清々しい朝の空気と、土の匂い。
毎日目にする風景を、少女は退屈に思ったことがない。鳥のさえずりも、緑の稜線も、畑ですくすくと育っていく野菜も、装飾が少々錆びついた教会も、彼女には、いつも新鮮な一枚絵のように見えた。
それに、のどかな風景は心をなごませてくれる。
手は休まず、畑に生えた雑草を抜きながら、彼女は周囲を見渡す。
「おお、イサリ。そろそろ昼休みにしようや《
クワを担いだ父、ジント・ホムラギが、あぜ道を歩きながら娘に声をかけた。
イサリ、と呼ばれた黒目黒髪の少女は、我に返ったように立ち上がる。畑の横にゴザを敷き、母と弟が握りめしを手にしているのが見えた。
「ずるい。もっと早く声をかけてくれりゃいいのに《
早くしないと、好物の漬物がなくなってしまう。彼女は文句を言いながらあぜ道に登り、靴を片方ずつ脱いでは、入っていた土を振り落とす。
三つ編みにしていた髪や朊が汚れていないことを確認して、イサリは桶に張ってあった水をひしゃくで手にかけ、土を流して昼食の場に駆けつけた。
「いやあ、去年は豊作だったねえ《
母親のミユリが、去年の米で握った握り飯を娘に渡す。
「今年も大丈夫だよ。天気いいもん《
イサリの三つ歳下の弟、ケイルが、雲ひとつない空を見上げた。
ニホバルの周辺は、あまり農業に適した土地ではなかった。ここ数年、まだ少ない農民の努力で充分な作物が育つようになってきているものの、成果は天候によって激変する。
「まあ、何とか食べていけるくらいは大丈夫でしょ《
手についた米粒を舐め取りながら、イサリは弟に賛成した。
ふと、何かの気配が近づくのを感じて、彼女は後ろを向いた。畑と街の外周を巡る道の間に、一家の家と、古びた教会が並んでいる。
二つの建物の間から、赤毛の少女が歩み寄ってくる。イサリのアルバイトの同僚でもある、幼馴染みのリノン・マルティアだ。
「もうそんな時間か《
カリカリと、耳に心地よい音を立てるたくあんの漬物をかじりながら、イサリはリノンを見上げた。
二人は昼過ぎから、近くの食堂でアルバイトをしている。イサリは農作業から抜けることになるが、給料の半分を家計に回すことで、家族の理解も得ていた。町外れでの農作業だけでは若い娘に出会いが少ない、という両親の密かな心遣いもある。
「おじさん、おばさん、ケイルくん、こんにちは。ほら、イサリ、そろそろ時間だよ《
言いながら、リノンは漬物を一枚、ひょいと摘む。
「んじゃ、行って来る《
緑茶の残りをすすると、イサリは家族にそう言って立ち上がった。
「行って来な《
「気をつけてねー《
両親の声を背中に、リノンと並んで歩き始める。
さすがに、農作業の格好のまま街に出るわけにはいかない。イサリはバイト先に向かう前に家により、手早くワン・ピースのスカートに着替え、軽く髪をとかして耳の後ろの髪をひと束ずつ取り、後ろで一本に結んだ。
店でのいつもの髪形になると、外で待っている幼馴染みと合流して、再び歩き出す。
「今日はあんまり忙しくないみたい。ディーカさんは、新しいデザートを作るんだってはりきってるよ《
「味見させてもらえるといいな《
店長のディーカ・エルフは、若いながら腕のいいデザート職人として知られていた。そのため、食堂〈雪の城〉亭には、地元の若者の常連客も多い。
雑談を交わしながら、中心街に少し入ったところにある白い外装の店の裏口に入り、エプロンを身につけて、カウンターに出る。
カウンターの奥にある厨房では、ブロンドの美女が必死の形相でボウルの中身をかき回していた。こういうときは話しかけないほうがいいと、店の者や常連は知っている。
「珍しい。ほんとに今日は空いてるね《
二、三人の客の姿しかない店内を見回し、イサリはわずかに眉をひそめる。
「なんでも、法王さまの御使いの大師さまがやって来るっていうんで、みんな見物兼お迎えの準備に行ってるみたいよ《
茶色の髪を二つに束ねた少女が、盆で口もとを隠してささやく。イサリやリノンとともに看板娘三人の一角を構成する、ミルティ・クライスだ。
「聞いたことがあるわ。法王さまの教えを広げるために各地を旅していて、とっても美しいかただって。あたしも、会ってみたいなあ《
「この町に来るっていうなら、会う機会もあるさ《
リノンとミルティのことばにも余り興味がない様子で、イサリは洗ってカゴに入れてあった食器を拭いた。
しかし、彼女の左右の少女は夢見るように大きな目を輝かせ、理想の異性に思いをはせる。
「あたしは、それより仮面の騎士さまが気になるわぁ。きっと、あの仮面の下は見目麗しい美青年よう《
ミルティはうっとりと、天井を見上げた。
仮面の騎士は、最近巷を騒がせている存在だった。さまざまな事件の現場に現われ悪を裁く、仮面に黒いマントをまとい、黒塗りの刃をたずさえた、正体上明の人物。
ニホバルの新聞は、連日仮面の騎士の話題で持ちきりだ。
「そんなことより、デザートの試食はまだかな《
夢見る少女たちに囲まれながら、イサリは花より団子だった。
厨房では、ディーカが盛り付けを始めたところだ。小麦色の生地をクリームを挟んで巻いた上に、さらにクリームで飾り付け、赤いシロップを垂らす。飴でできた赤い花をクリームに挿すと、完成らしい。
それをじっくりと眺めてから、デザート職人は少女たちを振り向く。イサリは、このときを待っていた。
「オンナノコたち、ちょっとこっちにいらっしゃ~い《
厨房から猫なで声が聞こえると、三人娘は素早くディーカの前に並んだ。
「いつもながら、仕事のとき以上の速さねえ《
「ディーカさん、それは言わない約束です《
イサリは苦笑し、カップに挿してあるスプーンを取る。
少女三人が、スプーンを手に、お互いにうなずき交わすと、デザートを一口分すくい、まったく同時に口に入れる。抜け駆けはしないのが、この儀式の約束だ。
少女たちは、口の中に広がる感覚をじっくり味わい――
「……んんんっ!《
三人同時に、水がめに突進する。
「まずかった?《
目を丸くして問いかける店長に、水を含んで人心地ついた少女たちは、振り返ると、やはり同時に答えた。
「辛いです!《
相変わらずこの娘たちは息が合ってるな、と思いながら、ディーカは肩をすくめた。
「あら……大人向けのデザートを目差していたんだけど、唐辛子を入れ過ぎたかしら《
今日は新作デザート作りに没頭するつもりらしい。考え込むような様子で、彼女は奥に歩き出した。
ニホバルは交通の要所にあるため、旅人が立ち寄ることの多い町である。旅人には、情報や珍しい品物を持って来る者も多いが、なかには、厄介な問題を抱えている者、無法者もいた。そのために、事件や事故など、色々なことが起こる。
事件のたびに駆り出される、自治警察――その多くも、今夜は、法王の使いである大法師を迎えるため、東の門の警備に当たっていた。
「本当に来るのか、こんな夜中に《
色白な顔に黒髭が目立つのハルセッホ署長が、あくび交じりにぼやく。
すでに、辺りは夜闇に包まれていた。空には、煌々と輝く星々と見事な満月が浮かび、淡い光で地上を照らしている。
署長と馬を並べながら、スカウコー巡査長は、内心上司に同意する。彼は、町内が手薄になっていることが気になって仕方がなかった。事件は、夜明けまで待ってはくれない。
「署長、わたくしは少々、町を見回って参ります《
夜闇が完全に満ちるまで待って、ついに、彼はそう申し出た。
――この場から巡査長とその部下何吊かがいなくなったところで、問題あるまい。身軽さが好きで、今まで昇進を断り続けているのだ。
署長は、彼のそんな心の内を理解している。
「うむ。わたしも行きたいところだが、そうもいかん。気をつけて行って来たまえ《
「はっ《
眠たげな声に敬礼で応え、二人の部下を連れて馬首をめぐらせる。
門の周囲に見物人が集まっていたため、通りを行く姿はいつもより少ないものの、街はまだ、眠ってはいない。居酒屋や旅人相手の屋台など、賑やかな声が漏れ出す店も多い。
「早く大師さまが来てくれると、我々も一杯やれるんですがね《
馬上から地鶏の串焼きを売る屋台を見送り、若い警官、ジェロが溜め息をもらす。
「そもそも、本当に今日来るんですかい?《
「何でも、昨日町に着いた鍛冶屋の話だそうだが、信用できるのかどうかね《
スカウコーは振り返って肩をすくめ、ふと、妙なざわめきが聞こえた気がして正面に視線を戻す。
住宅街の家々の窓から、明りがもれていた。黒いシルエットとなって浮かぶ屋根の連なりの上に、窓の灯とは似つかない、小さな、奇妙な光が流れ、消える。
流れ星か。
いや、違う。あの、赤い光は――
スカウコーの、長年培ってきた勘が、犯罪の匂いを嗅ぎつける。
「行くぞ!《
手綱を弾き、馬の首を叩く。よく訓練された愛馬は一声いななき、主の意のままに駆け始めた。部下たちも理由を問うような真似はせず、ただ馬を駆って巡査長のあとを追った。
時折脇を歩く通行人に見送られながら、警官たちは通りを駆ける。現場はそれほど離れていないのか、駆け出して間もなく、助けを求める声や、女の悲鳴が聞こえた。
住宅街に少し入ったところで、視界が開けた。
「強盗だ!《
野次馬らしい男が、道の端から叫んだ。
警官たちが馬の足を止め、注意深く周囲の光景を目にする。
住宅街の端にある、木造の小さな食堂。〈緑の豆スープ〉亭という看板が傾いた店のそばに、黒い布で頭と口もとを隠した、強盗犯らしき男が倒れていた。店の出入口からは、店主と若い娘が顔を出している。
それを確認しながら、スカウコーらが注目したのは、三日月刀を手にしたもう一人の強盗犯と、その前に立ち塞がる、見覚えのある姿だ。
「くそっ!《
警官を見て焦った強盗犯が、行く手を塞ぐ、異様な存在に突進する。
三日月刀がひらめいた。刃が月光を照り返し、銀の流れとなる。
空気を震わせる、高い金属音。
銀の流れが、火花を散らして砕けた。
黒いマントに、獣の顔を模したような仮面。素顔はうかがい知れない、〈仮面の騎士〉と呼ばれる者の手にした漆黒の刃が、淡い赤の光に包まれながら、半ば闇に溶けている。
先端の折れ飛んだ剣を見下ろし、強盗犯は目を見開いた。
「そこまでだ!《
スカウコーが声を張り上げ、馬を走らせる。
もはや逃れられないと知りながら、男は駆け出そうと、足を踏み出す。その足を、仮面の騎士が鞘で払った。
強盗犯が転がる間に、スカウコーは馬上から飛び降りざま、難なく押さえつける。
彼が強盗犯に手錠をかけ、顔を上げると、いつの間にか仮面の騎士は、建物と建物の隙間に満ちる闇のそばまで移動していた。
「こんな夜中まで、ご苦労だね、巡査長《
男とも女ともわからない、それでも、意外に若いと思われる声が、静けさを取り戻しつつある周囲に遠慮したように、控えめに響く。
「それはこっちのセリフだな。その仮面の下は、千里眼か?《
巡査長のことばに、仮面の奥にのぞき見える目が、わずかに細められる。どうやら、笑ったらしい。
「たまたま、通りかかっただけさ。わたしは、騒がしくなる前にさよならしよう《
「待て!《
若い刑事が、闇にひるがえる姿を追おうとする。それを、スカウコーが手を伸ばして制した。
「こいつらの連行が先だ。あいつとは、また会えるだろうさ《
言って、彼が犯人を立ち上がらせたときには、満月の明りも探し出せないかのように、仮面の騎士の姿はすでに夜闇に消えていた。
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