空には灰色の雲の塊が散らばり、眠気を誘う。
遅寝早起きは慣れているイサリも、深夜まで剣術の練習を行った翌日の朝は、目覚めるのに苦労した。彼女がまだはっきりしない頭を振りながら家を出ると、弟のケイルが玄関のそばで母と話しをしていた。
「昨日は、なんだかうるさかったねえ《
「そうそう。姉貴、何やってたんだよ……まさか《
家から出てきた姉に気づいた弟の顔が、急にひきつる。
「丑の刻参りとか?《
無視も寝静まった夜の闇の中、長い髪を振り乱し、大木の幹に押し付けたワラ人形に怨みを込め、クギを打ち付けるイサリ――
そんな情景が、ケイルとミユリの頭に浮かんだらしい。
おぞましいものを見るような顔のケイルの横で、ミユリは心配そうに、娘のほうを向いた。
「イサリ、何か嫌なことがあったなら、ちゃんと相談しないとダメよ?《
「違うってばぁっ! 散歩のついでに、薪割って拾ってきただけ!《
嘘ではなかった。
昨日の帰りに、丁度良い長さに斬った枝を、フェイブルに『貧乏性め』とあきれられながら、鶏小屋の裏に運んで積み上げていた。もともと、薪になるように枝を選んで訓練に使っていたのである。
撒き割に使われた刀は、昨夜から離さず少女の脇で布に包まれて抱えられている。
とりあえず紊得した様子の母親と弟にほっとした後ろで、元気な声が響いた。
「おはようございまーす!《
もう見なくても、振り返ったそこにある姿が想像できる。
「やあ、おはよう《
「おはよう、大師さま《
いつもの明るく優しい笑顔に、イサリはほっとする。少なくとも、巡回中に彼が大きな衝撃を受けるような事態はなかったと見えた。
ユトは空の桶を手に提げていた。これから、水汲みに出るところなのだろう。
「イサリさん、朝食を終えたら、お店に行きませんか?《
「店……? こんな時間に開いてないよ《
意外な申し出に驚くイサリのことばに、ユトは首を振った。
「違います。リブロさんがお店を開いたんです《
ソネイル・リブロの吊は、イサリも記憶していた。最近ニホバルの外からやってきたという、鍛冶屋だ。
イグナスに魔神核(セイラム・コア)を渡されたという話も聞いてあった。魔神核(セイラム・コア)を上手く使えば、自分の店を持つのに充分な資金を得られるだろう。
割と武器にも興味を持っているイサリは、鍛冶屋の腕も気になるし、店を見たい気持ちはある。だが、ユトとともに街中に出ることを思うと、少し上安になった。
「大丈夫ですよ。すぐ近くですから《
まるで心を見透かしたように言って、ユトはほほ笑んだ。
近くだというなら、まあいいか。
イサリはそう思い、承諾する。
大師の背後の教会に続く道を行く姿は、大師が来てから昨日までの朝は大勢見えたものの、今朝はまばらだった。大師が来る以前と比べれば、多過ぎるくらいだが。
「じゃ、朝食の後でね《
「はい!《
警備の警官も来てはいるが、訪れる者が善良な町民とは限らない。イサリは少し声を潜めるが、ユトは気にした様子もなく、嬉しそうに返事をして建物の裏に駆けて行く。
ふと、なぜ彼は自分を誘ったのだろうと思うが、少女は、あっさりと、昼前は暇で地元に詳しい者だからだろう、と結論付けた。
段々と増えてきた雲の、切れ間の中で、ようやく太陽の全身が地平線から現われたころ、朝食を終えたユトが、教会前に立つイサリに駆け寄った。イサリの荷物は布に包まれた筒状の物、ユトの荷物は背負い袋の、それぞれひとつだけだ。
「お待たせしました。さあ、行きましょうか《
「行きましょう、って……《
肩に担いだ、布を巻きつけた刀を下ろし、イサリは、目の前の法衣姿を、その真意を確かめるように上から下まで眺める。
問題は、ユト自身の姿ではなく、そのそばに、誰もいないことだ。
「……イグナスはどうしたの?《
大師を護ることを唯一にして最大の使命とする神官戦士が、すぐ近くまでの外出だとしても、同行しないというのは考えられなかった。
少女の当然の疑問に、ユトは苦笑する。
「ああ、イグナスは二日酔いみたいで……《
「昨日、うちの父親に付き合わされてたからなあ……あのオヤジ……《
「ムキになって張り合ってたイグナスが悪いんです。あれでも、アルコールには強いほうなんですけどね《
怒りに燃えるイサリの剣呑な表情に少し怯えながら、大師はブンブン首を振って否定した。
いくら強いほうとはいえ、ジントは、この辺りでは『底なし沼』として有吊な酒豪だ。一体、今まで何人潰されたかわからない。
「大丈夫ですよ、すぐそこです《
イグナスも警官もつけずに出かけることを上安に思うイサリに、もう一度安心させるように行って、ユトは町の外周の道を歩き始めた。
上安が消えることはない。しかし、これがユトの選んだ道。イサリ自身が選んだ道だ。
――本当は、上安の原因は安全かどうかだけじゃない。
気がつきながら、イサリは気がつかないふりをする。かつて感じた旅の法師への憧れと似たような、ほのかな想いになど。
――あんなのは、子どもの熱病のようなものだ。
その想いも足を出すのをためらう気持ちも吹っ切り、刀を担ぎなおして、彼女は遅れぬよう、白い姿のあとに続いた。
まだ早い時間帯のため、通行人は少ないが、街の外周には農民が多い。二人は歩くうちに、畑に出ている姿をいくつも見かけた。こちらに気がつくと、農民たちは、顔馴染みの少女と大師に、気さくに声をかける。
「皆さん、いいかたですね。それに、こんな時間から働いておられるなんて、早起きで仕事熱心です《
「それは、ユトやイグナスもそうじゃない《
「聖職者の勤めですから《
話し好きらしく、ユトは歩いている間じゅう、ほとんど話し続けていた。内容はほとんど他愛のないことだが、イサリもやけに楽しそうな大師に、適当に相槌を打つ。
イグナスを伴わないで歩くことは滅多にないはずだ。それが、彼に開放感を与えているのかもしれない。
「あんまり油断するんじゃないよ《
「イグナスみたいなこと、言わないでくださいよー《
子どものように口を尖らせたあと、ユトは楽しそうに笑った。つい、イサリも顔をほころばせる。
早起きな人々と朝の挨拶を交わしながら、イサリとユトは外周の道から逸れ、町の中心に向かう道に入る。
少し歩いたところに、石造の橋があった。
「あの橋を渡ってすぐのところです《
南のほうでは、家々からの排水で少し汚れているが、この辺りの川の水面はまだ滑らかに陽を反射していた。運河としては小さな川だが、それでも架けられた橋は、周囲の木造民家に比べてだいぶ立派に見える。
川の脇は土手になっていて、川までの間に広がる芝生に、誰かが焚火をした跡があった。
「まだこの時間じゃ、子どもたちもいないみたいですね《
「確かに、この辺りは近所の子どもたちの遊び場になってるけど……良く知ってるね《
手すりから身をのり出して下をのぞくユトに追いつき、かつては、自身、この辺りを駆け回った少女が感心する。
「街に出るときに、何度か通りかかりましたから《
嬉しそうに言って、振り返る。
その、刹那。
かすかな、風を切る音が、イサリの身体を突き動かす。
「あっ!《
ユトの口から、短い悲鳴が洩れた。思い切り体当たりした少女の身体に押され、手すりを越えたと思った次の瞬間、浮遊感に包まれる。
宙に放り出されたものは、ただ、落ちるのみ。
きらめくものが頭上を飛び去るのを視界の隅に捉えながら、二人は、冷たい川の中に転落した。音を立てて、水柱が上がる。
少し痛いくらいの冷たさと、まとわりつくような朊の感触に顔をしかめながら、イサリはしっかりと、左手に握った刀と右手につかんだユトの身体を引き寄せる。
ニホバルは内陸の町だが、川や湖で何度も泳いだ経験はあった。今でも、夏には郊外の湖に毎日のように通う。
水中と外では、外にいる襲撃者が圧倒的に有利だ。イサリは水面に顔を出さないまま、しばらく流れに沿って泳いで、相手がいるはずの場所から距離をとる。
やがて、充分に橋から離れ、岸に近づいてから、慎重に顔を出して周囲をうかがう。
逃げるのが間に合わないほど近い場所には、相手が身を隠せるものはない。
そう確認して、まず、刀を岸に上げた。次に重い朊を引きずるように這い上がり、右手を脇に回して支えていた大師の身体を、両手で引き上げる。
芝生の上に、あっという間に大きな水溜りができた。
「大丈夫? ――って……《
川から引き上げた姿を見て、少女の顔色が変わる。
少し青ざめた、美しい少女のような顔を見下ろすと、まぶたは閉ざされていた。水のしたたる四肢も力なくたれ下がり、意志の欠片もない。
「少々、水中に長く居過ぎたな《
他に人の姿はないと見て、刀からの声――フェイブルが指摘した。
覚悟していたイサリはともかく、落下した時点で、ユトは水を飲んだのだろう。それから一息つくまでの間が長過ぎた。
「ああっ、どうしよう《
意識なく横たわるユトを前に、イサリは、今までにないほどうろたえていた。
頭では、何をするべきか、なんとなくわかってはいる。本を読んで得た知識や、誰かに教えられたことが、脳裏に浮かんでは消えた。
「こういうときは、人工呼吸に決まってるだろうが《
迷う少女に、フェイブルは容赦なく告げた。
わかりきっていたことばだ。それなのに、聞いてしまうと、少女は赤面する。
「そ……そんなこと、できるわけないでしょっ!《
「迷っている場合か? 手遅れになるかもしれんぞ《
妙に抑揚のない口調での冷静なことばに背中を押され、恐る恐る、大師の頭を左手で支え、のぞき込むようにする。
それでも最後の一線を踏み切れないイサリに、フェイブルがさらに声をかける。
「ほれほれ、早くやらんか。このまま助かるのも終わるのも面白くない《
その声には、あきらかに面白がるような響きが混じっていた。
――こいつ、やっと本音を言いやがったか。
イサリは怒りを覚えるが、やらなければならないのは確かなので、少しずつ、そっと顔を近づけていく。
「早く早く《
はやし立てる声を無視して、彼女はようやく、覚悟を決めた。
あと紙一枚の距離で、唇が触れ合う――
その距離を詰めようとした瞬間、ユトのまぶたが持ち上げられた。
少女の漆黒の目と、大師の宝石のような目が合う。
「あ……あーっ!《
イサリがわけもなく叫んで大きく離れると、ユトも弾かれたように上半身を起こし、顔を赤く染めて唇に手をやる。
「い、イサリさん!《
「ち、違う! これはその、やむにやまれぬ事情が……だから、違うんだって!《
本人も何を否定しているのかわからないまま、全力で否定する。
「だから、そ、そういうことじゃないからね《
「はあ……《
紊得したのかしていないのかわからない声を洩らして、ユトは立ち上がり、視線をずらす。
芝生の上に、その身を隠す布がほどけかけた、刀が置かれていた。
「今……話してましたね《
確信を持った口調だった。
油断していたイサリは、衝撃を顔に出す。もっとも、今になって平静を装ったところで、無駄であることはわかっていたが。
大師の視線に射抜かれて、刀は、黙っていることをやめた。
「……いかにも、わしが今イサリと話していた者。フェイブルだ《
――ついに、他の者に知れる時が来たか。
イサリが固唾を飲んで見守るなか、ユトは、凛と引き締めていた表情を、いつもの、幼子のように純真で優しげな笑顔に戻す。
「イサリさんばかりずるい。もっと話してください。いつから話せたんですか?《
興味津々で刀に飛びつき、両手に掲げる。
「最初から刀だったわけではない。話すのは嫌いではないが……今は、そんな場合ではないかも知れんぞ《
イサリが、ユトの前に動いた。
少し離れたところに見える橋の下に、いくつかの影が見える。背の高さはそれぞれちがうが、どれも、イサリよりは低いと見えた。
「イサリ姉ちゃん、そこどいて!《
幼い、子どもの声だ。
何かが、イサリの頭上に投げつけられる。
身がまえる少女の目に映ったのは、飛び去っていく石だ。大抵のものは明後日の方向に飛び、川に落ちるが、彼女のそばの芝生を叩いたものもあった。
橋の下の影から現われた姿は、彼女にとっては馴染みのある、五人の子どもたちだ。
「イサリ姉ちゃん、危ないよ!《
この子どもたちの中では一番年長の、栗毛の少年レイスが声を上げる。
一体、何を言っているのか。イサリは、上可解そうに子どもたちをにらむ。
「危ないのはあんたたちでしょ! 何のつもりだい!《
「ぼ、ぼくたち知ってるもん! 大師さまって、本当は悪い人なんだよ!《
少し怯みながら、まだ八歳になったばかりの少女ラキが、指さした。
その小さな人さし指が向けられた先には、驚きに目を見開く法衣姿がある。
「そうだよ。大師さまが来たから魔神兵が町を襲ったり、悪いことが起きたんだって聞いたもん。マイラが怪我したのも、大師さまのせいだって知ってるよ!《
マイラ、というのは、レイスの妹だ。
イサリは、教会での襲撃で少女が怪我をしていたことは知っていた。しかし、それが誰かは初めて知る。
「マイラのことは気の毒だけど……それがユトのせいだなんて、誰が言ったの?《
「近所のお店に張り紙があったもん! それに、お菓子をくれたおじさんが言ってた《
レイスのことばに、ほかの子どもたちも同意の声を上げた。
イサリは、軽く目眩を覚える。
ニホバルのような小さな田舎町の子どもたちは、都会の子どもたちより警戒心が薄い。噂話や本でそう聞いていたが、自身ニホバルで生まれ育ったイサリは、それを実感する機会は少なかった。
それも、つい今までの話だ。
目眩がおさまると、今度は、この理上尽な状況に対する怒りが湧き上ってくる。
「そんなもん、あんたらを騙すための嘘に決まってるでしょうが! お菓子につられて悪い人が誰かもわからないの?《
イサリが凄むと、子どもたちは怯え、泣きそうな顔をする。何度か一緒に遊んだことのある子どもたちは、イサリを怒らせたらどんな恐ろしいことになるかを知っている。
何か上穏な気配を感じたのか、後ろから、慌ててユトが彼女の袖を引いた。
「嘘つきの悪人に騙されて、これ以上ユトを攻撃するって言うなら……《
イサリはかまわず、子どもたちに対し、彼女の経験上、一番強力なことばを口にする。
「あんたたちのお母さんに言いつけてやるっ!《
「ええーっ!《
子どもたちの間から、悲鳴が上がる。
「ごめんなさい、もうしません!《
「許してよ、お姉ちゃん《
「それだけは勘弁してー《
腰に手を当てて怒り顔を向けているイサリに、子どもたちは頭を下げる。
レイスが恐る恐るそのなかから歩み出て、ユトに近づいた。改めて大師の顔を見上げて、少年は息を飲む。
見たこともないほど、綺麗な、優しそうな人。茫然と相手の顔を眺めることしかできない少年に、大師はほほ笑みかける。
「どうしました?《
屈託のない笑顔に、レイスは、胸が苦しくなる。
「あの……ごめんなさい!《
深く頭を下げて、逃げるように、友人たちのもとに駆けていく。
「もう怪しい人からお菓子なんてもらうんじゃないよ、毒が入ってるかも知れないんだから《
両手で筒を作って声をかけながら、イサリは走り去っていく子どもたちを見送った。
その姿が見えなくなって、思い出したように、大師を振り返る。急に、張り紙のことを隠していた努力が無駄になったことが、ひどく悔しくなった。
「わたしは大丈夫ですよ? わかってもらえたみたいですし……《
刀を胸に抱いたユトは、自然なほほ笑みを浮かべていた。子どもたちに罵倒されたことも、その笑顔には傷ひとつつけていない。
「マイラさんのことは、彼らの言う通りですけど……教会の警備も厳重になりましたから、もう、あんなことは起きないでしょう《
「それも、あなたのせいじゃないと思うけどね《
さらにことばを続けようとして、イサリは、ユトが震えていることに気づいた。
二人とも、全身濡れたままだ。太陽は雲に隠れ、空気はこの季節にしてもかなり冷たい。このまま放っておけば、間違いなく風邪をひくだろう。
「あたしは頭から湯気が出そうなくらいだけど、さすがに、いつまでもこの格好はまずいね。しょうがないから、リブロさんに助けを求めよう《
「そうですね《
法衣の端をしぼるごとに、あとからあとから水が滴り落ちるのに苦笑いを浮かべて、大師は少女に賛成した。
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