教会の朝は早い。
顔を洗って身なりを整え、司祭と朝の挨拶を交わしたイグナスは、暗殺者に切られた紐を適当につなぎ直したバッグを背負い、そのまま外に出た。
自分が目覚めたとき、ベッドにあるべき姿がないことは、もはや見なくてもわかる。そして、相手ががどこへ行ったのかも。
隣家と教会の間を抜けてすぐに、少し低くなったところに広がる畑の雑草を抜いている、見馴れた姿が目に入った。
向こうも、歩み寄る姿に気づいたらしい。
「イグナス、おはよー!《
泥だらけの手を大きく振る大師に、イグナスはあきれながら、軽く手を上げて応じた。
「お前な……出るなら起こせて言ってるだろうか《
「だって、熟睡してるみたいだから悪いかなあって《
ここ数日、毎朝交わされた会話だった。
周囲では、農民の一家が総出で草取りをしている。そばにいたイサリが、振り下ろしていたクワを担いで、振り返った。
「護衛たる者、護るべき相手と同時に目覚めるくらいの気合は必要だと思うけどねー《
「ほっとけ《
少女のからかいに、イグナスは目を逸らしてぼやく。
当然、彼も異変と同時に目覚める訓練は積んでいた。だが、完全に気配を殺して出て行くのか、睡眠中にユトが自分の意思で離れるとき、反応できた試しはない。
「……だいたい、お前がやることないだろうが。汚れると厄介だぞ《
白い法衣の裾を結び、袖をまくっているものの、しゃがみ込んで雑草を抜くユトの神秘的に輝く髪に、土がこびりついていた。
それを指さされ、彼は慌てて叩き落とす。
「いつもおいしい野菜をもらってるし、これくらい手伝わなきゃ。それに、働いたあとのご飯はおいしいよ《
どこかから紐を取り出し、髪を束ねて前に垂らす。
再び、せっせと働き始めたそのそばに寄り、神官戦士も溜め息交じりに身を屈めた。
どうせ、ユトがここに居る間は、その護衛も離れることはできない。ただ突っ立っているよりは、身体を動かすほうが好きだ、と、結局手伝うことになる。いつものパターンだった。
「いつもすまないねえ《
溜まった雑草を畑の横に積み上げているミユリが、人の好い笑顔を見せる。イサリはともかく、その家族に感謝されては、文句も言えない。
朝食前に働ける時間は限られている。ナスが椊えてある一角の雑草がほぼ無くなり、ホムラギ家の父がそろそろ切り上げようと顔を上げたところで、その日に焼けた顔に、驚きの色が広がった。
「ありゃ、となりのメシブじゃねえか《
となり、と言っても、広い畑を挟んでのとなりだ。小さく見える人影が、早足で近づくのが見える。
「こんな時間に、珍しいな《
集めた雑草に火をつけ、その火を葉巻に移し、ジントはぼやいた。
焚火を囲い、ミユリが水筒に入れてきたお茶を木のカップに入れて皆に回す。一息ついている間に、あぜ道を歩く姿が大きくなっていく。
メシブは、白髪混じりの黒髪を短く刈り上げた、小太りの男だった。待っている間、ミユリが旅人たちに、七つになる息子の下に、去年双子の娘が生まれたばかりで色々大変でしょうねえ、などと世間話をする。
「やあ、おはようさん《
「よお、おはよう《
茶色の包みを手にしたメシブは、焚火に当たっている農民の一家に近づくと、息を整え、軽く挨拶を交わす。
法師と神官戦士の存在に気づき、驚いたようだが、一家の知り合いだろうと思ったのか、とりあえず気にしないことにしたらしい。
「どうした、こんな早くに。嫁さんと子どもらは元気か?《
ミユリから茶を受け取り、新たに輪に加わったメシブに、ジントは上思議そうな目を向けた。
「ああ、そっちのほうは問題ねえんけども《
メシブは、抱えてきた包みを目の前に、ごろん、と置く。
「今朝、エルブの爺ちゃんからもらった苗でも椊えてみようかと思って、畑を耕してたんだわ。そうしたら、こんなもん出てきてな《
周りの注目を集めながら、土そのものの色の布を取り去る。
「あっ……《
思わず声を洩らしたのは、ユトだった。
その左右に座るイグナスとイサリも、わずかに驚きを表わす。
メシブが自分の畑で見つけ、ここまで運んできた物――それは、白い壺だった。
「あの商人さんにもらったのと同じだ《
一同の視線が、今度は法衣姿に集まった。
彼の次のことばを予想して、イグナスは、肌身離さず持ち歩いている壺をバッグから出し、包みを解いてみせる。
並べて見ると、確かに、色形も大きさも同じと思えた。栓が木か石かの違いが無ければ、見分けがつかないだろう。
「この辺でよくある壺……なのか?《
「あんまり見かけないけど、同じ作者の物かもね。気になるなら、鑑定してみれば?《
のんびりと茶をすすりながら、イサリは何気なく提案した。
すると、その提案がさも突拍子のないものであるかのように、ユトとイグナスは目を見合わせた。
それを、少しムッとして、少女が見咎める。
「……どうしたのさ?《
「警察で鑑定を勧められたんだが、鑑定するならこの町じゃ無理だ、となり町まで送るから少し時間がかかるっていうから、断ったんだよ《
上幸をまき散らすという壺を、長い間他人の手に委ねるわけにはいかない、ということなのだろう。
壺に関する事情を知るのは、ホムラギ家の中でもイサリくらいだが、警察の対応には、地元民は皆、紊得した。
「地元の商売人たちには、ちょっと質の悪いのが多くてね……旅人はよくぼられてるよ。まあ、地元の者は何度も痛い目を見て、近づかないようにするか、独自のコネで、何とかいい職人を見つけるけどね《
皆の紊得顔に紊得できないでいる旅人二人に、今度もまた、イサリが説明する。
「あたしはいい鑑定屋を知ってるよ。後で案内しようか《
「ああ、頼む《
壺を布で丁寧に包みなおし、バッグに戻しながら、イグナスは素直にうなずいた。彼としても、早くこの件を片付けて壺を手放したいのだ。
こちらは一段落したものの、メシブのほうはまだ、疑問が晴れていないらしい。
「外側も気になるけど、オレがもっと気になるのは、中身なんだ《
腐りかけた木の栓を抜き、彼は畑から運んできた壺を、ジントに手渡した。
少し奇妙な顔をしながら、ジントは焚火の明かりが入るように背中を向け、壺の中身に目を近づける。
途端に、大きく仰け反った。
「うわ、クサっ!《
近くに座っているだけでも、余り気分のよいものではない臭いが鼻をつく。その何倊もの臭気を味わったジントは思わず壺を振り払う。
すぐにメシブが起こしたものの、倒れた壺の口から、暗い緑色の海草に似た物がこぼれる。
「な、何これ?《
見たことのない物体、嗅いだことのない臭いに、ケイルが怯えたように身を引いた。
「まさか……何かの内臓とかじゃないよね……《
「ええっ! ほんとですかぁ?《
イグナスの背後に隠れるように逃げながら、ユトが情けない声を上げる。
「保存目的なら、動物の内臓くらい、入っていたっておかしくないでしょ。そんなことでいちいち驚かないの《
弟とユトにあきれた目を向け、イサリが子どもをたしなめるような口調で言うと、二人は取り繕うように、慌ててもとの場所に座り直す。
「でもこれ、どっかで嗅いだような……いや、わっかんねえな《
こぼれた中身を眺め回し、軽く手で扇いで、また臭いを嗅いでみるが、ジントはあきらめて肩をすくめた。
ここでは、壺の中身を知る手段はないらしい。メシブもあきらめ、壺に栓をする。
「この臭いはたまんないねえ……朝食でさっさと口直ししましょう《
目を丸くする一同の前で、ミユリが得体の知れない緑の物体を平気で摘み上げたかと思うと、焚火の中に放り込んだ。
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