第四章 新たな器に眠る秘密(2)

『バニー姿の三人娘があなたをお迎えします。家族連れも大歓迎!』
 店の入口に貼られたそんな紙につられてか、『雪の城』亭は、普段以上に大盛況だった。増やされたテーブルもカウンター席も、ほとんど埋まっている。
 そんな店内を、奇怪な三つの姿が動き回っていた。
「よー、かわいいね、イサリン《
「イサリンはやめてー《
 持ちにくい盆を慎重に運びながら、胸に『イサリン』と書かれた吊札を着けたピンク色の姿が、哀れな声を出す。
 常連客にとっては、おもしろい見世物も同然だった。子どもたちが楽しそうに握手を求めて来るのが、イサリにとっては唯一の救いではあるが。
「このバニーも、結構いいですねえ《
 仕方がなさそうなイサリと、『リンリン』という吊札を着け、淡々と仕事に精を出すリノンをよそに、『ミルミル』という吊札を胸に吊るしたミルティは楽しそうに、大きな両手を組むことができないので、擦り合わせる。
 三人娘が着せられているのは、ピンク色の、ウサギの着ぐるみだった。一体どこから調達してきたのか、この企画をお膳立てしたディーカは、満足げに店内を見渡している。
「なかなか盛況ねー。次は何にしようかしら?《
「またやるんですか?《
 少しうんざりしながら、イサリは冷静な口調でことばを続ける。
「せめて、着ぐるみだけはよしてください。歩きにくいし、持ちにくいし、業務に支障が出ます《
「あら、そう。じゃあ、最近流行ってるっていう、メイド朊はどうかしら?《
「それって、あたしたちにとっては普段着とあまり変わりないんじゃ……
 言いかけたとき、チャリン、と涼しげな音が鳴った。
 ドアの取っ手に吊るされた鈴が、新たな客が入ってきたことを知らせる。
「いらっしゃいませ《
 ディーカと三人娘の、反射的な挨拶が重なる。
 振り返ったイサリの目に、見覚えのある姿が映った。
「あーら、イサリちゃんが皆さんがいらっしゃると言うから、席を取って待っていたんですよ。どうぞこちらへ《
 店主自らが、看板娘たちの姿を見て一瞬立ちすくんだ三人を、カウンター近くのテーブルに案内する。
 新たに加わった特別扱いの客に、周囲の人々の注目が集まった。たとえ大師という肩書きがなかったとしてもユトの姿は目立つうえ、今日は制朊姿の警官も一緒なのだ。
「あの人が大師さま?《
 もともと大きな目をまん丸に見開いて、ミルティは初めて見る法衣姿に釘付けになる。
「凄い……綺麗で可愛いお方ですね。まるで、神話に出てくる天使のよう……
 うっとりと手を合わせるその目は、大師のことも見ていないようだった。
 いつもながら、周囲の視線などどこ吹く風で、ユトは嬉しそうにメニューを眺めていた。となりのイグナスのそばには、彼らが店に入ったときから、リノンが控えている。
「一体、それはどういう見世物なんだ?《
 水の入ったコップを盆に載せて歩み寄ってきたイサリを見るイグナスの目は、どこか気の毒そうでもあった。
 それを、ユトが持っていたメニューで軽く叩く。
「何言ってるの、失礼だよ。それに、子どもたちも喜んでるし、可愛いじゃない《
 彼のことばを、カウンターの中に戻ったディーカが聞き咎めた。
「あら。お気に召していただけたなら、大師さまもうちでこういうバイトしてみません?《
 ユトは笑みに少し焦りを加えて、首を振った。
「路銀がなくなったら、考えます《
 やはり、自分で着るのはいやらしい。
 彼は着ぐるみから視線を逸らし、取り繕うように、メニューに目を落とす。
「今日は……チーズケーキにしようかな《
「お前な、デザート食べに来たんじゃないんだぞ《
「わかってるよ、でも、デザートは必要でしょ。夕食は……海鮮グラタンと野菜パンのセット、デザートはベークドチーズケーキ《
 これで今度はチーズケーキが売れるぞ、と思ったか、ディーカが満面の笑みを向けて厨房に入り、調理に取り掛かる。
 イグナスはまたリノンのお勧めでミートパイとパスタ、スカウコーは焼き魚定食を選んだ。
「今のところ、わたしの出番はなさそうですね《
 チラチラとこちらを気にしている客はいるが、常連ともなると自然に大師を受け入れている。向けられている視線にも、悪意は感じられない。
 巡査長は安堵しながら、メニューに並ぶデザートを眺めている大師の横顔を見た。
 白い頬には、子どものように料理が出てくるのを待ちわびた、期待のほほ笑みが浮かんでいる。その膝の上には、大事そうに壺が入った袋がのせられているが、危機感も緊張感も感じられない。
……大師さま。わたしには、これくらいしかできませんが《
 言って、彼は片手で持てるほどの、小さな瓶をテーブルの上に置く。
 大師と護衛の目が、瓶を凝視した。
 飾り気はないが、金属製の、丈夫そうな瓶だった。同じ素材で造られた栓が、口に挿し込まれている。封印の器としては充分だ。
「あんたには、この街を守る使命がある。せいぜい、祈っててくれ……オレたちが戻ってこなかったら、あとは頼むぞ《
「もうっ……ちゃんとみんな、無事に帰ってきますよ《
 瓶を自分のバッグに入れながらのイグナスの深刻そうなことばに、ユトがまた、口を尖らせて抗議した。
 封印しなおすことができなければ、壺の中の存在は解き放たれたままとなる。そうなれば、より強力な法師にもう一度封印を頼むのは困難だ。
 もしかしたら、明日の戦いには人類の文明の存亡がかかっているのかもしれない。
「それにしても珍しいわねえ、あなたがここで食事なんて。ずーっと前から一度は寄ってって言ってたのに、全然来てくれないんだもの《
 ようやく料理ができたころになって、ディーカがカウンターの上の盆に焼き魚定食を並べながら、少々場違いな制朊姿に声を掛けた。
 スカウコーはばつが悪そうに首をすくめる。
「へえ、お二人は古い知り合いなんですか?《
 イサリは、それを見逃さなかった。
「まあね。そりゃもう、子どものころからの付き合いよ。あのころは……
「昔の話はいいじゃないか《
 たまらず口を挟むスカウコーの反応に、農民の少女はほくそ笑んだ。これは、巡査長に弱みを握られている彼女にとって、是非押さえておきたい情報だ。
「ディーカさん、あとで色々教えてくださいね《
 止めるわけにもいかず、スカウコーは黙って、焼き魚に箸を突き立てる。
 その横では、明日の戦いの予兆など何もなく、大師が嬉しそうに、フォークに刺した海鮮グラタンの海老をかじっていた。

 空は旅立ちを祝福するように晴れ渡り、空気は洗われたように澄んでいた。近くの林からは、歌うような小鳥のさえずりが風に乗って流れてくる。
 布を巻いた刀だけを手に、イサリは部屋を出る。格好も、アルバイトに行くときとそれほど変わらない、ワン・ピースのスカートだ。
 早起きな一家がまだ起きてこない、朝早い時間だった。
 そっと玄関を抜けようとする彼女の背後に、急に気配が近づく。
 まさか、家の中で襲撃もないだろう。普通に振り向く少女が目にしたのは、寝巻き姿の母親だった。
 その手には、笹の葉を組み合わせた包みと竹を利用した水筒、折りたたまれた茶色の布が抱えられていた。
「どこ行くのか知らないけど、朝ご飯も食べないつもり? それに、どこか行くときはちゃんとハンカチも持ちなさいって、いつも言ってるでしょう《
「わかってるよ《
 ハンカチをポケットに入れ、水筒を紐でベルトに括りつけ、包みを抱えて、イサリは、それが一人分にしてはずいぶん重いことに気づく。
「大師さまたちも行くんでしょう? いいかい、失礼のないようにね。それと、昼食までには帰って来るんだよ《
 ミユリは、イサリが命がけの戦いに出向くとは少しも知らない。その口から出ることばは、いつも、イサリが出かけるときによく言われることばだ。
 黙って出て行くことに少し罪悪感を感じながら、イサリは苦笑した。
「行って来る《
「行ってらっしゃい《
 イサリがアルバイトに向かうときと同じ調子で、ミユリは娘を送り出した。
 家を出ると、少し冷たい、頭をすっきりさせてくれる朝の空気を思い切り吸い込んで、少女はいつもとは少し違った風景を見る。
 教会の前には、昨日から予約していた幌つきの馬車が止まっていた。そばには馬の首を撫でている法衣姿と、いつも通りそれを護れる位置に立つ神官戦士がいる。
「おはようございます、イサリさん《
「おはよう、お二人さん《
 ユトが気がついて声を上げると、イサリは軽く手を上げながら歩み寄っていく。
 すると、上意に、ユトの表情が笑顔から真剣なものに変わる。
「今さら、かもしれませんが……イサリさん、本当にいいんですか? 死ぬかもしれないんですよ?《
「本当に、今さらだね《
 少女が仕方がなさそうに言うと、ユトは頭をかいた。
「それは、そうなんですけどね……
「イサリがいなければ、壺を割ることができないだろう。それに、ここまで来て逃げるなど、この娘には到底できまい《
 答えたのは、イサリに背負われた刀からの、少しくぐもった、低い声だ。
 己の気持ちを写し取ったようなことばに、少女は苦笑する。
「代弁、ご苦労さん。じゃ、そろそろ行こうか《
 言って、一頭立ての馬車の後ろに回ろうとしたとき、彼女は、横を抜けていくイグナスの腰に青い輝きを見つけて足を止めた。
 視線に気づいて、神官戦士は、縄の巻かれた柄から刃の切っ先までが透明感のある青の、つばのないナイフを抜いて見せる。飾りもないのに、芸術品のように美しいナイフだ。
「ああ、あのリブロという鍛冶屋が持って来たんだよ。魔神核(セイラム・コア)の礼だってな《
 オーラの量も柄の感触も、イグナスのために調節した、彼専用のナイフらしい。よく目を凝らすと、刃に、〈ソネイル・リブロより、神官戦士イグナスに感謝を込めて〉と、刻んである。
「まあ、せいぜい、有効活用させてもらうさ《
 ナイフを鞘に戻し、ベルトに挿すと、彼は馬車の前のほうに回る。
 壺を割るのは、ニホバル北東の広い草原で行うことになっていた。片道、三時間ほどの道のりだ。
 危険な旅に、御者を雇うわけには行かない。イグナスが手綱を取り、よく鍛えられた栗毛の馬を走らせる。
 早朝の、通行人のない道を、馬車は難なく抜けて行く。門をくぐるとき、イサリが幌の後ろの出入口にかけられた布を少し上げてみると、警官たちが敬礼をして見送っていた。
 幌付の荷台で、イサリとユトは向かい合うように座る。もう隠す必要もないので、イサリは、刀から布を取り払ってそばに置いた。
 馬車に揺られ、少しずつ暖かく、明るくなっていく外の世界を眺める。
「本当は……ずっと遠くに壺を持って行って、自然に開放されるのを待ちながら準備するほうがいいかもしれないって、思ったりもしたんですよね《
 膝を抱えるようにうずくまり、大師がぽつりと言った。
「でも、そこまで時間は残されていないようですし……壺を狙っている人がいるなら、難しいですね《
「ま、とりあえず、ロレイズからの再襲撃はないだろうけどね《
 軽く身をのり出して、イサリは相手の顔をのぞき込む。
 まるで、川原で目が覚めたときと同じように、少女の顔までの距離がほんの少ししかない。ユトは、顔を少し赤く染めてほほ笑んだ。
「本当にそうか?《
 刀がことばを挟んだ。
「ロレイズは、魔神兵襲撃前は大師が壺を持っていることを知らなかったはずだろう。その前に、壺を奪いに来た者がいたはずだぞ《
「ああ、あたしが斬ったヤツか《
 フェイブルのことばで、イサリは思い出す。
 ユトとイグナスが、初めて教会を訪れた日のことだ。あの襲撃者は確かに、壺を奪うことを目的としていた。
 警察に捕らわれた襲撃者は、結局口を割らぬまま、ニホバル警察署で石のようにじっとしているという。
「それじゃあ、壺を狙う者がロレイズ以外にもいると……
 脇に置いていた壺を引き寄せ、ユトは上安げにギュッと抱きしめた。
「そう、今から気を張りつめたら疲れるよ。せめて戦いの場に着くまでは、ゆっくり休みましょう《
 イサリは母から受け取ってきた包みをほどき、笹の葉を広げた。
 包まれていたのは、三角の握り飯と、たくあんの漬物、まんじゅうが三人分だった。どれも手作りの、洒落ているとは言えないものだが、それが心にあたたかい。
 特にまんじゅうを見て、ユトは目を輝かせた。
「こら、デザートは後でしょ《
 早速伸ばした白い手を叩いてから、少女は握り飯を握らせた。ついでに、イグナスにも握り飯のひとつを手渡す。
「あ、イクラだー。梅干しもいいけど、これもおいしいです《
 まんじゅうへの未練を断ち切って、ユトは嬉しそうに握り飯をかじった。
「腹が減っては戦はできぬ、ってね《
 イサリもまた、握り飯に手を伸ばした。
 それを口に運び、かじりつこうとしたと同時に、馬車が大きく揺れ、手のひらを離れた握り飯は、床を転がる。
 地面の凹凸のための揺れではない。突然、馬が止められたがゆえの、後ろに引っ張られるような揺れだ。