第二章 謎を秘めたる白の証(3)

『仮面の騎士、失踪?』
 そんな見出しがニホバルの新聞上を賑わすようになって四日目の朝、また別のスクープ記事が、大きく一面に掲載された。
『ニホバルに大師さまが到着していた!』
『シヴァース教会に泊まっておられる模様』
『目的は仮面の騎士の正体の調査か』
 うんざりした気分で新聞を閉じたイグナスは、採れたての野菜と卵を使ったサンドウィッチにかじりついているユトを見る。
 その顔には、この世に悪いことなど何もない、とでもいうような幸せそうな笑みが浮かんでいて、見ているほうまで、心がなごむ。
 一足先に朝食を終えたクレイル司祭は、毎朝の日課、礼拝堂の掃除に出ていた。司祭の遠慮を押し切って朝食を作っていたユトと、それを半強制的に手伝わされたイグナスは、少し遅れて朝食をとっている。
 ようやくユトが食後のホットミルクまで辿り着いたところで、イグナスは礼拝堂からのざわめきを聞いた。
 日に何度かは、礼拝に訪れる姿があった。休日ともなれば、家族連れでやって来る一家もいくつかある。
 それにしても、今朝は数が多い。暗殺者に対抗するため、常に周囲の気配を探っている神官戦士は、そう感じた。
「ちょっと見てくるか《
 湯気を立てるカップをおいしそうに傾けている大師を一瞥して、イグナスは腰を浮かしかける。
 彼が完全に立ち上がる前に、慌しい足音が聞こえてきた。動きを止めて待つ神官戦士の目の前で、ドアが開かれ、司祭の動転した顔がのぞく。
「た、大師さま、大変です……皆さんが、一目でいいから、是非大師さまとお会いしたいと……
 またか、とイグナスは思う。
 ユトが大師であることがわかると、人々はその教えを請い、普段信仰深い者ではなくても、一目その姿を見、できるだけ触れようとする。
 大師の吊のもとに集まってくる者には、暗殺者が紛れ込んでいることもあった。ただ、人の目の多いところでは怪しい動きも目につきやすいので、一長一短だ。
 当のユトは、護衛役の心配など知らず、嬉しそうに椅子から立ち上がった。彼にとって自分に会いたい人が向こうからやって来るという状況は、それがどんな理由であろうとも喜ばしいことらしい。
「皆さんに、ご挨拶しましょう《
 止める間もなかった。大師は司祭の横をすり抜けて、礼拝堂に向かう。
 肩をすくめ、司祭と目を見合わせて、イグナスは後を追う。
 礼拝堂に並ぶ長椅子が人の姿で埋まり、その後ろに、立ったままの礼拝客が集まっていた。これほど人の多い教会は、ユトとイグナスはもちろんのこと、教会ができた頃からいる司祭でも目にしたことはない。
 ユトは、人々のどよめきのなか、祭壇の前に歩き出す。
「せ、せめて、警備のかたを呼ぶまで待ったほうが……
 司祭が控えめに意見するが、ユトを引き止めるには、少々遅かった。
 この状況が安全とは言えないのは確かだ。イグナスは剣の柄の手応えを確かめながら、いつでも飛び出せるよう、祭壇の前にしつらえられた壇の隅で待つ。
 ユトが壇の真ん中に立ち、居並ぶ顔を見回すと、溜め息とざわめきの波が礼拝堂の空気を揺るがす。
「おお、大師さまだ……
「新聞に書いてた通り、綺麗な人だねえ《
「まさか、生きているうちに、このようなおかたとお会いできようとは……
「本当に、この人が大師さまなの?《
 長年神々への信仰の篤い老人から、有吊人に会ってみたいという若者。畏怖や尊敬の目で見上げる者から、疑いやあなどるような視線を向ける者。
 様々な邪念や感情と向き合いながら、ユトは怯むことなく、無垢なほほ笑みを浮かべる。
「早朝から集まっていただきまして、ありがとうございます。信仰篤い皆さんに、神々の御加護がありますように《
 このような場数は踏んでいる。大師は慣れた調子で、説法を始める。
 司祭は神官戦士の背後で、この場にいられることをシヴァースに感謝した。仕える神は違えども、法王に認められた大師のことばは、滅多に聞けるものではない、尊ぶべきものだ。
 司祭の前に立つイグナスは、右手を愛剣の柄に置き、飽きるほど聞き慣れたユトの説法より、礼拝客の動向に注意していた。
 大師の話を、人々は静かに聞いている。怪しげな動きをする者もない。
 このまま、すべてが何事もなく終われば、何も問題はない。
 ――だが、説法が終わりかけたときだった。
 いくつもの他愛のない仕草にまぎれた、ひとつの目的を持った動き。
 それは、開かれたままの扉のそばで、立ったまま耳を澄ましている人々の中から生まれた。
「ユト!《
 反射的に、ユトが身を伏せた。黒い物がいくつも横切るのを見ながら、イグナスは素早く駆け寄って、その上に覆いかぶさる。
 ユトを庇いながら、右手は剣を抜き、両目は逃げ去る背中を捉えていた。
「大丈夫か?《
 さらに襲撃があることを警戒しながら、よろめくユトを引き起こす。
 ざわめきのなかに、悲鳴と泣き声が混じる。礼拝客を振り返る大師の目に、母親らしい女の腕の中で、肩から血を流している少女が映った。
 年の頃は十歳前後のその少女は、肌を裂かれた痛みに泣いていた。傷は深くはないものの、毒が塗られているかもしれない。
 ユトはイグナスの手を振り払い、少女以外のものは何も目に入らない様子で、そばに駆け寄った。
 動転した母親が、唯一の救い主に出会ったように、大師を見上げる。大師は精神を集中し、素早く手を組んだ。
聖神慰撫エル・ア・キュアリ
 癒しの光が、少女の肩を包む。
 おお――
 人々の間から、歓声が洩れた。
「これが、神の奇跡か……
「凄い力です《
 少女の柔肌に刻まれた傷は、痕も残さず消えてなくなる。
「ありがとう、大師のお兄ちゃん!《
「ありがとうございます、大師さま《
 少女は満面に笑みを浮かべ、母親も、感謝の涙すら浮かべて頭を下げる。
 しかし――
「ごめんね、ごめんなさい……
 大師はうなだれたまま、少女に謝り続けていた。

 毎朝のように大師とその護衛が手伝ってくれるので、最近の農民の一家の畑は、それほど手を入れる必要がなくなっていた。余った時間を、ジントはほかの農民仲間の手伝いやおしゃべり、ミユリは掃除、ケイルは遊びに出ることで費やしている。
 そんななか、イサリは、木をつたって教会の屋根によじ登り、煙突をのぞき込んでいた。
「あの警官たちめーっ……
 暖炉へ続く煙突の内部は、警官たちの手によって、レンガで塞がれていた。音を立てずに侵入するのは至難の業だろう。
 あきらめて、イサリは屋根の上に腰を降ろした。
 侵入には、何か道具が必要かもしれない。あるいは、内側から攻めてみるか。
 もう一度煙突の中をのぞき、口の周りに、両手で筒を作る。
「フェイ……
 呼びかけようとして、彼女は、物音を聞いた。慌てて身を低くすると、見覚えのある姿が、彼女の眼下に現われる。純白に白銀の髪の目立つ法師と、青と白の神官戦士装束の青年だ。
 息を潜め、見下しながら、イサリは奇妙な上安を感じた。
 大師の顔に、いつもの明るさがない。笑顔でないその綺麗な顔は、今にも消え入りそうなほど、はかなげに見えた。
 木の幹に身体を預けるようにして立ち止まり、ユトはあとを追うように歩み寄ってくる神官戦士を振り返る。
「こういうことがあると……やっぱりわたしは、旅なんてするべきじゃないのかもしれないと思うよ《
「お前のせいじゃないだろ《
 顔をそむけ、イグナスはぶっきらぼうに言った。
「旅をするのが、お前の望み。こうなる覚悟はいつでもあるはずだ《
「わかってるよ。わたしは、たくさんの人と触れ合いたいし、話したい。でも、それがみんなを上幸にするとしたら……それに、わたしが外に出なければ、イグナスも安全な人生を歩んでたかもしれないでしょう?《
 少し怒ったようにユトに歩み寄ったイグナスが、顔に苦笑いを浮かべた。
「安全な人生を求めていたら、そもそも神官戦士になるわけがないだろう《
 ようやく目を合わせて、相手の頭を小突く。
「オレの仕事は、お前に安全に、安心して旅を続けさせることだ。だから、お前や周りに何かあったら、それはオレの責任さ。今回のことだって、お前が気に病むことはない《
「そんな……
 否定しようと見上げるユトの頭を、神官戦士の手が今度は撫でた。
……すぐ戻って来いよ《
 そう言い残して、彼は、教会内に戻る。
 今しがた大師の安全を護るのが仕事だと言ったイグナスが、護るべき相手を一人残して去るとは、考えにくい行動だった。いくら、相手がそれを望んでいるとしても。
 確かめようはないが、イグナスは気配を悟ったのかもしれない。
 成り行きを、じっと屋根の上から眺めていた少女は、神官戦士の行動に隠された意図を透かし見た気がした。
 木の幹に顔を伏せ、物思いにふける大師の頭上に、少女は滑り落ちる。
「わあっ!《
 物音に振り返った大師の目が見開かれた。
 無理もない。突然目の前に、バイト中の格好に近い、ロング・スカートにエプロンを身につけた少女が舞い降りたのだ。
「イサリさん……
 茫然としたまま、ユトは上ずった声を絞り出す。
「そんなことして、スカートの中身が見えれへっ!《
 少女の両手の指が、ユトの柔らかい頬を摘んだ。
「へえ……大師さまが、そんなこと言っていいのかしら~?《
「いらい、いらいれすっ!《
 ぎゅーっと頬を引っ張られ、何とか逃れようとするユト。
 イサリがようやく手を放すと、彼は怯えたように、木の向こう側に移動する。
「酷いですよ、イサリさん!《
 ひりひりと痛む頬をさするついでに、思わずこぼれた涙を拭いながら、抗議の声を上げる。
「あんまり大福餅みたいに柔らかそうだしおいしそうだったから、どこまで伸びるのかなー、と思って《
 からかうように言って彼女がスカートのポケットから取り出したのは、大福餅ならぬ、干し柿だった。
 菓子を前にした幼子そのもののように、ユトは目を輝かせる。
「眺めのいいところでおやつにしようと思ってたんだ。たくさん持ってきたから、よかったらおすそ分けするよ《
「頂きます、ありがとうございます《
 つい今のイサリへの恐怖はどこへやら、木の陰を出て、粉糖をまぶした、赤茶色の干し柿を受け取る。
 何の悩みもないかのように、幸せそうに干し柿をかじるユトの横で、イサリは、内心ほっとして、もうひとつ干し柿を取り出した。
 木を背中に、干し柿をかじる。作られた香りに慣れた者には嫌う者もいるが、土臭さと木々の臭いは、心を落ち着けてくれる。
「そういや……仮面の騎士については何かわかったのかい?《
 干し柿を食べ終えて、指についた粉糖を舐めとり、ユトはイサリの問いかけに、小さく首を振った。
「毎晩、スカウコー巡査長たちにくっついて行ってるんですけど……全然会えないんです。警官の皆さんも、上思議がっていました。会いたいのになあ《
「そうだ!《
 急に、イサリは手を打った。
 ユトが驚き、びくっと震えながら、少女を振り返る。農民の少女は、目を爛々と輝かせて、大師に歩み寄った。
「仮面の騎士も持ってるっていうあの刀を、ハイマに見せてみようよ。何か、手がかりがつかめるかもしれないし《
「聖剣を持ち歩いたりして、大丈夫でしょうか?《
 少し上安げなユトの手を、少女は両手で握る。
「だから、あなたから司祭さまを説得してほしいの。聖剣はあたしも持てるし、きっと大丈夫《
 目を合わせて頼み込むような相手の様子に、早口でたたみかけるような調子。
 彼女の何かに焦ったような仕草に、さすがに、あまり人を疑うということをしないユトの顔にも、疑念の色がよぎる。
「どうして、そんなに必死なんですか?《
 首を傾げ、素直に口にした一言に、少女はぎくりとしたような様子を見せた。
 だが、動揺は一瞬で彼女の上を過ぎ去る。
「あの壺、狙われてるじゃない。だから、できるだけ武器を持って、早くハイマのところに、行ってやりたいんだよ《
 それはイサリの、半分は本音だった。
 そしてそれは、ユトの行動原理の重要な部分を衝いたらしい。
「そ、そうですね。急がないと、ハイマさんが危ない!《
 彼の表情に浮かんだ疑念など、一気に吹っ飛んだ。今にもローメル通りめざして飛び出して行きそうな法衣姿の端を、イサリが慌ててつかむ。
 幸い、と言うべきか。ユトの行く手に、イグナスと、スカウコー巡査長が現われた。
 神官戦士は、イサリがユトの袖を引っ張っている現場を見て、一言。
「さすが、珍獣確保もお手の物か《
「ちんじゅう!?《
 ユトが抗議の声を上げるのを無視して、イグナスは、相手の首根っこをつかむ。
「さっき襲撃されたばかりで、一体どこに行くつもりだ?《
「お一人で出歩かれるのは危険です。どこかへ行かれるなら、我々もお供しましょう《
 聞き慣れたあきれ声で尋ねる神官戦士に、巡査長が生真面目な口調で付け加える。
 イサリは、少し迷ったように、警官と法師を見比べた。
 ローメル通りの悪吊は当然スカウコーも知っているだろうが、警官が自分の領域に立ち入るとなれば、ロレイズがどういう手段に出るか、想像できない。〈雪の城〉亭での暗殺者の雇い主がそうだったように、金で人を動かし、強硬手段に出る可能性もある。
「ローメル通りに警官が入るなら、馬はやめたほうがいいかもしれないね《
 ローメル通り。
 少女が口にしたことばで、無表情に近かった巡査長の表情が動く。
……わかりました。我々は、徒歩で少し離れたところから護衛しましょう《
 そう言って、彼は自分の両腕となる部下二人を呼んだ。

 空気か、きしんだような音をたてていた。
 晴れた空を見上げて、イサリは、少し上思議に思った。地震の前触れの地鳴りにしてはおかしなことに、独特のリズムを刻んでいる。止んだと思えば、また思い出したように鳴った。
 どこかで、木こりが木を切っているのだろうか。
 見回してみたものの、建物が邪魔で、街の外を眺めることはできない。彼女は、気にしても仕方のないことは気にしないことにする。
「ハイマは、いつものところかな《
 視界の隅に、マントを羽織って身分を隠した警官たちを見つけながら、イサリはつぶやく。
 彼女の後ろには、白い布をかぶったユトと、窮屈そうにフード付マントをまとったイグナスが続いている。
「ある程度近づいたら、お前だけで行ったほうがいいかもな。オレたちは近くで、買い物してるフリでもしてるさ。何かあったら呼べ《
「自分の身くらい、自分で守れるよ《
 少女は笑い、厚い布を巻いた刀を少し持ち上げてみせる。外側からは、布の中身は何なのか、うかがい知れない。
 彼女自身も、昨日商店街を訪れたときとは雰囲気の違う姿をしている。ロレイズに一目で同一人物と見抜かれるようなことはないだろう。
「用心するに越したことはないけどね《
 高い位置で縛った髪を撫でつけながら、足を速め、ほかの二人から少し離れる。
「イサリさん、気をつけて《
 やけに周囲を見回しながら、ユトは小声で声をかけ、少女の背中を見送った。
 この時間帯のローメル通りは、入ってくる姿より、出て行く旅人の姿のほうが多い。これからの長旅の準備をここで済まそうとするのは、まだ旅慣れていない者だ。旅に出て長い者は、ここへ来る前に買い物を済ませている。
 旅慣れていない者のフリをして、ユトとイグナスは、衣料店のとなりにある、ナイフや食器といった、旅に必要な小道具を売っている店の前で足を止めた。
 ハイマがいた空間は、衣料店と、露店の背後に建つ民家の間にある。旅人たちの後ろから、イサリがハイマのねぐらへ潜り込む機会をうかがった。
「その必要はねえぜ《
 すべての行動を読んだような、聞き覚えのある声は、露店の主からだった。
 イグナスのように布を被った男が顔を上げると、長い髪と髭の間から、見覚えのある、鋭い目が輝いた。
「店主に頼んで、少しの間、バイトさせてもらってるのさ。それで、お前たちのご所望の品は、これだろう?《
 ハイマがそう言って取り出したのは、昨日イグナスから渡された、あの壺だった。それを受け取り、ユトが昨日と変わりないことを確かめる。
 はたから見ている者の目には、ほかの露店でも展開されているような、客と店主のやり取りとしか映らない。
「それで……何かわかったのか?《
 少し離れたところで、露店の品々を眺めて歩いている風の警官たちが歩いているのを視界の端に捉えながら、神官戦士は、声を低くして尋ねた。
「ああ。こいつは、浄化の法が施されてるな《
「浄化の法……オーラを浄化し、負の力を聖の方向に近づける法術ですね《
 ハイマの答に、ユトが説明を加えた。
「でも、中身の負の力が強過ぎて、浄化が完全には効いていないみたいだな。あんたらの話によると、この壺を商人に渡した法師が封じたが、それが完全じゃなかった……だから、より強力な法師に頼もうというわけだろう《
「しかし……
 顔を隠すようにかけられた布の奥で、ユトの表情がかげる。
「浄化の法をかけなおすには、一度中身を解放してもう一度別の物に封じないと……
 つぼの中の胎動を、大師だけが感じ取ることができる。その声には、上安がにじんだ。
 口を閉ざした法師の横から、少女が身をのり出す。
「それで……壺の壊し方は、何かわかったの?《
 そう尋ねた少女が脇に抱える物に、鑑定屋は目を留めた。
「そいつはもう、試してみたのか?《
「ユトたちは、仮面の騎士にやってもらうつもりなの《
「だって、仮面の騎士は――《
 言いかけたハイマの口を手で塞ぎ、イサリは彼を、建物の陰に引っ張っていく。当のハイマも少し焦った様子で、素直に引きずられた。
 壺を手にしたまま、ユトは、茫然とそれを見送る。
「どうしたんだろう……大事なお話かな?《
「ま、知り合い同士の話だろう。そんなことより……
 露店に並んだナイフが、カチカチと音を立てた。