「ちょっと、イグナス!《
御者のほうを振り向くと、そこに、神官戦士の姿はなかった。どこかで、金属音が立て続けに聞こえる。
「敵襲か!《
叫ぶ刀をつかんで、イサリは幌の後ろから飛び出す。ユトは、イグナスを追うようにして、前から。
矢を弓につがえた姿が十人ほど、くぼみに伏せっていた。先ほどの金属音は、イグナスが矢を斬り飛ばしたためのものらしい。
敵を認めると、イサリは一直線に走った。
「ちょっと、イサリさんっ!《
法術を使おうと手を組み合わせながら、ユトが慌てて声を上げる。
それも、少女の耳には届いていない。
「よくも……あたしのおにぎりを!《
矢が、急速に近づく少女に放たれた。
駆ける速さを緩めないまま、イサリは抜刀と同時に空を斬った。宙にあった何本もの矢が、標的に達しないまま草原の大地に弾き落とされる。
次の矢をつがえる時間もない。刃を紊めたイサリが、鞘入りの刀を大きく振るいながら、襲撃者の一人に膝蹴りを叩き込む。
「
イサリから離れた位置にいる襲撃者たちを、ユトが放った上可視の塊が弾き飛ばす。
――ある意味凄惨な、一方的な光景が展開されていた。
加勢は必要ないと判断してユトの横にいたイグナスが、刀を振り回して大の男を叩きのめす農民の少女を見て、肩をすくめる。
「食べ物の恨みは恐ろしいな……《
間もなく、戦意を失った十人の男たちがロープにつながれ、草原の少し窪んだなかに、ひとかたまりにされた。
「引き返すわけにもいかないし、置いて行っていいよな《
「うん、いいと思うよ。ほかの馬車にひかれるかもしれないけど《
イグナスとイサリのことばに、男たちは恐々と二人を見上げる。
「オ、オレたちは頼まれただけなんです!《
「そうだ、命令された通りにしただけなんだ!《
訓練された暗殺者というわけではないらしい。我先に、口を開き始める。
「ほお、誰に雇われたんだい?《
雇い主も、腕のいい暗殺者を雇うだけの資金がなかったのだろうか。そんなことを思いながら、イサリはいかにも素人らしい、それぞれの顔を見回す。
さすがに雇い主の吊前を口に出すのは気が引けるのか、彼女の問いかけに、男たちは一斉に黙る。
神官戦士は肩をすくめた。
「オレたちが退治し切れなかったら魔神兵に踏み潰されそうだが、ここに置いていってもいいよな?《
「いいんじゃないでしょうか《
イグナスの分のまんじゅうをもらって上機嫌のユトが、質問を良く聞かずに、適当に相づちを打つ。
「あ、あいつだ! ギルセだ!《
「ギルセ?《
たまらず叫んだ男のことばに、三人は、ローメル通りで起きたことの記憶を刺激される。
「……って、確か、ロレイズの側近の《
「あいつ、ロレイズのそばにいたから壺のことも知ってたのか。しかも、ロレイズより先に持ち主を突き止めたわけだな《
イグナスがあきれたように、鞘入りの剣で肩を叩く。
「ギルセさんは、壺は売ればとても高く売れるって……壺を取って来たら、オレたちにも礼金は弾むって言うから……《
「そ、そうだ、いい儲け話だからって言われて来たのに、こんな……《
「借金があるから、ギルセさんには逆らえなかったんです!《
最初の引っ掛かりを越えたあとは、男たちは饒舌だった。
「どいつもこいつも、金、金か。ま、ギルセのことは帰ったあと、警察に任せよう《
ギルセがロレイズに報告することなく、独自に壺を手に入れようとしたのも、利益を独り占めにするためだろう。
その強欲さにさらにあきれた声を出しながら、イグナスは馬車に歩き出す。それを、イサリと、まんじゅうを両手にしたユトが追いかける。
「ま、待ってくれ、本当に置いて行く気か!?《
「薄情者ー!《
悲痛な声を背中に受けて、大師が立ち止まる。
期待を込めて見守る男たちに、彼は、純真無垢な、眩しいほどの笑顔を見せた。
「わたしたちが無事に帰ってこれたらちゃんと連れて帰りますから、それまで大人しくしていてくださいね?《
その笑顔に、一度は相手の命を亡きものにしようとした襲撃者たちは、何も言えなくなる。
無言のまま、彼らは再び動き出す馬車を見送った。
馬車は道なき草原の真っただ中を、さらに北東に進んでいく。誰ともすれ違うことのない、人の生活の気配がある方向から離れるばかりの、孤独な旅路だ。
「そんなに好きなら、あたしのもあげようか?《
もらったまんじゅうを、皮をはぎ、大事に大事に時間をかけて食べるユトに、イサリは、残る自分の分のまんじゅうを差し出す。
ユトは指にとったあんこを舐めとりながら、首を振った。
「ダメですっ。それはイサリさんのお母さんが、イサリさんのために作ったんですから、イサリさんが食べなきゃダメです《
「そういうもんかねえ《
水筒に入っていたお茶をすすりながら、イサリは三口でまんじゅうを食べ終えた。ユトがそれをうらやましげに見ながら、最後の一口を食べ終える。
ポケットにある物を思い出し、手を拭こうと、イサリはハンカチを取り出す。広げてみて、彼女は、それが正方形ではないことに気がついた。
縦に長いような形の、茶色い布のようなもの――それは、靴下だった。いつか、父親がはいていたのを覚えている。
「間違えたな、母さん……《
つぶやいて、何食わぬ顔でポケットに戻す。
ポケットに無意味に父親の靴下を入れておくのも恥ずかしいが、捨てるわけにもいかない。ひたすら隠すしかない。
「イサリさんって、お姉さんみたいですね《
今のを見られたか、と緊張していたイサリはぎくりとするが、ユトの唐突なことばにも笑顔にも、そういった気配はなかった。
それにしても、唐突なことばだ。イサリは何も言えずに、相手の顔を見る。
「わたしには兄弟はいませんけど、弟の気分、というのがわかりましたよ《
「ケイルに感化されたか?《
無造作に床に置かれた刀が、からかうような声を出した。
「ケイルくんにもお世話になったから、それもあるかもしれませんね《
フェイブルに笑顔を向けてから、大師は再び、少女にほほ笑みかける。
「色々なところを旅して、色々な町や村に行き、色々な人たちに会いましたけど、こんな短い間に、こんなに他人に気を許せたのは初めてです《
「ユトが気を許していない人間なんていたの?《
「いますよ、わたしだって命を狙われているんですから!《
ムキになってイサリのからかいに反論する大師には、警戒心というものがまったく欠けているように見えた。
しかし、いつもは彼の身の安全を常に考えるイグナスがそばにいる。今、その神官戦士は、手綱を握っていた。イサリが斬ろうと思えば、ユトを斬ることもできるだろう。
それでもユトとイサリを二人にしているのは、ユト、そしてイグナスも、イサリを信頼しているからだ。
「そろそろだぞ《
黙って馬車の中の騒がしい会話を耳にしていたイグナスが、軽く手綱を引き、馬の歩みを緩めた。
少し低くなった場所に馬車を止め、しっかりと馬を木につなぐ。馬に逃げられては、遠い帰り道を歩いて戻らなくてならない。
「腹ごしらえも済んだし……行きますか《
刀を手に、イサリは馬車から飛び降りた。続いて草原に降りたユトが、草を食む馬の首を優しく撫でる。
「行ってくるから、ここで待っててね《
馬は鼻を鳴らして、それに答えた。
白い壺を抱え、ユトは早足でイグナスとイサリを追い越し、馬車が見えなくなるまで、歩き続ける。
イサリは、端まで草原の広がる緑の地平線の向こう、西の方角に、薄っすらと、薄紫色の木々の連なりが見えたような気がした。
それとも、遠くの山脈かもしれない。そう思いながら、歩き続けた。
「そろそろいいだろう《
声をかけて、イグナスが立ち止まった。
彼はふところから、スカウコー巡査長から受け取った金属製の瓶を出す。
ユトはさらに少し歩いてから、できるだけ平らな地点を見つけ、手にしたものを地面に置いた。
「いよいよか《
入れ替わりに、鞘を腰のベルトに縛りつけ、イサリが壺の前に立つ。
右手で柄を握りしめ、刀を抜いた。
壺を割り、中身を解放してから、ユトがそれを、瓶に封印しなおす。
ことばの上では簡単なようだが、壺の中の存在がどんなものなのかはわからず、大人しく封じられてくれるとは限らない。
リッチグラン法師を利用したことからして、そしてフェイブルの見立てでは、かなりの知能を持っていることは確かだ。
ユトが封印の法術を完成させるまで、上手く時間を稼がなくてはいけない。
「割ればすぐに中身が出てくる。強敵だ、油断するな《
フェイブルの忠告に素直にうなずき、刀を正眼にかまえる。
ユトは彼女の背後で法術のために精神を集中し、イグナスは瓶を手に、横で油断なく壺を凝視していた。
やり残したことはない。
「行くよ《
声をかけて、イサリは踏み出しながら、体重をのせた刃を振り下ろした。
音もなく、手応えもない。バターを切るように滑らかな切り口をさらして、壺は縦に真っ二つに両断された。
割れた卵のからのような壺の中に、イサリは、何か黒いもやがわだかまっているのを見る。
空気に触れると、それが一気に煙のように噴き出し、意志を持っているかのように、巨大なシルエットを形作る。
輪郭が整うと、黒一色だったものを、鮮やかな色が染め上げていく。赤黒い鱗で全身を覆われ、金色の鋭い目を見開く、翼を背に生やした竜。
「これは……魔神竜か!《
フェイブルが叫ぶ。
「気をつけろ、魔神兵を束ねる将軍クラスの者の一体だ《
言われるまでもない。大きさだけが理由とは思えないほどの、ただそこにいるだけでのしかかる威圧感は、否が応にも本能的な警戒を煽る。
相手の姿を認めたユトが、素早く、両手で複雑な印を何度も結ぶ。
それが意味するものを知っているのか。竜は、牙の並ぶ顎を大きく開いた。血のように赤いのどの奥に、より鮮やかな赤の光が輝く。
金色の目が見定めるのは、神官戦士の姿。
「イグナス!《
イサリの声を聞きながら、イグナスは後ろに跳んだ。その目の前の地面を、光弾がえぐる。
草原に空いたくぼみの中が、グツグツと煮えたぎった。緑と土色、そして銀の液体が混ざり合い、混沌とした色をさらしている。
「くそっ……《
プロテクターの籠手も革製のグローブも溶け、イグナスの両手は赤くはれ上がり、ボロボロになっていた。痛みより、瓶を失った悔しさに舌打ちする彼のもとへ、ユトが慌てて駆け寄る。
竜の視線が、それを追った。
「お前の相手はあたしだ!《
鍵爪のついた前脚に斬りつけてから、イサリは横から後ろに回り込むように駆けた。大した痛みは感じていないようだが、竜は大きな目を正面からずらしてギロリと少女をにらみつけ、続けて光弾を吐き出した。
少女の後ろに、小さなクレーターがいくつも連なる。
「何だか結局、魔神兵と戦ったときと同じことをしてるような気もするけど……さあ、こっちに来なさい!《
魔神竜は、イサリの挑発に素直に乗って彼女を追いかけようとはしなかった。
首だけをめぐらせ、光弾を吐くのをやめると、コウモリの翼に似た巨大な翼をはばたいた。
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