序章

 土をならしただけの広い道を、一台の馬車が疾走していた。
 幌のない荷台は強風に晒されるが、それを気にしている余裕はない。馬も御者に追い立てるまでもなく、本能的な恐怖に従って、全力で走る。道の脇の木々をバリバリと音を立てて踏みしめながら、遠目にはゆっくりとした動きで歩む灰色の巨人――魔神兵から、一刻も早く、できるだけ遠くへ逃れるために。
……追いつかれるな《
 荷台で身を伏せている二人の人間のうち、背の高い青年が、仕方なさそうに断定した。身に着けた紋章付の武装から、神官戦士であることがわかる。
 いくら馬車が駆けようと、馬の百歩を、魔神兵は一歩で詰めてしまう。中型魔神兵とはいえ、その全長は四、五階建ての塔に匹敵するほどある。首が痛くなるほど見上げたところにある顔には、二つの目が上気味に赤く輝いている。
 その目は確実に、足もとを行く馬車に向けられていた。
「そ、それじゃあ、どうするんですか!《
 強風の中、手綱を手にした男は、半ばパニックになりかけた声を張り上げた。
 馬車も、商人風の身なりをしたこの男の物らしい。しかし、荷台に所狭しと並べられていたはずの商品は、わずかな残骸を残すだけとなっている。
 命あっての物種だ。商人にとって、荷台の二人が生きて家に帰るための最後の頼みの綱だった。
「追いつかれるのは、時間の問題です《
 神官戦士のとなりから、美少女とも見える容姿をした法師が商人を振り返る。そのことばに、神官戦士も同意した。
るしかないだろ《
 決して、乗り気ではない。だが、それが商人の頼みの綱の結論だ。
「ああ……シヴァースさま、ご加護を!《
 半ば絶望的になりながら、商人は大神に祈り、なおも走りたい馬をどうにかなだめ、馬車の速度を落とす。
 もともと大きな魔神兵の姿が、ぐんと近くなる。
「わたしはエルさまに仕えているんですけどね《
 法師が色の白い顔に苦笑いを浮かべ、純白の法衣と長髪を風に煽られながら、胸の前で印を結ぶ。
聖神光示エル・ディ・サイナム
 神官戦士が抜き放った剣の刀身に、蒼白い光が宿る。人の手に造られた武器に聖なる力を与えるこの術は、法術を扱える法師のなかでも、かなりの修練を積んだ者でなければ体得できないものだ。
 魔神兵があと一歩の距離まで近づくのを待って、止まりつつある馬車の荷台から神官戦士が飛び降りる。彼は膝のバネを使って衝撃を和らげると、馬車から飛び降りたときの勢いを維持して駆け出した。
 相手は、己の十倊近い大きさを持つ巨人だ。一体、どう戦うつもりなのか。
聖神槍エル・ザ・フラメア!《
 馬車が完全に止まり、振り返る商人の目に、再び両手で印を結ぶ法師が映る。
 白い光が、槍となって魔神兵に飛んだ。それはのぞき込む大きな顔の額に突き立ち、巨人の黒い血をまき散らした。
 ぶおおおお、と、獣のような低い咆哮が空気を震わせる。
 怒り狂った巨人は、この瞬間に足もとのちっぽけな者たちを、滅ぼすべきものとして認識したらしい。
「馬車を出して!《
 法師が叫ぶ。商人は黙って馬を走らせた。
 魔神兵の足の裏が、地面に大きな影をつくる。その下を潜り抜けたところで、法師も、荷台からひらりと飛び降りる。
 同時に、大地が震えた。
 大きな足が道を陥没させ、その周囲にもひび割れを走らせた。
聖神啓示エル・ディ・スケーラー!《
 走りながら、法師は正確に印を結んだ。
 何本もの光の帯が、巨人の足にからみつきながら、階段を編み上げる。木々の間に逃れていた神官戦士が駆け出し、勢いを緩めることなく、光の階段を登る。
 少し離れて馬車を止めた商人は、神話の中に描かれたような光景に、息を飲んだ。
 天使のような姿が編み出した光の階段に導かれ、聖なる力を宿した剣を手にした神官戦士が、魔神兵の額に一撃を叩き込む。
 もう一度、低い叫びを上げ――
 巨大な身体は、ゆっくりと倒れていく。
「おお……
 口を開けたまま、商人は感嘆する。
 たぐいまれな法力。
 邪を打ち破る勇気と知恵。
 この者たちになら、あれを託せるかもしれない。
「大丈夫?《
「何でもない、無傷だ。お前こそ、ちょっと近づき過ぎだぞ《
 商人の内心など知らず、二人は今しがたの戦いの余韻などどこ吹く風で、のんびりことばを交わしている。
「あんた、悪いが、あの魔神兵を始末するように近くの町の警察にでも言っといてくれ。ま、代わりに魔神核セイラム・コアが手に入るんだから、安いものさ《
 剣を紊めた神官戦士が、商人に声をかける。
 それには答えず、商人は馬車を飛び降り、地面に膝をついて、決心したように頭を下げた。
「法師さま、神官戦士さま、お力をお貸し下さい!《
 何か深刻な悩みを抱えているような、必死の面持ち。
 その様子に二人の旅人は顔を見合わせるものの、聖職者が、他人の頼みを無碍に断るわけにもいかない。
 法師は優しげなほほ笑みを浮かべ、大きくうなずいた。