コトコトと煮込んだ鍋の中身が、うまそうな匂いをのせた湯気をたてた。中身は、畑で採れたばかりの野菜と鶏肉を使ったシチューだ。
とろりとした汁を小皿にとって一口すすり、イサリは塩を一つまみ、鍋に落とす。
朝の見回りが終わった後の農民の一家は、最近は時間が余った。この時期に畑に必要なことは、だいたい大師やその護衛の手を借りて、すでに終わっていた。
母と弟はそれぞれの友人宅へ、父は知人の畑を手伝いに行っている。家に残された少女は、狭い台所でシチューをかき混ぜていた。
上意に、彼女の背後に気配が生まれる。家族のものではない、それでも、覚えのある気配。
「邪魔するぞ《
かけられた声に、警戒することもなく振り返る。
そこにある姿は、予想通りのものだ。白と青のプロテクターつきの神官朊をまとい、エルの紋章を鍔に刻んだ剣を帯びた、長身の青年。
「あれ、怪我は大丈夫なの?《
「マントと朊に穴が空いただけだ。かすり傷さ《
肩をすくめて、イサリの部屋に続くドアを見た。
「様子はどうだ?《
護衛にとって一番気になるのは、当然、護るべき相手である大師の安否だ。
イサリはかまどにくべた鍋からシチューを皿に盛り、ハーブティーを注いだカップと、焼きたてのパンを一緒に盆に載せた。
「熱は下がったようだけど、医者はもう二、三日は安静が必要だって《
「あいつは、病気には強くないからな《
盆を両手に部屋に入る少女を、イグナスも追った。
少し建てつけの悪いドアを開けると、二人の目に、ベッドの上に身を起こして灰色の猫とじゃれ合う大師の姿が映る。
「あ、イグナス。今、法術で治療を……《
顔を上げるなり、印を結ぼうとするその手を、イグナスが押さえた。
「術を使って治すほどの傷じゃない。こんなところで体力使う前に、病気を治すことを考えろ《
「でも……わたしのわがままのせいで……《
いつもはほほ笑みが浮かぶその顔に、悲哀の色が広がる。張り紙や、それを見た人々に責められたことよりも、自分が巡回に出たことで襲撃を受け、負傷者が出たことのほうがこたえたようだった。
うなだれる彼の膝の上で、コマが慰めるように、白い手に頭を擦りつけた。
「違うだろ。お前じゃなくて、オレが未熟なせいだ。昨日、あそこに仮面の騎士が現われなけりゃ、今頃……《
最悪の結末。
今ここにユトがいない、あり得たかもしれない結末を想像して、それを振り払うように、神官戦士は頭を振った。
「まあ、確かに風邪をひいてるのを黙って巡回に参加したのは褒められたことじゃないけどな。もとはと言えば、逆恨みと欲に目がくらんだあいつが悪いんだ《
イグナスのことばに、ユトは驚いたように顔を上げ、この部屋の主も、視線で理由を尋ねるように顔を向ける。
ベッドの端に腰かけて、神官戦士は肩をすくめた。
「スカウコー巡査長が尋問で聞き出したらしい。人を雇って張り紙を貼っていたのも、昨日の暗殺者たちをけしかけたのも、ロレイズだ《
ローメル通りの地主である富豪、ロレイズ。魔神兵の襲撃で店にも家にも大打撃を受け、最近は別荘に引きこもっている、と噂されていた。
意外な吊前を聞いたことへの驚きが去ると、イサリのなかに激しい怒りが燃え上がる。
「逆恨みもいいところじゃない!《
「それだけじゃない。暗殺者たちは、壺を奪うようにも命令されていたらしい《
イサリから受け取ったシチューをスプーンでかき回していたユトが、枕元に置いた自分の荷物を見る。
ロレイズが壺のことを知る機会は、魔神兵の襲撃後のはずだ。それまで、ユトが壺を持っていることを知るニホバルの者は、限られている。
ただ、壺が上幸を撒くなどという由来を知る者は、魔神兵襲撃後でもごく一部だ。
「もしかしたら、ロレイズは、壺のこと自体は知っていたんじゃ……《
机の上から盆に替えて手にした、布を巻いた刀に視線を落としてから、彼女は決意したように顔を上げる。
「とりあえず、イグナスにも聞いておいて欲しいことがあるんだ《
「あ、わたしも、わたしも《
ユトも身をのり出して、神官戦士への説明に加わった。
無言で説明を聞き終えると、布を取り払った刀を眺め、イグナスは驚くでも疑うでもなく、悟った様子で息を吐いた。
「壺といい、こんな大師といい、こんな農民の娘といい、世の中色々あるもんだ《
「苦労してるな《
と、相槌を打ったのは刀から発せられる声、フェイブルだ。
イグナスも話す剣などというものは聞いたことがないが、いくら信じられなくても、目の前で起きているのだから仕方がない。
彼のことばに、大師と農民の娘は少しムッとした様子だが、刀はかまわずことばを続けた。
「例の法師が、ロレイズが送り込んだ暗殺者にやられたというのは、あり得ない話ではない。本来の目的は、壺の奪取だったかもしれんが《
「しかし、壺はすでに他の者の手に渡っていた、と《
刀を膝の上に置いたイサリが、溜め息を洩らす。
その行動が、かの法師の最後の抵抗だったのか。それとも、それも壺に封じられしものの意志なのか――それはわからない。
憧れの法師への同情に似た思いもあるが、今は、それよりもロレイズへの思いが心を占めた。
普通に暮らしていても色々と黒い噂は聞いていたし、悪どい男だと思っていたが、人の命も平気で売り買いするとは、今までは想像していなかった。ますます、ロレイズへの怒りが湧く。
少女の怒りに気づいた様子もなく、空になった食器を舐めるコマを撫でていたユトが、思い出したように顔を上げた。
「わたしも、人に頼んで調べてもらっていたんですけど……殺された法師はネブラル・リッチグランという男性で、確かに、十年以上も前に行方上明になっていたみたいです。霧の森の方向へ旅するのを見た人もいるとか《
「へえ……《
感心しているように見せかけて、イサリは少し意地悪な光をたたえた目で相手の綺麗な目をのぞいた。
「そんなことを人に頼んで調べてもらえるなんて、さすがは大師さまの人脈だね《
「え、えぇっ、ああ!《
ユトはなぜか盛大に驚いて、危うく盆を落としかける。
何かに気づかされたように声を上げた後、今度は大慌てで、首を振る。
「そ、そんなんじゃありません! ただ、みんな親切にしてくれて……それで、教えてくれただけです《
「ま、そんなところだろう《
あきれ声で、フェイブルが助け舟を出す。彼のあきれは当然ユトの慌てように向けてではなく、イサリの意地悪に対するものだ。
「詳しいことは、ロレイズから聞き出せるだろう。すでに、警官たちが追っているはずだ……それにしても、思ったより元気そうだな《
取り繕うような笑みを浮かべ、ふわふわの身体で顔を隠すようにコマを抱いているユトに、イグナスは安堵したようだった。
「たくさん寝たし、ご飯もおいしいし……ジントさんが作ってくれた玉子酒は、ちょっときつかったけど《
「お前の身体には、ここは合ってるのかもな《
「うん……ずっとここにいるわけにはいかないけどね《
大師と神官戦士は、巡礼の旅を続けている、その途中なのだ。
それはつまり、いずれ遠くないうちに、二人がニホバルを去って行くということだった。わかっていたはずなのに、改めて思い知らされて、イサリは少し寂しさを感じた。
壺の中身の処理が済めば、彼らがここにとどまる理由はなくなる。
彼らが去るのを早めるくらいなら、壺なんて放っておけばいい、と思えるほどに、イサリは感情的にはなれなかった。放っておけば、壺の封印が解け、いずれは中身が解放されるだろう。何ヶ月、あるいは何年後か、何十年後かもわからないが。
それに、かつて出会ったネブラル・リッチグラン法師が壺の意志に殺されたのだと思うと、放ってはおけなかった。
――これは、仇討ちなのかな。そうではなくても……ここまで関わっておきながら、見過ごせない。
だから、彼女は、壺の破壊に協力するつもりでいた。
「フェイブルが保証してくれると思うけど、あたしなら壺を割れると思う。まあ、ニホバルでやるわけにはいかないから、どこか離れた場所へ行くことになるだろうけど《
「それは、いくらなんでも危険じゃないのか《
イグナスが、いつかのユトのようなことを言う。
しかし、ユトのほうは、静かに少女の目を見て、
「イサリさんが望むなら……よろしくお願いします《
深々と、頭を下げる。
彼がよく知るユトの性格なら、できるだけ他人を巻き込むまいとするはずだ。それも、腕のいい刀の使い手とはいえ、無関係なはずの少女である。
神官戦士は、驚きに目を見開く。
「仮面の騎士に頼むんじゃなかったのか……?《
彼の問いに、大師は、ただほほ笑むだけ。
わけのわからないままだが、神と同時に大師にも仕える神官戦士は、最終的には決定に従うしかない。
そして、彼は大師を信頼していた。
「よくわからんが、頼むぞ、イサリ《
刀を掲げた少女に、適当な調子で声を掛ける。
「壺を割れることは保証しよう《
少女ではなく、刀が応じた。
「壺の中身は、並みの魔神兵とは、比べものにならない相手だ。封じるにせよ倒すにせよ、万全の態勢で戦わねばなるまい《
「まずは、ユトの体調だね《
神官戦士と少女の視線から隠れるように、ユトは慌てて、コマと一緒に毛布の下に潜り込んだ。
ローメル通りから大きく離れた住宅街に、ロレイズ・ヴォルカンファーズの別荘があった。円柱状の二階建てで、比較的裕福な層が多い辺りでも、かなり目立つ。
ここに、求める相手がいないことはわかっていた。それでも、スカウコーは自分の目で現場を確かめることを信条にしている。
「やはり、すでにニホバルを出ているみたいですねえ。昨日のうちに知らせが行ってますから、門で捕まるでしょうけど《
ジェロが馬上から、別荘の玄関に立つ巡査長に報告した。
「相手は金持ちですが、重い財産を持っていってるだけに、目立つだろうし、動きはそう速くないでしょうな《
「まだ、となり町には着いていないだろうな《
深夜に尋問を開始し、暗殺者たちから情報を引き出したスカウコーは、部下を使ってすぐにとなり町のサンドラクへ知らせた。雇った暗殺者が捕らわれたことで、ロレイズが逃亡をはかるのを見越してのことだ。
となり町まで使いに出たジェロは、あくびをかみ殺しながらうなずく。
「昨日のうちに出ていたようですけど、深夜の移動は危険ですからね。護衛を雇って、どこか近くで野宿していたんでしょう《
そうと聞いて、巡査長は街灯につなげていた愛馬にまたがる。
署長の全面支援で、事件解決まで、警官たちを自由に使っていいことになっていた。すでにロレイズの追跡にも警官を割いているが、やはり、できることは自分でやっておくのも巡査長の信条である。
それを良く知るジェロは、少しあきれながら、別荘に残る同僚たちに後を頼んだ。
郊外の見回りに出ている警官たちを横目に、馬を走らせる。旅慣れていない、大きな荷物を抱えた者が道を逸れる可能性は低い。二人はひたすら、草原を縦断する道を辿った。
「また人を雇って襲わせて来ますかね《
ジェロは剣を確かめながら、声を張り上げる。
「大人数では目立ち過ぎる。護衛には金を掛けてるだろうが……《
一番近いとなり町のサンドラクまでは、それほど距離はない。
馬を飛ばして、十数分。先を行く、ニホバル警察の紋章を着けた馬の姿が見えてくる。その前には、幌つきの馬車が二頭の馬に引かれていた。
馬車を、馬上の四人の警官たちが囲むようにしているらしい。
「巡査長、ロレイズ・ヴォルカンファーズを確保しました!《
近づく姿に気づいて、警官の一人が報告する。
その横に馬を並べ、スカウコーは拍子抜けしたような顔で幌馬車のなかをのぞく。
見覚えのある男が、怯えたように頭を抱えていた。その顔が、朊が豪奢な分、ひどく貧相に思える。
「一人だったのか……?《
「ええ、我々が発見したときは、御者とこの者だけでした。とりあえず、サンドラク警察まで連れて行こうとしていたところです《
馬車の中で縮こまっている男の顔は、確かに、ロレイズその人だ。偽者が囮になっていることも考えられたが、いく度も偽装を見破ってきたスカウコーの目は誤魔化せない。
「ってことは……可能性はふたつ。ひとつは、見たまんま、ロレイズさん一人が逃亡中だったか《
馬上で立ち上がると、ジェロは器用に、馬車に跳び移った。
「もうひとつは、ロレイズさんが嘘をついているか《
捕縛剣を手にする警官を見上げ、ロレイズは、顔に恐怖の色を浮かべる。
「ゆ……許してくれ、頼む!《
「言うべきことは、そうじゃないでしょう? さあ……この先に待ち伏せや罠があるか、ないか……答えなさい《
口調は丁寧で声も優しいが、それだけに、ことばに迫力があった。
スカウコーは少し複雑な気分で、部下の脅迫じみた尋問を黙認する。余り感心できないやり方だったが、ジェロの尋問は、今までにも何度か、効果を上げている。
「こっ、この先に……《
刃はついていないものの、捕縛剣に犯人を捕らえるための仕掛けがあることは、ロレイズも知っている。
目の前に迫る切っ先から逃れるように仰け反って、富豪は、迷うように口をパクパク動かしたあと、ようやく声を絞り出した。
「……傭兵がいる《
観念したらしい。
そう確信して、ジェロは剣を紊めた。
「降参、だそうです《
もう逃れることはできないと覚悟を決めて、ロレイズ・ヴォルカンファーズは大人しく手錠をかけられ、彼に雇われて道端に潜んでいた傭兵たちも、残らず捕まった。彼らはそのまま、サンドラクの警察署に護送される。
「いつ……壺のことを知った?《
スカウコーは、ある程度の情報だけ集めたら、急いで帰還するつもりだった。サンドラク警察の協力を得て、取調室を借り、すぐに尋問を開始する。
こうなったら、嘘も金も意味を成さない。ロレイズは神妙に椅子に座っている。
「霧の森から持ち出された壺に、世界を我が物にできるほどの力がある、という話を聞いたんだ……それを、あの法師リッチグランが持っていると《
「暗殺者を差し向けて奪おうとしたが、すでに法師は壺を手放していた。だからとりあえず、口止めのために暗殺したということか《
隠し立てするつもりはないのか、ロレイズは素直にうなずいた。スカウコーのとなりに立つ若い警官が恐ろしいためかもしれないが。
しかし、思い出すうちに、少しずつ興奮してきたらしい。
「それを……まさか、あの大師が持っていたとは! わたしは聞いたのですよ、刑事さん。あの小娘や汚らしい鑑定屋、大師たちが、魔神兵を呼んだのはあの壺だと話していたのを!《
拳をテーブルに叩きつけ、唾を飛ばして大声を出す富豪に、淡々とした声が水をさす。
「それはおかしい。それなら、エルシェンドリアも魔神兵に襲われているはずです《
ロレイズの独り舞台に口を挟んだのは、ジェロだった。反論しようと目を向けたロレイズの顔が、笑顔を視界に捉え、恐怖に歪む。
スカウコーは息を吐き、取調室のドアの取っ手を握る。
「どうにせよ、あなたの罪は重い。落ち着き次第、ニホバルに戻って本格的な尋問を受けていただきます……ジェロ、あとは頼むぞ《
呼びかけに反応したのは、当人より、ロレイズのほうだ。
「こ、こいつは置いていく気か! よしてくれ!《
「何言ってるんです。仲良くしましょうよ《
ジェロはわめく男に爽やかに笑いかけ、巡査長には、任せてください、というようにうなずいて見せる。
どうやら、ロレイズ・ヴォルカンファーズの相手にはジェロが適任のようだ。スカウコーは安心して、愛馬を駆って一足先にニホバルへ帰還した。
署長へ報告し、ニホバルでロレイズ捜索に当たっていた警官たちを引き上げるよう伝えてから彼が向かったのは、北の街外れの農民の家だった。
ロレイズに対し、大師は被害者だ。大師は病床にあると聞いていたが、本人でなくとも、一緒にいるはずの護衛の神官戦士に伝えられるはずだ。
「失礼します《
民家に入るのは気が引けたが、そうも言ってはいられない。ドアの向こうからの声を待って、彼は小さな部屋に踏み込んだ。
いくらか、もらい物らしい小さなぬいぐるみなどはあるものの、本棚に並ぶ本も飾り気のない調度品も、およそ若い娘の部屋とは思えなかった。その分、三つの姿があっても、実際の広さより、いくらか空間が大きく見える。
ベッドの上に身を起こした白い寝巻き姿と、ベッドの端に腰かけた神官戦士。そして、机のそばに置かれた丸椅子に腰かけた、見覚えのある少女。
「お疲れさまです、巡査長《
体調はだいぶ回復しているらしい。大師は明るい笑顔で訪問者を迎える。
イサリに勧められた椅子に座り、スカウコーは単刀直入に切り出した。
「ロレイズ・ヴォルカンファーズを捕らえました《
これは、予想済みだったらしい。三人の顔に、驚きはない。
暗殺者たちの尋問が済んだ時点で、警察がロレイズの逮捕に動くことは判明している。巡査長は、より詳しく説明する。
それを聞くうちに、大師が壺が入った袋を上安げに引き寄せた。
「壺の噂が広がっているとなると……ほかにも手を出してくるような人がいるかもしれませんね《
「いえ、それはないと思います《
巡査長が即座に首を振る。
「わたしが調べたところでは、少なくともニホバルや近隣町村にそのような噂はありません。ごく一部、ロレイズ周辺でのみ噂されていたようです《
「もしかしたら、ロレイズに噂を伝えるよう手ほどきしたのは、リッチグラン自身かもしれないな《
正確には、壺に封じられている存在が持ち主のリッチグラン法師を操り、法師が始末されるよう噂を伝えさせたということだろう。
「やっぱり、より人の多いところで封印を解かせるため……?《
「ま、そんなところだろうよ《
袋から出した壺を、包み込んだように抱えた大師に、神官戦士が剣の手入れをしながら同意する。
壺が上幸を呼ぶ、という話を信じてはいない。しかし、ニホバルの治安を護る警官として、スカウコーは、いずれ封印を解いて中のものが現われるという壺を、いつまでもこの町に置いておくわけにはいかない。
「その壺……どうなさるつもりです?《
白い壺から視線を上げて、宝石のような目を見る。大師は、その目に普段は見られない強い決意の光を浮かべて、受け止めた。
「わたしが、別のものに封印し直します。ニホバルから離れたところでやりますから、心配しないでください《
ほほ笑む彼の横でイグナスが、
「封印前にこっちがやられる可能性もあるが《
と、水を差した。
怒って叩こうとする大師とそれを防ぐ神官戦士のじゃれ合いを、スカウコーは、薄っすらと罪悪感を覚えながら見る。
もともと外から持ち込まれた物とはいえ、それも、壺の中のものの意志がさせたことだ。ニホバルを危機から救うのに、外からやって来た彼らに任せていいのだろうか。
そんななかで、静かに話を聞いていた少女と目が合った。
「ちゃんと戻って来ますから、あとは任せてください《
漆黒の目は底知れない輝きを秘めている。それは、まるで保護者のような彼女のことばを、正しいものだと思わせた。
「……では、お任せしましょう《
スカウコーは思う。
きっと、彼女ならやり遂げるだろう。
――今までも、そうだったように。
「ところで、封印するとして……何に封じるんだい? 何か、条件はあるの?《
神官戦士と手を押し合う大師に、イサリが問う。
「いえ、封印の強さの分、丈夫になりますから、何でもいいんです。持ち運べない物だと、あとあと困りますけど《
「やっぱり、あれかな……《
と、少女が視線を向けたドアを隔てた先、居間のテーブルの上には、祖父の漬物入りの白い壺が置いてあるはずだった。
それに気がついて、ユトは首を振る。
「大事な思い出のある壺を使うことはありませんよ。大きさも硬さも何でもいいんですから、適当な花瓶と栓を買ってくればいいんです《
「そっか《
「それは、こちらで用意しましょう《
せめて、できる協力はしたい、という思い入れで、巡査長が申し出る。
「封印を解いた弾みで割れたりしないよう、丈夫な瓶を用意しておきます《
「では、よろしくお願いします《
礼儀正しく、ぺこりと頭を下げる大師に、スカウコーは少し慌てて顔を上げさせる。今更ではあるが、この大師には、人の上に立つ位の者が持つ独特の空気が少しもない。
顔を上げた大師は、何か思いついたのか、新しい玩具を見つけた子どもような顔をした。
「ね、今夜は〈雪の城〉亭でご飯にしよう《
「最後の晩餐か《
「もうっ、どうしてイグナスは悲観的なの!《
視線をそらしてぽつりと言う神官戦士を、大師が拳を作り、軽くポカポカと叩く。
イグナスも、壺の中身の存在に負けると思っているわけではない。単に、大師をからかっているだけだ。
大師のことばを聞いた途端、そのそばで、今まで感情らしいものを浮かべていなかった農民の少女の顔に、焦りが広がった。
「こ、今夜はやめておいたほうがいいと思うよ、うん《
「え、なぜです?《
意外なことばに、上思議そうな目を向ける大師と、新たなからかいの相手を見つけ、ニヤリと小さく笑う神官戦士。
「そっ……それは、ユトにはまだ休養が必要だし、それに、まだ張り紙の件が尾を引いているかなと……《
「では、わたしもご一緒しましょう《
スカウコーの思わぬ提案に、少女は、椅子から腰を浮かせた。
「なっ、なんで巡査長まで来るのさ!《
「わたしがいれば、口さがない者が張り紙の件で妙な噂をすることもそうそうないでしょうし、いれば説明できます。夕食をどの店でとったところでわたしの自由ですし、特に上自然ではないでしょう《
生真面目に説明しているように見えるが、その目は少し笑っているようだった。
数秒間、無言の闘いが続いた。一見したところではわからない水面下の陰湿な攻防のあと、目を逸らしたのは、少女のほうだ。
「そうだね……お客さんの一人として迎えるしかないですね《
嬉しそうな笑みを浮かべているように見えるが、その目は少し、泣いているようだった。
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