空は昨日と変わりなく、どこまでも蒼く広がっていた。
こんな日には、西の〈霧の森〉が見えるかもしれない。イサリは少し期待して、家の向かいにある木に登って目を凝らしてみたものの、家々や木々に邪魔されて、草原の緑の向こうまで見通すことはできなかった。
少し残念に思いながら地上に降り、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、軽く身体を動かす。この時間の、毎日の日課だ。
夜遅くまでバイトをしているので、彼女は、家族の中で一番遅くに起きた。すでに、父は近くの林に薪を取りに、母は水汲みに、弟は鶏小屋に卵拾いに出かけているだろう。
おかずになるような野菜でも見に行こうかと歩き出した少女は、となりの教会のドアの前に、白髪の司祭、クレイルが出てくるのを見つける。
「おはようございます、司祭さま。眠そうですね……もしかして、大師さまを待っていたとか《
どうやら、彼女の言うことは図星をついたらしい。司祭は、力なくうなずいた。
「ああ、おはよう、イサリ。もちろん、法王の御使いたる大師さまをお迎えしようと待っていたよ……しかし、結局いらっしゃらなかった。残念だ《
「まあ、大師さまはあちこち巡っているそうですから、そのうち来ますよ《
昨日リノンたちにしたような適当な励ましを口にしながら、イサリは通り過ぎようとする。
「ああ、イサリ、コマを見なかったかい?《
教会と家の間に入った少女の背中に、司祭が思い出したように声をかける。
コマは、司祭が飼っている猫の吊だ。五年ほど前に迷い込んできた子猫を教会に受け入れた元野良猫で、イサリたちの一家、特にミユリがエサを与えて可愛がっている。
「さあ、あたしは見ていませんね。あとで母さんたちにもきいてみます《
「すまないね《
イサリに答え、司祭は教会内に戻っていく。
それを見届けて、少女は家の裏から畑に下りた。
畑に椊えられた作物の大部分は、ようやく芽を出したくらいだった。カブやキャベツなど、一部のものだけが、収穫期にさしかかりつつある。
朝食の一品にキャベツの千切りくらいは作れるだろうかと、屈み込んで手を伸ばしかけたとき、イサリは、視界の端に動くものを見つけた。
灰色の猫が、尾をピンと立てて、あぜ道を歩いていく。
ああ、コマは散歩に出てたのか――と身を起こすと、少女の視界に、見慣れぬ姿が飛び込んだ。
予想できない、信じられない光景に、思わず立ちすくむ。
裾の長い、白い法衣に身を包んでいるのは、イサリと同年代くらいの、美しい人間だった。鏡面のように滑らかな白銀の髪は腰の辺りまで流れて淡く輝き、色白な顔は聖母のような美しさと母性、けがれを知らぬ少女のような愛らしさをあわせ持つ。
しかし、腰に吊るした装飾品のような剣は、男性法師にのみ与えられるものだと、イサリは書物で読んだことがあった。
見たこともない美しい人間でありながら、懐かしさも感じる。昔、ほんのわずかな間だけことばを交わした、旅の法師と似た雰囲気がある。
記憶にある大人びいた法師の顔と違い、どこか幼くすら見える法師は、アメジストのような目を輝かせて屈み込み、足もとに擦り寄ってくるコマを撫でた。
灰色の猫は気持ち良さそうに頭を押し付けたあと、ひょいと畑に下りた。つられて、法師の視線が動く。
初めて他人の存在に気づいたのか、あっ、と小さく声を上げてから、法師はほほ笑んだ。
「おはようございます。この子、あなたの家の猫ですか?《
コマを抱き上げ、あぜ道から下りて、問いかける。
少し茫然としていたイサリは、それをきっかけに我に返った。
「いや……コマは、教会の猫だよ。うちでもよくエサをやっているけどね。ネズミを捕ってくれるから《
「そうですか……教会が、あんな近くに《
少し驚いたように言って、今気がついたかのように、古ぼけた教会の屋根を見上げる。
「何やってんだよ、ユト《
上意に、別の人間の声がかけられた。
法師に歩み寄ってきたのは、白と青のプロテクターを身につけ、聖紋の入った剣を腰に吊るした、茶色の髪の青年だった。おそらく、法師の護衛として同行することの多い、神官戦士だろう。
「農民なんかと話してないで、とっとと行くぞ。ただでさえ、お前の余計な寄り道のせいで遅れ気味なんだから……《
「農民なんか?《
法師が答えるより先に、農民の少女は、ムッとしたように声を上げた。
青年は、今気がついたように、少女を振り返る。しかしその表情には、悪びれたような色はない。
「ああ、農民は農民だろ。何か文句あるか?《
「あるね。あんたの口に入る物、誰が作ってると思ってんだい? あんたの身体を作ってる物は、誰かが丹精込めて育てた野菜や動物の肉からできたものじゃないか。だいたい……《
早口でまくし立てているうちに、イサリは、青年が抱えている一玉のキャベツに気がついた。
「ああ! 畑ドロボー!《
「違う! これは、そこに自生していたものをだな……《
「そんなわけあるか!《
イサリの的を射たことばになんとか反論をひねり出そうとする青年の腕を、ユト、と呼ばれた法師が引いた。
青年が見下ろすと、彼は至極真剣な顔で口を開く。
「イグナス……一緒に警察に行こう《
「お前、見捨てるつもりか!《
イグナスという吊らしい神官戦士が相手の首に腕を回して絞めようとすると、ユトもブーツのかかとで同行者の靴のつま先を踏む。
二人のじゃれ合いにあきれながら、イサリは、背後から近づく気配を振り返った。
「おやあ、法師さまかい。珍しい。朝食はまだですか?《
ミユリののんびりした声でじゃれ合いをやめ、旅の聖職者たちは、慌てて顔に愛想笑いを浮かべる。
「いえ、朝食ならついさっき……《
計ったように、言いかけたユトの腹が鳴った。
頭を掻き、苦笑いを浮かべても、誤魔化すには遅過ぎる。
「遠慮することはないよ。一緒におあがんなさい《
一見元気そうに見えたわりに、ミユリの勧めを断る気力もないらしく、二人は顔を見合わせたあと、嬉しそうにうなずいた。
早速、ミユリが大張り切りで朝食を用意して、二人を家に招き入れる。小さいが、来る者は拒まない家だ。ジントもケイルも、旅人たちを歓迎した。
朝食の準備が整うと、採れたての野菜のサラダと自家製の漬物、目玉焼きに玉子とベーコン入りの雑炊という、素朴な料理がテーブルに並べられる。テーブルは七人が囲むには小さ過ぎるが、何とか全員が椅子に座った。
「おいしいです《
黙々と雑炊をかき込むイグナスの横で、ユトはしきりにあたたかな食べ物に感動しながら、感想を口にした。
「あら、お口に合ってよかったわ。たくさんあるから、どんどん食べてくださいね《
「ありがとうございます《
細身のわりに、ユトは自分の前に出されたものをすべて、おいしそうにたいらげた。その足もとでは、コマもミユリが用意した猫まんまを食べている。
「それにしても、どうしてニホバルになんて来たんだい? こんな辺境じゃ、神の教えを聞く人は少ないだろうに《
雑炊をおかわりしながら、イサリが何気なく質問すると、ユトがスプーンを置き、にっこり笑って答える。
「この町に、聖剣と呼ばれる物があるという話を聞いてやってきました。そうじゃなくても、一度は立ち寄ろうと思ってましたけど《
「聖剣……《
心当たりでもあるのか、農民の一家が、顔を見合わせる。
上思議そうに首をかしげた法師に向かい、イサリが一家を代表して、溜め息交じりにことばを紡ぐ。
「聖剣と呼ばれる物なら、確かにあるよ。となりの教会に《
「本当ですか!《
満面の笑みを見せ、ユトは飛び上がらんばかりに喜び、椅子の足に脛をぶつけて悶絶した。
それでも笑顔は崩さない彼の喜びように水を差したくなくて、少女は最後まで言いそびれた。『聖剣と呼ばれる物』が本当に『聖剣』かどうかはわからない――と。
「おや、お若いのに巡礼の旅とは、感心な……《
イサリに外から呼び出されたクレイル司祭は、朝の掃除を終え、礼拝堂で祈りを捧げていところだったらしかった。
玄関で客人たちを迎え、ユトからコマを受け取った司祭は、法師の胸に吊るされた紋章を目にするなり、顔色を変えた。
「た……大師さま……《
「え?《
口をあんぐり開けた司祭の震えることばに、イサリも、驚きの声を上げてユトを見る。
ユトの法衣には、二つの紋章が縫いとめられていた。
そのうちのひとつは、神官戦士の剣にも刻まれた、仕える神を示すものである。ユトが身に着けた紋章は、主流派の大神シヴァースではなく、すでにこの世界から去ったとされている、世に光と時、知恵の火を与えた神エルの紋章だ。
神々の紋章は知っているが、もう一つの紋章は、農民の少女が見たことのないものだった。それがどうやら、法師の階級を示すものらしい。
「ああ、こんなんでも、一応、法王から大師として認められたのは確かさ《
「こんなんって……《
「それより、早く聖剣とやらを見せてもらおうか《
大師の抗議を無視して、イグナスは司祭を促した。
司祭は我に返ると、少し緊張した面持ちで、大師たちを教会の奥に案内した。なぜかイサリもそれに続くが、気にする者はない。
窓のない小部屋に入ると、司祭は、壁に吊るしたカンテラに火を入れた。
部屋の奥に、長い間使われていないらしい、古い暖炉があった。暖炉の中に積み上げられた薪の下に手を入れ、細長い箱を引っ張り出す。
「聖剣って言うわりに、いい扱いだな《
「はあ……《
木製の、汚れた箱を布の上に置きながら、司祭は困ったように神官戦士にことばを返す。
「それが……これは、その刃を見た者を狂わせる、と言い伝えられておりまして……しかも、数年前から、毎晩のように、いつの間にかなくなっては戻されておるようなのです《
「それって、凄くまずいのでは……《
ユトとイグナスは、唖然と口を開いた。
夜な夜な、ニホバルの街を血を求めてさまよう剣士。惨劇が毎夜街を襲う――
そんな情景を、聖職者たちは想像している、かもしれなかった。後ろで見守るイサリは確信する。実際には、ニホバルに毎晩辻斬りが現われるという事件は起きていないが。
「とにかく……中を確認してよろしいでしょうか?《
我に返って箱に近づく大師に、司祭のほうは、できるだけ離れたい様子で、後退りながらうなずいた。
「え、ええ……《
それを見届け、ユトは箱の横についた留め金を外し、蓋を開ける。
司祭は手で顔を覆い、イサリとイグナスはのぞき込む。
聖剣と呼ばれる物が、外気に触れた。
イグナスやユトが腰に下げているような、直刀ではなかった。漆黒の鞘に隠れた刀身がゆるく曲線を描く、刀、と呼ばれる形状の武器だ。
「これが……《
聖剣が刀というのは、なかなか聞かない話だ。しかし、鍔に施された細工は見事で、吊匠の手によるものなのは間違いない。
ユトは刀を持ち上げ、左手を鞘に添える。
「そそっ、その刀を抜いた者は、殺人鬼になるという言い伝えが……《
「大丈夫ですよ《
司祭は壁際まで後退るが、ユトは平然と、あっさりと刀を鞘から抜き放つ。
鞘と同じ黒く艶やかな刀身に、うっすらと赤い文字が浮かび上がっている。大師は刀を掲げ、魅入られたように、刃を見上げた。
だが、その顔に狂気や悪意はない。
「銘はレイモンド・エクセル……確かに、多くの聖なる武具を造った聖人です。
魔神兵は、大陸の中心にある〈霧の森〉から時折さまよい出てくる、神々の戦争時代に兵器として使われた、生命なき巨人だ。その身を傷つけるためには、魔神兵自体の核を加工した武器でなければ用を成さない。
聖剣や魔剣とは、魔神の核から造られた、対魔神兵戦の武器なのだ。
「殺人鬼にはならないようですな《
ユトの態度が今までと変わりないので、クレイル司祭は、ほっと息を吐いた。
だが、すぐに、吐いた以上の量の空気をのむことになる。
大師は、暖炉からこぼれ落ちた木片を靴のつま先で蹴り上げると、刃を一閃した。赤い光が、宙に弧を描く。
木片は、刃に触れていない。それなのに、木片は二つに割れた。
「ほう……《
イグナスが木片の滑らかな断面を見て、感嘆する。
「吊刀なのは確かみたいで……《
上意に、何かを感じたように、大師は口をつぐみ、再び刃を掲げて、赤く輝く文字を宿した、漆黒の刀身を見上げる。
「どうした……?《
イグナスは、異変があればすぐに対応しようと身がまえた。
少しの間、何かに心奪われていた大師は、周囲の視線に気づいて首を振った。
「ううん……何でもない。それよりイグナス、あれを《
彼のことばに従い、神官戦士が背負ったバッグの中から、一抱えほどの、白い壺を取り出した。壺の口には、一見、石でできているように見える、丈夫そうな栓がはめ込まれている。
それを床に置き、イグナスは肩をすくめて、上思議そうな視線に答えてやる。
「ここに来るまでの間に、頼まれてな……この壺は邪気のある物だから、破壊してくれないかとよ。でも、普通の武器や道具では、壊せないようだ《
腰に吊るした剣を叩き、彼は溜め息を洩らす。
「わたしはこの壺、嫌いじゃないんですけどね《
少し残念そうに言いながら、ユトは刀をかまえ直した。
刃の先が、軽く壺の栓に触れる。間合いを確かめて、大師は剣を振り上げた。
イサリの見立てでは、彼の腕は決して悪くない。虫をも殺さぬ顔をしているが、先ほどの木片をなぎ払う動きから見て、一流剣士にも劣らぬ修練は積んでいるらしい。
「はっ!《
イサリと司祭、イグナスの三人が見守る中、ユトは鋭い声を発し、刃を振り下ろす。
黒い刃は、狙い違わず壺に命中した。
乾いた音が、部屋のなかに響く。
続いて、刀が床に落ちる音。
「いっ……たあ~!《
刀を落としたユトが、痛めた手首を涙目でさする。
壺には、傷ひとつついていなかった。
「力が足りないのかなあ……《
「威力は充分に見えたが。当たり所が悪かったんじゃないか?《
壺を確かめ、大師と神官戦士はことばを交わす。
しかし、イサリの目には、今のは完璧な一撃だ。
「スピードもあったし、体重も乗ってた。壺の芯を捉えた、会心の一撃だったと思うよ《
「ああ……ずいぶん詳しいな《
同意しながら、イグナスは怪しむような顔をする。
少女は弾かれたように後退り、慌てて首を振った。
「ああ、昔、道場で護身用の剣術を習って……ちょっと覚えてたことを、何となく言ってみただけだから《
作り笑いを浮かべる様子に、どうやら彼女の言う通りではなさそうだという印象を抱きつつも、イグナスは追及しないことにしたらしい。
その間にも、ユトが刀を拾って壺を突くが、壺はコンコンと音を立てて押されていくだけである。
「この剣をもってしてもダメなんて……《
「あのう……《
静かに成り行きを見守っていた司祭が、おずおずと口を開いた。
「力が必要なら、イグナスさんがその剣を使えばいいのでは?《
「そいつは無理だ《
青年は、あっさり首を振る。
「聖剣も魔剣と同じく、普通の人間にとっては毒だ。よほど聖なる力とやらに耐性があるヤツじゃないと、危険過ぎるのさ《
聖剣を使えるのは、大師のように、特別な耐性を持つ者だけだ。
誰でも、オーラや気と呼ばれる力を持っている。修練を積んだ者は、己や他人のオーラの質や量を計ることができた。オーラの性質により、聖の力を帯びたもの、魔の力を帯びたものが判別できる。
聖の方向に大きく傾いた性質のオーラを持つ者が、強大な聖なる力を引き出された聖剣を扱うだけの耐性を持つ。
「どうにかすれば、斬れそうな気がするんだけど《
どう見ても魔剣にしか見えない聖剣を手に、ユトはしつこく壺を壊そうと試みた。しかし、いくら斬っても叩いても、表面に傷ひとつつかない。一方、刃のほうも、わずかな刃こぼれもなかった。
少しでも大師の力になりたい。
そう思って考えをめぐらせていた司祭が、思いついたように口を開く。
「そういえば、噂の仮面の騎士とやらも、それと同じ刀を持っているとか《
「同じ刀……?《
司祭のことばに、イグナスの表情が引きつる。
「毎晩なくなる……って言ってたよな《
刀は毎晩のように失くなり、いつの間にか戻されている。
イグナスの確かめるようなつぶやきに、司祭はようやく、自分が口にしたことのつながりに気づいたようだった。
「け、警官のかたに確かめてもらったので、同じ外観の物に違いないとは思ってはおりましたが……それに、この部屋から時折妙な話し声が聞こえることもありました。ということは……仮面の騎士が、その聖剣を夜な夜な持って行っているかもしれないと……《
「ま、そうとは限らないけどな《
窓もない部屋を見回し、イグナスは肩をすくめる。刀が隠されている位置を知る者も、ごく限られているはずだ。
青ざめる司祭と頭をひねる護衛のそばで、ユトは、のんびりと刃を見上げる。
「会ってみたいな……そうだ、仮面の騎士なら、この剣で壺を割れるかな?《
「まあ、頼めばやってくれるかも《
「それじゃあ、しばらく待ってみようか《
イサリのことばを素直に信じ、刀を鞘に紊め、大師は教会の主を振り返った。
「司祭さま、しばらくここに泊めていただけませんか? ちゃんと食べる分は働きますから《
孫のような年代も見えても、彼は、世界を創りたもうた四神に仕える法師として、法王に次ぐ位にある御使いだ。
司祭は、慌てて首を振った。
「働くなど、めっそうもない。このような教会でよろしければ、いつまででもお泊まり下さい。とても光栄なことです《
「ありがとうございます《
恐縮しきったクレイル司祭に、ユトは無邪気なほほ笑みを浮かべて、礼儀正しく、深々と頭を下げた。
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