさんが食べなきゃダメです《
「そういうもんかねえ《
 水筒に入っていたお茶をすすりながら、イサリは三口でまんじゅうを食べ終えた。ユトがそれをうらやましげに見ながら、最後の一口を食べ終える。
 ポケットにある物を思い出し、手を拭こうと、イサリはハンカチを取り出す。広げてみて、彼女は、それが正方形ではないことに気がついた。
 縦に長いような形の、茶色い布のようなもの――それは、靴下だった。いつか、父親がはいていたのを覚えている。
「間違えたな、母さん……
 つぶやいて、何食わぬ顔でポケットに戻す。
 ポケットに無意味に父親の靴下を入れておくのも恥ずかしいが、捨てるわけにもいかない。ひたすら隠すしかない。
「イサリさんって、お姉さんみたいですね《
 今のを見られたか、と緊張していたイサリはぎくりとするが、ユトの唐突なことばにも笑顔にも、そういった気配はなかった。
 それにしても、唐突なことばだ。イサリは何も言えずに、相手の顔を見る。
「わたしには兄弟はいませんけど、弟の気分、というのがわかりましたよ《
「ケイルに感化されたか?《
 無造作に床に置かれた刀が、からかうような声を出した。
「ケイルくんにもお世話になったから、それもあるかもしれませんね《
 フェイブルに笑顔を向けてから、大師は再び、少女にほほ笑みかける。
「色々なところを旅して、色々な町や村に行き、色々な人たちに会いましたけど、こんな短い間に、こんなに他人に気を許せたのは初めてです《
「ユトが気を許していない人間なんていたの?《
「いますよ、わたしだって命を狙われているんですから!《
 ムキになってイサリのからかいに反論する大師には、警戒心というものがまったく欠けているように見えた。
 しかし、いつもは彼の身の安全を常に考えるイグナスがそばにいる。今、その神官戦士は、手綱を握っていた。イサリが斬ろうと思えば、ユトを斬ることもできるだろう。
 それでもユトとイサリを二人にしているのは、ユト、そしてイグナスも、イサリを信頼しているからだ。
「そろそろだぞ《
 黙って馬車の中の騒がしい会話を耳にしていたイグナスが、軽く手綱を引き、馬の歩みを緩めた。
 少し低くなった場所に馬車を止め、しっかりと馬を木につなぐ。馬に逃げられては、遠い帰り道を歩いて戻らなくてならない。
「腹ごしらえも済んだし……行きますか《
 刀を手に、イサリは馬車から飛び降りた。続いて草原に降りたユトが、草を食む馬の首を優しく撫でる。
「行ってくるから、ここで待っててね《
 馬は鼻を鳴らして、それに答えた。
 白い壺を抱え、ユトは早足でイグナスとイサリを追い越し、馬車が見えなくなるまで、歩き続ける。
 イサリは、端まで草原の広がる緑の地平線の向こう、西の方角に、薄っすらと、薄紫色の木々の連なりが見えたような気がした。
 それとも、遠くの山脈かもしれない。そう思いながら、歩き続けた。
「そろそろいいだろう《
 声をかけて、イグナスが立ち止まった。
 彼はふところから、スカウコー巡査長から受け取った金属製の瓶を出す。
 ユトはさらに少し歩いてから、できるだけ平らな地点を見つけ、手にしたものを地面に置いた。
「いよいよか《
 入れ替わりに、鞘を腰のベルトに縛りつけ、イサリが壺の前に立つ。
 右手で柄を握りしめ、刀を抜いた。
 壺を割り、中身を解放してから、ユトがそれを、瓶に封印しなおす。
 ことばの上では簡単なようだが、壺の中の存在がどんなものなのかはわからず、大人しく封じられてくれるとは限らない。
 リッチグラン法師を利用したことからして、そしてフェイブルの見立てでは、かなりの知能を持っていることは確かだ。
 ユトが封印の法術を完成させるまで、上手く時間を稼がなくてはいけない。
「割ればすぐに中身が出てくる。強敵だ、油断するな《
 フェイブルの忠告に素直にうなずき、刀を正眼にかまえる。
 ユトは彼女の背後で法術のために精神を集中し、イグナスは瓶を手に、横で油断なく壺を凝視していた。
 やり残したことはない。
「行くよ《
 声をかけて、イサリは踏み出しながら、体重をのせた刃を振り下ろした。
 音もなく、手応えもない。バターを切るように滑らかな切り口をさらして、壺は縦に真っ二つに両断された。
 割れた卵のからのような壺の中に、イサリは、何か黒いもやがわだかまっているのを見る。
 空気に触れると、それが一気に煙のように噴き出し、意志を持っているかのように、巨大なシルエットを形作る。
 輪郭が整うと、黒一色だったものを、鮮やかな色が染め上げていく。赤黒い鱗で全身を覆われ、金色の鋭い目を見開く、翼を背に生やした竜。
「これは……魔神竜か!《
 フェイブルが叫ぶ。
「気をつけろ、魔神兵を束ねる将軍クラスの者の一体だ《
 言われるまでもない。大きさだけが理由とは思えないほどの、ただそこにいるだけでのしかかる威圧感は、否が応にも本能的な警戒を煽る。
 相手の姿を認めたユトが、素早く、両手で複雑な印を何度も結ぶ。
 それが意味するものを知っているのか。竜は、牙の並ぶ顎を大きく開いた。血のように赤いのどの奥に、より鮮やかな赤の光が輝く。
 金色の目が見定めるのは、神官戦士の姿。
「イグナス!《
 イサリの声を聞きながら、イグナスは後ろに跳んだ。その目の前の地面を、光弾がえぐる。
 草原に空いたくぼみの中が、グツグツと煮えたぎった。緑と土色、そして銀の液体が混ざり合い、混沌とした色をさらしている。
「くそっ……
 プロテクターの籠手も革製のグローブも溶け、イグナスの両手は赤くはれ上がり、ボロボロになっていた。痛みより、瓶を失った悔しさに舌打ちする彼のもとへ、ユトが慌てて駆け寄る。
 竜の視線が、それを追った。
「お前の相手はあたしだ!《
 鍵爪のついた前脚に斬りつけてから、イサリは横から後ろに回り込むように駆けた。大した痛みは感じていないようだが、竜は大きな目を正面からずらしてギロリと少女をにらみつけ、続けて光弾を吐き出した。
 少女の後ろに、小さなクレーターがいくつも連なる。
「何だか結局、魔神兵と戦ったときと同じことをしてるような気もするけど……さあ、こっちに来なさい!《
 魔神竜は、イサリの挑発に素直に乗って彼女を追いかけようとはしなかった。
 首だけをめぐらせ、光弾を吐くのをやめると、コウモリの翼に似た巨大な翼をはばたいた。