四、終結 ―遠い〈記憶〉の彼方― (3)
クレオは、のしかかってくるような重さで目を覚ました。
どうやら、入口をくぐった瞬間に意識を失ったらしい。
その事実と、自分が仰向けに倒れていることを知ると同時に、頬に、やわらかいものを感じる。
「ん?」
しっかりと目を開けると、意識が急激に覚醒する。自分の顔に胸を押し付けるようにのしかかっている赤毛の少女が、丁度目を開けるところだった。
「あ」
「え」
口を開いた拍子に思わず洩れた音を残し、しばらくの間、茫然と見つめ合う。
やがて――
ルチルの平手が炸裂した。
「いったああぁぁぁ……」
のた打ち回る少年をよそに、レイガンをかまえた少女はゆっくりと立ち上がり、油断なく周囲を見回す。
広大な、鈍い銀色の壁と天井に囲まれた車輌用道路に似た空間だった。幅は数十メートルと言ったところだが、背後も、行く手も先が見えない。
「珍しいな、大体、一人一人バラバラになるって聞いたけど……執念を向けた相手についてくることもあるってことかな」
「そりゃあ、あたしはキミに執念はあるよ」
何とか起き上がる少年のことばに、ルチルは、どこか自嘲するように笑った。
立ち尽くしているのも気分が乗らないので、二人はとりあえず、歩き出す。どちらが先とも後ろともつかない、奇妙な通路を。
「その執念は、刑事としてのものなの?」
少年は、自分をマークしていた相手に、静かな声で問うた。
初めてルチルの正体を聞いたとき、彼は、内心少なからず動揺した。
組織の内側にいる間はある程度遠ざけられてきたが、世間が彼らに向けている視線を一気に突きつけられた気がした。
それも、今では冷静に受け止められる。啓昇党のしてきたことから、サイバーフォースに怪しまれても仕方がない、と想像できる。
「最初はね、キミがうらやましかった。珍しいじゃん、家族そろってるのって。だから、絶対コイツ凄いアマちゃんだろうな、とか思ってた」
「で、実際アマちゃんだった、と」
「うん」
あっさりうなずきを返され、クレオは転びかけた。
「ルチルちゃん……」
「いやあ、ちょっとがっかりしたよ。馬鹿にしてたけど、ちょっとだけ、期待もしてた。温かい家族に囲まれた、優しくて勇敢なヒーローを期待してたのに、こんなアマちゃんで」
家族に囲まれながら、その言いなりとなってヒーローを気取り、罪のない者の命を奪うようなことにも手を貸していた自分。
ほんの少し前の自分をかえりみて、クレオには、反論のことばもない。
「今は違うよ」
容赦のない言いように落ち込みそうになった少年に、少女は笑みを向ける。
彼女は少しだけ、その頬を、髪と同じ色に染めた。
「今のキミ、カッコイイよ」
心からのことばだった。
勝気な少女が口にすることは滅多にない、少年が耳にすることも滅多にない、素直な褒めことば。
面と向かって言われて、クレオは顔を背け、照れたように頭をかいた。
それを、ほほ笑ましい気持ちで見つめながら、ルチルが正面を指差す。
「さあ、とっとと先に進もう。あたしには、サイバーフォースの一刑事としての義務がある。どうしても、行かなきゃならないの」
「オレは……」
迷うように、クレオは口ごもる。
「何なの?」
ルチルに促され、少年は決意の目を向けた。
「本物の……作り物じゃないヒーローになってやる!」
先の見えない道が変容していく。見覚えのある、部屋の姿に。
「それに……もたもたしてると、リルちゃんをシータと一緒にしてしまうかも……」
歪み、形を変えていく世界を真っ直ぐ見届けながら、ルチルは手にしたレイガンの横腹で、となりに立つ少年の後頭部を叩いた。
「ここはどうやら……仮想現実の在り方を規定する部分が弱いようですね。だから、我々の意識の影響で変質する」
説明して、シータは少女に向き直った。もっとも、この相手には説明など不要だという気もしていたが。
周囲の壁より鮮やかな、美しい銀髪を背に流した少女は、何かを探り当てようとするように、クレアトールを真の名とする少年を見上げていた。
「ここは現実ではないもの。あり得ないことを信じるのもたやすい」
「ずいぶん自信がありそうですね」
お互いに、別のことを気にしながら、それを避けるようにしてことばを交わす。
空気が構成するのは、いつ崩れるとも知れないような、危うさ。視線をそらすこともできない。
「現実が、一番ありえないことだったから。だから、進もうと思えば簡単に進める……でも、行かせてあげない」
一人が進もうとしても、一人がそれを望まなければ、どうなるか。
「……意地悪をしないでください」
より、意志の強いほうが優先されるはずだ。シータには、自分の意志力がリルに勝るという自信がなかった。そして、リルは負けないと思っているに違いない――その予想自体が、勝敗を決めていた。
「わかってるんでしょう? そろそろ、決着をつけましょう、クレアトール」
不意に、リルが横を向いた。
世界が変貌する。少女の意思に従って。
「仮想現実に人々が移って、間もない頃だったわね」
語りかけるように、彼女は言う。
「あの頃は、まだこの世界は混沌としていた……管理体制も確立してなかったし、仮想現実に対応できない人、現実世界での絶望を引きずる人も多かった。あたしの母親もそうだった」
変容した世界の一部が、少女の記憶を模して動き出す。
広大なホールに、多くの人の姿があった。皆、不安をあらわにして震え、あるいは手を取り合い、涙で頬を濡らしている者も少なくない。
ホールの壁にはめ込まれた巨大なスクリーンに、現実世界の凄惨な映像が映し出されていた。いくつかに砕けた小惑星の欠片が降りそそぎ、大地が燃える。都市は一瞬で形を失い、空は厚いチリの雲に覆われ、それも、大部分が真っ赤に染まっていた。
丘に咲く花が枯れていく。逃げ惑う動物はすぐに炭と化し、熱や衝撃から逃れたものも、のた打ち回って死んだ。
文字通りの、世の終わりだった。
それを目にして、銀色の髪の女が、長椅子からずり落ちるようにして倒れる。
「お母さん!」
母と同じ色の髪の少女が、急いでしゃがみこむ。
周囲の人々にも、絶望は浸透していた。どこも似たような状況で、他人を頼ることなどできそうにない。
母親は、弱々しく、娘の背中に手を回そうとする。
「ごめんね、リル……」
それが、少女が聞いた、母親の最後のことばだった。
まるで、幻のように。
雑然とした風景の中にふっと現われた少年が、手を差し出すような仕草をする。
がくり、と女の首が後ろに垂れた。細い、赤い筋が、白い首筋から垂れていた。
「え……?」
何が起きたかわからない様子で、少女は母の顔を見る。
目は閉ざされ、顔は雪のように白い。表情は、どこかほほ笑んでいるようにも見えた。その頬に、少女は手を伸ばす。
「……お母さんっ!」
肌は、すでに冷たくなっていた。やっと、触れた身体がもう動かないことに気づいて、彼女は何度も相手を呼んだ。呼んでいるうちに、その目から涙があふれ、母の胸を濡らした。
彼女が顔をあげたとき、ぼやけた視界の中に、少年は存在しなかった。
「あたしは、この世界に慣れて間もない頃から、あなたを捜し始めた」
リルの記憶を再現した光景が、セピア色に染まっていく。
「やがて、その名が多くの人にしられるようになった、クレアトール……その特徴から、あなただとわかった。あたしは捜し続けた」
「復讐のために?」
淡々と話す少女に、シータは憂いを帯びた目を向ける。すべてを覚悟している、受け入れようという目。
先に視線をそらしたのは、リルのほうだ。
「そう、あたしは、あなたを殺すために捜していたの」
薄っすらと笑みを浮かべて、少女は一歩、足を引く。
シータは張りつめた空気を感じた。大きな圧力に締め付けられたように、指先を動かすこともできない。
彼女は、何か、自分でも抵抗できない――抵抗する気になれない力を持っていると、少年は気づいていた。
立ち尽くす彼に、急に少女の手が伸ばされる。
目にも留まらない速さだった。一歩で距離をつめ、身体ごとぶつかるように突進し、首に手を回してくる。
ドサリ、と、二人は床に倒れ込んだ。
「……避けないのね」
細い指は、軽くシータの首に触れている程度だった。リルは相手の上に乗って、のぞき込むように少年の顔を見下ろす。
顔を横に向けて目を閉じていたシータは、強い視線に反応したように、まぶたを持ち上げる。
「あなたが……殺さないからです」
「ここで死ぬ気はないくせに」
少女の視線が、本来壁があるべき場所へ向く。そこで、再び彼女の記憶の断片が再生される。
「あたしは、あなたの行方を捜すと同時に、あなたについての情報をひたすら求めた……それこそ、クラッカーまがいのことをしてまでもね」
立体的な映画のワン・シーンのように展開されたのは、先ほどと同じ、ホールの母娘を中心とした風景だった。ただ、映し出されているのは、銀髪の母娘の背中である。
「そして見つけたの。現場にいた人が、無意識のうちに覚えてた、記憶の欠片」
女が、長椅子から落ち、床に倒れる。それを、少女が必死に支えようとする。
ことばを交わし、手を伸ばす母親。
その手には、鈍く光るナイフが握られ、切っ先を娘の首に向けていた。
「どうしてお母さんがああしたのかはわからない」
ふっと、ホールの一角を切り取ったような映像が消えた。
「でも、あなたがああした理由はわかる……何も知らず、復讐を求めていたあたしがこんなことを言うのは、罪深いことかもしれないけど」
身体を少年の上からどけ、リルは、そのままそばに腰を下ろす。
彼女の灰色の目が、シータの緑の目を捉える。色の白い頬が、かすかに紅に染まった。
「ありがとう。助けてくれて」
今まで彼女が誰にも聞かせたことのない、優しい声。その甘い音色に、驚いたように目を見開き――少年は、ほほ笑む。
「どういたしまして」
銀の床の上に仰向けに転がったまま、彼はまた、目を閉じた。
「あなたが本当に私を傷つけるとは、思っていませんでしたけどね……痛い目に遭うのは嫌ですから、助かりましたよ」
「あら、傷つけずに痛い目に遭わせる方法もあるのよ?」
「ええっ、それはっ!」
またのしかかってくるような重さを感じた少年が慌てて目を開くと、リルが両手で軽く肩を押しているだけだった。
赤面して、軽く咳払いをしてから、少年は身を起こす。
「行きましょう。もう、クレオたちは着いているかもしれません」
「そうね」
二人の望みに、形態に関する規定の曖昧な空間は、即座に応えた。
ドーム状の、簡素な調度品が置かれた小部屋だった。中央には長方形のテーブルがあり、四つの椅子が並ぶ。モニターにもなる壁は白く、自然の陽射しに似せた光が天井からそそがれる。
一見して、簡単な打ち合わせや来客の応対のための部屋と知れた。
シータは、そのすぐ近くにミッション・ルームがあることも知っている。
スライド式のドアに駆け寄り、彼はふと、リルがついて来ないことに気づいて振り返った。
それを待っていたように、銀の妖精は口を開く。
「死なないで」
念を押すように、静かに告げる。
彼女は、どこまで感じ取っているのか。すべてを見通されたようで、シータは内心、畏れに近いものを感じざるを得ない。
それでも彼は、笑みを浮かべる。
「努力はしますよ。この先に、それを許してくれる相手がいるなら」
一歩近づくと、淡い緑のドアが横に滑る。