イサリは客としてもよく、〈雪の城〉亭を訪れていた。ここの味が一番いいと思うからこそ、ここでのアルバイトを選んだ経緯もある。
しかし、彼女が誰かを連れてここへやって来ることはまれだった。
「あれ? イサリ、そちらのかたたちは……《
今日の午前中に出ているバイトの少女は、リノンだけらしい。赤毛の少女はもともと大きな目をさらに見開いて、幼馴染みと、風変わりな客を迎えた。
店内は、食事時ではないこともあって、だいぶ空いていた。地元の者や旅人らしい姿が、いくつかテーブルを埋めているくらいである。
そのなかでも、新たに加わった旅人二人は、かなり目立つ存在だった。
「ねえ、誰なの、あの綺麗な人とカッコイイ人は? 紹介してよ《
自分で水を取りに来たイサリを捕まえて、リノンはカウンターの裏に隠れ、耳打ちする。
「ああ、法衣のほうが大師ユトで、残りものが護衛の神官戦士イグナス《
面倒臭い、を顔に描いたような表情で、イサリはあっさりそう答える。
だが、彼女のことばが相手に与えた衝撃は大きい。
「たっ……《
リノンは、大きく息を吸い込む。
まずい、と気づいたイサリが相手の口に手を伸ばすが、もう遅い。
「大師さまっ!?《
看板娘の明るい声が、広い店内に響き渡った。
大音量の次に訪れるのは、短い空白。
その間に、リノンが口にしたことばの意味が浸透していく。居合わせた人々の目は新たな客がついたテーブルに向けられ、驚きを含むざわめきが起こる。
しまった、の表情のまま盆で口もとを覆うリノンを残し、イサリは三人分のコップに、ハーブで香り付けされた水を汲み、盆に載せてテーブルに運ぶ。
「有吊なのも、大変なことみたいだね《
コップをそれぞれの前に置く少女に、イグナスは肩をすくめて見せた。
「ま、いつものことさ《
とは言うものの、周囲の注目に、居心地悪そうに座り直す。
しかし、となりの大師本人は、その容姿のために通りを歩いている間から注目され、今はさらに強い視線を集めているのもかまわず、至って自然体でメニューを眺めている。
「イサリさん、お勧めはあります? なんかこう、果物がのっててさっぱりしたようなケーキが好みなんですけど《
楽しそうにデザートの欄を眺める彼の横から、イサリがのぞき込んだ。
「それじゃあ、ブルーベリーのチーズケーキとか、フルーツタルトのセット、イチゴ尽くしとかがいいかもね……あたしの一番のお勧めは、三色ケーキのブルーベリーソース添え《
「いいですね。わたしはそれと、マーマレードティーを頼みます《
「あたしも同じのを《
カウンターの裏を出て営業スマイルに戻っているウェイトレスに、ユトとイサリが注文を終える。
その横で、イグナスはあきれながら、適当に軽食を見つくろっていた。
「あ、あの……軽食なら、こちらのプディングがお勧めですよー?《
恐る恐る、しかしデザートの試食のときに劣らぬ素早さで神官戦士のそばに寄り、ウェイトレスの少女は、メニューに並ぶ文字列のひとつを指さした。
彼女の顔は、かすかに赤く染まっている。赤の他人が怪しむほどではないが、付き合いの長いイサリは、惚れたな、と確信する。
「じゃあ、それとホットコーヒーで《
どれでも良かったのか、イグナスは即座に決めた。
リノンはお勧めを受け入れられ、嬉しそうな笑顔で注文を繰り返し、カウンターに走っていく。ディーカに少しでも急いで作ってもらおうということらしい。
少ない客の中に、大師に今すぐ教えを請いたいという者はこの場にいないのか、まだ本気にはしていないのか。周囲の注目も、ひとまず落ち着く。
「イサリさんは、仮面の騎士のこと、どれくらい知ってます?《
待っている時間が退屈だっただけだろうが、大師の唐突な質問に、きかれたほうは、飲んでいた水に軽くむせる。
「ど、どれくらいって……色々と噂になってるし、仮面と黒いマントで真の姿を隠し、聖剣を手にして、犯罪者を捕まえたりする……っていうくらいは知ってるけど《
「それじゃあ、事件の現場にいれば仮面の騎士に会えるかな《
まるで憧れの人を思うリノンと似たような様子で、アメジストの目を天井に向ける。
「そんなに会いたいなら、後で司祭が言っていた警官にでも会いに行こう。それよりユト《
声をひそめ、イグナスはバッグから、布に包まれた物を取り出す。
テーブルの上にそっと降ろされたのは、あの白い壺だ。
「お前……本当に、これから何も感じないのか?《
一見、何の変哲もない壺だ。イサリにも、その辺の、ちょっと余裕のある家の玄関に飾ってある壺と変わりないように見える。
しかし、修行を積んだ法師には、壺のまとうオーラを見ることもできるはずだ。
「わたしはこの壺の感じ、好きだよ《
イグナスは指一本触れないよう気をつけている壺に、大師は平然と、両手を添える。
「うん……でも何だか、少し落ち着かない気分になるような……《
「お前はいつも落ち着かないだろうが《
「そうじゃなくて! 壺の中身がざわざわするのっ《
ムキになって反論するユトの態度はともかく、ことばの意味が持つ深刻さに、イグナスの表情も真剣味を帯びる。
「中身は、漬物ってわけじゃなさそうだな《
「まるで、生きているみたい……《
壺を膝の上に載せ、精神を集中するように、ユトは瞑目した。
「オーラは少し神聖系に傾いているけど、これが壺なのか、中身なのか……そういえば、あの聖剣も、少し似たような感じだったような……《
「そもそも、その壺ってどういう経緯で手に入れた物なの?《
少し焦った調子で、イサリが尋ねた。
別に秘密にするようなことでもないと判断してか、イグナスが説明する。
彼らがこの町へ来る間に知り合った商人の屋敷に、壺が保管されていた。商人の話によると、壺は、かつて旅の法師が『この壺を破壊できるほどの、強力な法力を持つお方に渡してください』と言って預けて行ったという。
しばらくは、屋敷に幸運が続いたものの、何年かが過ぎると、今度は上幸が続くようになった。近くの法師に見てもらおうと思ったところで、商人はようやく、壺を渡されたときに言われたことを思い出す。
このまま壺が屋敷にあれば、上幸を撒き散らし続けるに違いない。
商人はあの手この手を使って壺を破壊しようとするものの、傷ひとつつけることはできない。
どうしようかと苦悩しながら、生活のために何とか商売を続けている最中――
「……オレたちが通りかかって……《
「で、厄介な壺を押し付けられたわけ《
イグナスの語尾をさらい、少女は、水を一口含む。
彼女の言うところの『厄介な壺』に、ユトは平気で触れている。その壺の前の持ち主の言うことが本当なら、周囲に上幸をもたらすはずの壺だ。
「もしかして、壺を壊すってことは……《
言いかけて、イサリは口をつぐむ。
「お待ちどおさま~《
リノンが盆の上に注文通りの料理を載せ、テーブルに歩み寄ってくる。
目にも鮮やかな三色ケーキのブルーベリーソース添えに、大師は満面の笑顔を見せた。
「おいしそう。いただきまーす《
彼らの注目は、一気に目の前の料理に移った。三人とも、まずはフォークを手にして、注文した料理を一口。
「おいしいです!《
ブルーベリーソースをからめた、色の違う三段のスポンジを口にして、ユトは本当においしそうな笑みをこぼした。
「……ま、いいんじゃないか《
プディングを注文したイグナスも、味に満足したらしい。
イサリは、ディーカの腕を信頼している。今日は少し空気が乾いているので、水分を多めに調節してある――そんな細かい調整も、何度もこの店のデザートを味わってきた彼女の舌には感じ取れた。
「とにかく……その壺を割らないと、中身はわからないってことか《
「中身ごと壊せって意味なのかな《
イサリが最後の一言で壺の話題をあきらめ、デザートに集中し始めたとき、ユトがフォークについたソースを舐め取りながら、ぽつりとつぶやいた。
中身とは、一体何か。
ここぞとばかりにイサリがもう一度口を開きかけたとき、店のドアが、少しきしんだ音を立てた。
あまりあからさまにならないよう、少女は肩越しに、チラリと振り返る。
そして、自然な動作で視線を戻すものの、彼女の漆黒の目には、あきらかな驚きの色があった。とてもこの店に似つかわしくない姿を見たためだ。
新たに店に入りカウンターの隅に座ったのは、灰色の鎧を身につけた、一見して傭兵とわかる姿だった。旅人の多いこの町には傭兵の姿も時折見かけるが、鎧を身につけたまま立ち寄る者は珍しい。
何より――イサリには、薄皮一枚に隠れたような、殺気が感じられた。
同じく、それに気づいたか。イグナスはスプーンを握った手を止め、カウンターを見る。
「お客さん、ご注文は……《
奥の厨房から顔を出し、ディーカがそう問うたところで――傭兵は動いた。
木の丸椅子が、蹴り飛ばされる。その椅子を追うように駆けながら、傭兵は、腰に吊るした短剣を抜いた。
ただ眺めることしかできない他の客の視界の中で、最初に反応したのは、イサリだった。少女は立ち上がり、大師の身体を引き寄せる。ほぼ同時に、イグナスが剣を抜いた。
神官戦士が手にした愛剣は、彼が柄を軽くひねると、刃が三本に分かれる。
「ヒュッ!《
傭兵が、鋭く息を吐く。
鍛えられた腕の力で軽い短剣を自在に操り、振り下ろしたそこに、ユトが一瞬前まで座っていた椅子があった。木の椅子は背もたれから真っ二つに割られ、床に転がる。
残骸と化した椅子のそばに、勢いよく引き寄せたユトの身体を受け止め、イサリが倒れ込む。ユトの体重を受け止めきれないわけではないが、ここは体勢を低くしたほうが相手に手間を取らせる、と判断した。
その間に、イグナスが襲撃者の前に立ち塞がる。
「暗殺者としては三流だな《
むき出しの殺気。
肌がチリつくような感覚を楽しんでいるかのように、イグナスは笑う。
だが、油断はない。暗殺者としては三流でも、使い込まれた短剣のきれは一流だ。
傭兵は再び、充分な速さと重さをのせた一撃を突き出す。
イグナスはがら空きの相手の胴へ、椅子を蹴り飛ばした。足止めしながら、伸ばされた右腕へ刃を振るう。
骨に届きそうなほど深く、男の腕の肉が避ける。血がしぶき、低い呻きが洩れる。
だが、男の動きは止まりはしない。その左手の中に隠し持っていたらしい、ナイフを指に挟む。狙うは、イグナスの後ろでなぜか起き上がろうとしない、大師。
手首のしなりだけで正確に投げられるよう、訓練を積んでいるに違いない。
間に合わないかもしれない。少し焦りながら、イグナスは相手の右腕に当てた剣先を、引っ張られるような勢いに逆らって強引に戻し、男の左手に向ける。
それが届かないうちに、傭兵の左手が大きく後ろに反らされ、張りつめた弓のように、引きつけられた反対側へと弾かれる。
途端に、鈊い音がした。
予想外の痛みに驚き、勢いが伝わりきる前に傭兵の手から放たれたナイフは、イグナスの足もとに落ちる。
「助かった《
傭兵の後頭部に盆を投げつけた少女に礼を言い、神官戦士は、素早く剣の柄を相手のみぞおちに叩き込む。
傭兵は白目をむき、膝から崩れるように、床に転がった。
戦いの行われていた時間は、短い。他の客も、ディーカも、警察への連絡も忘れて、息を飲んで見守るほかなかった。
「大丈夫か?《
傭兵が気絶しているのを確かめて、神官戦士は振り返る。
大師を支えながら身を起こしかける少女を見ると、その目が、少し細められた。
「お前……オレより速かったな《
「いや、それはたまたま……《
少し悔しげにも聞こえる、複雑そうな口調の青年に、イサリは取り繕うように首を振ってから、ふと、腕の中のぬくもりに視線を落とす。
ユトはぴくりとも動かないまま、目を閉じていた。
「大師さま……?《
倒れている傭兵が怖いのか、少し離れたところから、リノンがのぞき込もうとする。
イサリは慌てて、ユトの身体を確かめる。白磁の肌にも純白の法衣にも、傷や破れ目のひとつもない。
「ああ……焦って、頭を庇うの忘れちゃったかな《
ぎこちない笑みを浮かべ、大師の後頭部をさすってやる。立派なコブが、少女の手のひらに触れた。
「ま、仕方ないだろ……とにかく、巻き込んですまなかったな。後で、弁償しに来る《
「いえ、お気になさらず《
壊れた椅子の残骸や血に汚れた床を見渡し、カウンターに向かって声を張り上げたイグナスに、ディーカは動揺もなく、気前よく返事をして歩み寄ってくる。女一人で店をここまで大きくするまでに、もっと色々な事件をくぐり抜けてきたのだろう。
「警察にはこちらから知らせておくから、早く休ませてあげなさい《
のん気に寝息を立てている大師の横顔に視線を落とすと、ディーカは〈雪の城〉亭が誇る看板娘の一人に耳打ちする。
「ありがとう、ディーカさん《
彼女のことばに甘えることにして、イサリは何気なく、大師を抱え上げる。華奢な身体つきとはいえ、少女が自分よりいくらか背の高い人間一人を軽々と持ち上げるのに、イグナスやほかの客は目を見開く。
「え……いや、農作業で鍛えられているから、これくらい……《
周囲の沈黙と驚きの視線にようやく気づき、言い訳めいたことを口にして、逃げるように店を出る。
それを、床に転がった壺を布に包んでバッグに押し込み、イグナスが驚いたままの表情で追いかけた。
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