第三章 仮面の奥のその秘密(4)

「ずいぶん遅かったな《
 イサリが、筒状の物だけでなく、背負い袋を担いで家から出ると、イグナスが、馬上から声をかけた。
 スカウコーにその部下ジェロとダズル、それに、神官戦士と同じ馬に乗るユトという、巡回を行う五人全員がそろっている。
「ごめん、ちょっと急な用事が入ってね……で、あたしも馬に乗るの?《
「ええ、わたしの馬にどうぞ《
 ダズルが、紳士的に手を差し伸べた。それを素直に握り、馬上に引き上げてもらう。
「では、参りましょうか。今日は、中央区を中心に巡ります《
 スカウコーが先頭になって、愛馬を駆る。
 イグナスの操る馬を後ろから眺めながら、結局、話しをする余裕はなかったな、とイサリは歯がゆく思う。
 街に出た彼女は、昼食に家に戻ることもできず、張り紙をはがして回っていた。張り紙の数は想像以上に多く、大勢の人間を雇って貼らせているのかも知れない、と思われるほどだ。
 警官たちも見つけるごとにはがしているが、少し間が経つと、貼りなおされているという。
 それは、イサリがはがして回ったあとも、同じことだったのか――
「あ……
 中央区へ向かう道すがら、小さな人だかりができていた。人々の視線の先には、塀に設置された、連絡用の掲示板に貼られた紙がある。
 張り紙の前に並ぶ者が、近づく姿に気づいた。そのうちの一人が、恐る恐る歩み寄る。
「大師さま……本当なんですか? 大師さまがニホバルに持って来た壺が、魔神兵を呼んだって……
「教えてください! ここに書かれているのは、本当のことなんですか?《
 ほかの者たちも、口々に訊きながら近寄ろうとする。馬上からそれを眺めたユトの表情が、わずかに引きつる。
 さらに詰め寄ろうとするのを、巡査長が馬首をめぐらせて遮った。
「やめなさい! 姿を見せず、町中に大量の張り紙を貼ることで大師を貶めようとする者が書いたことなど、根拠の無い嘘に決まっているでしょう《
 町民の信頼厚いスカウコーのことばに、人々は、とりあえず紊得したようだった。
 彼らが紙の前を去ると、ダズルが憎々しげに張り紙を取る。
「まったく、厄介な嫌がらせです。早く犯人を捕まえられるといいんですが《
「大丈夫ですか?《
 大師が放心したように、張り紙のあった壁を見つめているのに気がつき、巡査長が気遣う。
 イグナスの背後で、ユトははっとしたようにほほ笑んだ。
「はい、平気です《
「あのようなものは気にしないでください。我々も、犯人逮捕に全力を尽くします《
 言って、より賑やかな、街の中へと愛馬を促す。
 張り紙は、一箇所だけではない。彼らの行く手に、何度もその白い長方形が現われた。
 そのたびにダズルが駆け寄って、大師が内容を目にする前に、乱暴にむしり取る。昼間にはがしたばかりなのに、と、八つ当たりめいた怒りを覚えながら、同じ馬に乗るイサリも手伝った。
「すみません、お気を使わせてしまって……
 巡回区域を一周したころ、先ほどはがした場所にまだ貼られていないことを確認するダズルに、ユトが申し訳なさそうに頭を下げた。
 若い警官の顔が、かすかに赤く染まる。
「い、いえ、これもニホバルの平和を守る警察官として当然のことです《
 背筋を伸ばし、やけに緊張した様子で言うダズルの様子に、思わず皆、笑みをこぼした。
「今日も、仮面の騎士は現われませんでしたね《
 事件もなく、巡回を終わらせようと、巡査長が馬首を北に向ける。ことばとともに振り返った彼の視線が自分に向いたことを、イサリは気のせいだと思うことにした。
 飲食店街からの喧騒が風にのって聞こえてくるが、夜もふけて、住宅の多い北区では、人の姿がまばらになっている。
 空き家の多い新興住宅地を抜ける途中、突然、巡査長が手綱を引いた。
 突然のことに、馬がいななき、それでも忠実に足を止める。
「何もないままでは終わらないようだぞ《
 イグナスが溜め息を洩らし、右手で剣の柄に触れる。
 三…………五人。イサリにも、夜闇の中で展開する気配が感じ取れた。
「ここにいてください《
 ダズルが手綱をイサリに手渡し、ほかの警官たちと同時に馬を降りる。その手には、法の守り手である証、捕縛剣が握られていた。
「何者です! 姿を現わしなさい!《
 スカウコーのよく通る声が、人の住んでいない家々の間に響く。
 何かが、風を切った。
 道を照らす街灯のランプが割れ、火が消える。警官たちはカンテラを馬の鞍にくくりつけているが、視界の一部を闇に奪われる。
 なかなか、手慣れた相手だ。
 ざわめきつつある夜の空気に眉をしかめながら、イサリはそっと、ダズルの背後で馬上から降りた。
 直後、悲痛な叫びがあがる。
 四方から、投げ用ナイフが放たれた。そのすべてが、同じ標的に向かっている。
 剣を振るって弾くイグナスの後方から、一拍遅れて投げられた五本目のナイフが、馬の後脚に突き立つ。
 大きく前脚を振り上げていななく馬に振り落とされないよう、イグナスは手綱を握りしめ、ユトはそれにしがみついた。
「上か……!《
 ジェロが舌打ちした。
 ナイフが放たれたのは、家々の窓や屋根からだ。下にいる者の動きは、襲撃者にはほぼ丸見えだろう。
「こんなことなら、オレも飛び道具を持ってくるんだった《
「まあ、無理もないさ《
 スカウコーが部下をなだめながら、小型のボウガンを愛馬の鞍から取り外す。
 警官たちの馬は、金属板で武装していた。暗殺者に対してはそれほど有効な鎧ではないが、訓練された馬は座り込み、身を盾にして主を護る。
 警察に借りた馬の陰に隠れながら、イグナスもまた、ボウガンを取り出した。
「ユト、明りを頼むぞ《
 振り返りもせず声をかけながら、ボウガンの狙いを建物の窓につける。
 襲撃者一人一人がいるべき場所は限られている。先ほどのナイフの軌道から予想して、彼は素早く矢を放った。
 どさり、と音がする。どうやら、当たったらしい。
聖神導光エル・ア・デュクタ!《
 ユトが、光の球を手のひらの間につくりだし、頭上に飛ばした。光球は、小さな太陽のように辺りを照らし出す。
 居場所が知れてはナイフによる攻撃も効果がないと見てか、陰から、黒衣の男たちが躍り出てくる。
 警官たちが馬の陰を飛び出し、大師をめざす襲撃者の前に立ち塞がった。
「一人減らしておいて良かったな《
 面倒臭そうに言って、神官戦士は、後ろから音もなく忍び寄り、斬りかかろうとしていた襲撃者の一撃を受け止める。
 襲撃者の両手の指の間には、まるで爪のように、投げ用ナイフが挟まれていた。
 間合いを大きく取り、黒衣の姿は、左手を軽く身体に引き付ける。
 嫌な予感を覚えて、イグナスは身を引きながら、剣を横にしてかまえる。何かが相手の手から放たれたとわかると同時に、それを弾き飛ばした。
 艶消しナイフが、回転しながら壁に当たり、落下する。
 襲撃者の手もとでは、手品のように、ナイフを失ったはずの指の間に新たな刃が現われる。
 一筋縄ではいかない相手だ。
 横目で戦況を見ると、スカウコーのほうは膠着状態、二人の部下のほうは、ユトの援護でようやく持っている状態だった。
聖神空拳エル・ザ・パグナス!《
 光の球が、何本もの投げナイフを弾き散らす。
 だが、すべてを防ぐことはできない。ナイフの一本が肩の表面を裂くが、ジェロは臆することなく剣を振るった。
 捕縛剣の電撃を警戒して、刃を交えるのを避ける襲撃者たちの取った戦法は、至近距離からのナイフ投げだ。彼らは的確に、相手の嫌な部分を標的にして攻めてくる。
聖神光楯エル・ディ・クリピス!《
 ユトの法術による支援が、たて続けに飛ぶ。
 それだけが、命綱だ。
「観念しろ!《
 ユトの援護を背中に、イグナスは早く目の前の相手との決着をつけようと、めまぐるしく斬撃を繰り出す。
 何度も、三叉の剣が、相手の首筋を薙ごうとする。
 それを、襲撃者は大きく跳んでかわした。決して、無理をしようとはしない。
 今までの暗殺者には、命に代えても目的を果たそうという者が多かった。しかし、今回の相手は、確実に相手を仕留めようというのか、あまり積極的に攻撃を仕掛けてはこない。
 いや、これはもしや――
 急激な危機感に襲われ、神官戦士は、膠着状態の戦場を見渡す。
 時間稼ぎ。
 そんな単語が頭に浮かんだ途端、叫びが上がった。
「ダズル!《
 突然、敵のいないはずの横からの衝撃で、体格のいい警官の身体が吹き飛んだ。
 追いすがる自分の相手を牽制しながら、スカウコーが石畳の上に転がる部下に駆け寄った。
「ユト、頼む!《
 護衛としては、極力、大師に剣を持たせたくはなかった。それでも、ユトはためらいなく、法師の証でもある、飾り物のように美しい剣を抜く。
 陰から、新たな黒衣姿が滑り出る。ほかの襲撃者に比べ身体が大きく、ナイフを手にしていない。刃物の扱いではなく、拳闘術に秀でた様子だった。
 何とか身を起こそうとしているダズルの前に立つスカウコーは、三人の襲撃者全員を足止めしようと、大振りで剣を振るう。
 それを振り切り、暗殺者の一人が駆けた。まだ身動きの取れないダズルには、見向きもしない。標的は、ただ一人だ。
 それを迎えうつはずのユトの手から、剣が乾いた音をたてて、石畳に落ちる。
「ユト……?《
 イグナスの顔に、恐れが浮かぶ。
 暗殺者は、動きを緩めない。
 その行く手で、白く、闇夜の中ではほんのりと輝くような姿が、ゆっくりと崩れていくように見えた。
「ユト!《
 吊を叫ぶが、石畳の上にうつ伏せに倒れた見馴れた姿は、少しも反応しない。
 知らないうちに、一撃を受けていたのか。
 決定的な絶望感が、神官戦士の胸をよぎる。
 視界の中心で、襲撃者が、最後の三歩目を踏み出しながら腰を落とし、四本の投げナイフの柄を握り込んだ右手を、細い首筋めがけて振り下ろす。
 イグナスは自分の相手にボウガンを投げつけ、後ろも見ずに駆け寄ろうとした。その背中にナイフが投げ放たれるが、痛みなど、今の彼には何の意味も持たなかった。
 その目の前で、赤いものが、法師と暗殺者の間を流れた。

 何かに包まれているような暖かさに、彼は再び、まどろみに引きずられそうになる。
 それでも、頭のどこかではそんな場合ではないという警鐘が鳴り続け、湧き上る焦燥感に突き動かされるように、重いまぶたを開く。
 見上げたそこに、異質な光景があった。
 角の生えた獣を象ったような、暗い黄色の仮面。まとったマントも、仮面に開いた二つの穴からのぞく目も、闇色だった。
「ずいぶん遅かったじゃないか、騎士さま《
 息を切らせ、二人を相手にしながら、巡査長が軽い調子で言った。
「道が込んでいたものでね《
 少しくぐもったような声が答えて、右手で石畳に突き立つ刀を抜く。
 その刃に邪魔された襲撃者は、異質な相手に迷うかのように大きく間をとったまま、新手の様子をうかがう。
「仮面の騎士……?《
 その腕に抱えられ、ユトは半ば朦朧としながら見上げた。
 捜し求めていた相手に、やっと会えた。熱で上気した顔に、喜びが広がる。
「話は、この場を落ち着けてからだ《
 無邪気な笑顔を見せる大師をそっと降ろして、無造作に、刀で空を薙ぐ。
 隙をうかがっていた襲撃者が、当人もわけのわからぬうちに、大きく吹き飛んだ。
 仮面の騎士は、動きを止めない。怪我を負いながら戦うイグナスに加勢し、暗殺者の手首を斬り飛ばす。
「助かった《
 素直に礼を言って、神官戦士は、暗殺者のみぞおちをブーツのカカトで蹴りつけた。
 力の均衡は崩れ、勝負は見えた。スカウコー巡査長の前で踏みとどまっていた二人が、相手の加勢を見て、身をひるがえして闇に走る。
「待て!《
 巡査長は素早くボウガンの矢を射掛けるが、それは目標を捉えることなく、壁に弾かれる音を返した。
 戦いの熱が、一気に冷えていく。静けさが、いつの間にか法術の光が消えて闇が、周囲に戻る。いつもの、何の変哲もない夜の住宅街へ。
 だが、周囲は惨憺たる有様だ。
「ユト……
 背中にナイフを突き立てたまま、イグナスは、意識のない大師を抱き起こす。
 ふと見回すと、仮面の騎士は、すでに消えていた。代わりに、少女が駆け込んでくる。
……どこ行ってたんだ?《
「近くに、ほかの巡回組みでもいれば応援を頼もうと思って、駆け回ってたんだよ……でも、大丈夫だったみたいだね《
「命は、何とか大丈夫だったけどな《 
 苦笑して、ようやく、背中のナイフを抜いていく。
「毒は塗られていないようですが、医師の手当てを受けてください。ジェロ、ダズルとイグナスさんのことを頼む。わたしはこいつらを尋問だ《
 すでに呼吸を整えた巡査長が、テキパキと指示する。彼も負傷しているはずだが、その物腰は、まったくいつもの通りに見える。
 そんな上司に、ジェロが信じられない、という目を向けた。
「まだ働くんですか。巡査長、尋問は明日にしましょうよー《
「こいつらはプロだ。脱出もお手のものだろう……時間を作らせないうちに、体力を回復させないうちに、仕掛けたほうがいい《
 もちろん、尋問に対する耐久力も高い人種だ。秘密を口外するくらいなら、自ら死を選びかねない。
 それでもなお、巡査長が尋問にこだわるのは、尋問のプロとして口を割らせる自信があるからだろう。
 彼は襲撃者たちを縛り上げながら、少女に目を向けた。
「大師さまのことは、イサリさんに任せておけば安心でしょう。頼みましたよ《
 あきらかに、相手が知られたくない何かを知っている、有無を言わさぬ目。
 ――ああ、バレてる。
 少女は、引きつった笑みを浮かべた。
「そ、そうですね、任せてください……あはは……
「頼んだぞ《
 少女の乾いた笑いを上思議そうに眺めながら、神官戦士は、大師の身体を少女に手渡した。

 次に目覚めたとき大師が目にしたのは、黒目黒髪の、少年の顔だった。
 窓から差し込む光が眩しくて手をかざす彼を、少年は、目を丸くしてのぞき込む。
「大師さま、気がついたんだね。大丈夫?《
 どうやら、教会ではないらしい。ぼうっとする頭で、ユトは何とかそれだけを考えた。
 額には濡らした布がのせられ、身体には毛布が幾重にも掛けられている。暖炉のない小さな部屋だが、ベッドの中は充分暖かい。
「ここは……あなたの部屋、ですか?《
 それにしては、本棚には難解な本が並び、父親のお手製らしい机から、白いエプロンが垂れ下がっていた。
「いや、姉貴の部屋。教会のベッドは、神官戦士さまに使わせるからってさ《
 ケイルのことばに、ユトは熱が上がったような気がした。
 いくら意識のない病人だったとしても、女性のベッドで寝るなど、彼にとっては背徳的なことに思えた。
「あの、わたし、大丈夫ですから……! イサリさんは、どこに?《
「姉貴なら、畑だよ。それと、熱が下がるまでは家から出すなって言われてるから《
 ケイルは、少し意地悪な笑みを見せた。さすが姉弟だ、とユトは思う。
 どうにしろ、行くあてはない。イグナスが使うというなら、教会のベッドはいくらでもあけ渡すつもりだ。彼はイグナスに、いつも床で寝てもらって悪いと思っていた。
 目を閉じると、なぜか彼は、仮面の騎士に抱えられていたときのぬくもりを思い出す。
 結局、会えたのか会えなかったのかもわからない。熱に浮かされて見た夢のようだった。イグナスたちに会えたら、確かめなければ。
 目を開けると、先ほどより、いく分か頭がすっきりしていた。改めて今の自分の状況を見て、イサリのベッドではなくせめて床で寝ようと、身を起こして足を床につける。すると、くるぶしに何か硬いものが触れた。
 何気なく、それを引っ張り出して拾い上げ、大師は、信じられない物を目にする。
 ドアのきしんだ音が耳に届く。ケイルが、かゆを載せた盆を両手に、部屋に入ってくるところだった。
「あ、あ……
「どうしたの、大師さま?《
 ケイルは、心配そうに問うてから、大師が手にした物を見る。
 そこに掲げられていたのは、角のある、人間の顔とは思えない形をした仮面だ。
「ああ、これか。昔、父さんが遠くの町の祭で買ったお土産だよ。こんなシュミの悪いもん、まだ持ってたんだ《
 至極平然と説明するケイルから視線をそらし、ユトは天井に視線を泳がせて、
「見なかったことにしましょう……
 独り言のようにつぶやいた。