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第三章 決意 ―背神者たちの〈追走〉― (2)


 がしゃん。
 建物の窓が割れる。
 見たところ、建物は民家らしい。音に驚いた住人たちが、なかで振り返るのが見える。
「あの……リル?」
「さあ、行きましょう」
 平然と言い、窓の向こうに手を伸ばす。すると、彼女の姿は一瞬で消えた。
 残された者たちは、冷汗をかきながら顔を見合わせる。
「確かに、システム上、すぐに直りますけど……
「誰かに見られると評判落ちそうだねえ……
 窓の向こう側から、怯えたような少年の顔が見上げている。
「ごめん」
 謝罪しながら、ルチルは手を伸ばす。
 即座に、景色が変わった。彼女の後から、ステラ、シータも転移してくる。
 レイフォード・ワールドを抜けたことで、服装が普段の基本仕様のものに戻る。とはいえ、ルチルとステラはスペース・ワールド、シータはレイフォード・ワールドでの姿と、余り変わりがない。
 周囲のテーブルについている者たちの格好も様々で、特に浮いてはいなかった。車椅子に乗るステラがいるので、どうしても目立ってはいるが。
「とりあえず、あのテーブルにつきましょう」
 リルが指さしたのは、一番カウンターに近いテーブルだ。店内はかなり賑わっているにもかかわらず、そのテーブルは埋まっていない。
 この店についてまったく知らない三人は、すべてリルに任せることにして、彼女に従いカウンターに近づく。
「やあ、リル、友だちを連れて来たのか? 見ない顔だな」
「銀の妖精のお帰りだ、乾杯しようぜ!」
「いやあ、綺麗なお嬢さんが増えて嬉しいねえ」
 あちこちのテーブルから、常連たちが声をかける。それを無視して、リルは、普段指定席にしているカウンターに目を向けた。
「よお、無事に帰ってきたな」
 カウンターで飲んでいた男が振り返り、気軽に声をかけてくる。
「あなたも元気そうで何よりね、ジル」
 メニューも見ず、マスターに激辛リゾットを注文してから、彼女は情報屋の名を呼んだ。
 すでに出来上がった様子の赤い顔を向け、男は背後のテーブルの顔ぶれを見回す。一人一人の顔を確認するごとに、その表情がにやけた。
「訳ありのご一行みたいだな。ま、啓昇党なんかとやり合おうってんだから、それもそうか」
 啓昇党、の名を出すときは声を潜め、ジルは席を立って移動する。リルのとなりにコップを持って移った彼を、初対面の三人は胡散臭そうな目で見る。
 実際、ジルは身なりも挙動も、胡散臭さを絵に描いたような男だ。
「情報屋のジル。見ての通り、胡散臭いけど、けっこう役に立つ男よ」
「リル、そりゃないぜ。オレとお前の仲じゃねえか」
 情報屋は少女の的確な紹介に文句を言うが、長い付き合いなので、言ったところでどうにもならないことはわかっている。
 彼はわざとらしい溜め息を洩らし、コップを置く。
「じゃあ、本題に入ろうか」
 声が、酔いから醒める。仕事をする、男の声。
「でも、わかってんだろ、リル。オレは、ただ働きはしないんだぜ? 情報には、それなりの代償を払ってもらう」
「代償……?」
 ルチルが、不安にかられたようにきき返した。
 この店で料理を注文するために代金が必要ないように、仮想現実の多くの店は店主が好きでやっているので、代金は必要ない。異世界を舞台としたワールド内はともかく、それ以外の領域の大部分で、貨幣制度というものが失われていた。
 貨幣のないこの世界での代償とは、一体何なのか。
 未知への不安を募らせるルチルたちと違い、リルは、いつも通り平然としていた。
「まあ、そんなに身がまえることもねえよ。なあ、リル?」
「そうね。あなたには世話になっているし。あなたのおかげで、ようやく目的の人物にも会えたことだしね」
「へえ」
 ジルは声を裏返らせる。
 彼に合図するように、リルは目線で金髪の少年を示す。すると、情報屋はますます目を見開いた。
「そうか……ようやく見つかったか。いやあ、まさか、クレアトールがこんな綺麗なお嬢さんだったとはねえ」
 誰もが、予想する通りの感想。
「わたしは男です! わたしのことは、シータと呼んでください」
 他の客にも少女としか思われていないらしい少年は、言われ慣れている様子で、即座に訂正する。
 その勢いに、ジルは少し怯んだ。相手は、殿堂入り十人のうちの一人にして、腕のいいハッカーである。
「そんなに嫌なら、顔を変えりゃあいいじゃねえか」
「自前の顔でないと落ち着きませんよ。それに、今の状態では、いたずらにプログラムをいじるのは賢明ではないと思います。まあ、多くのクラッカーが飛び回っているのでは、余り意味は無いでしょうけど」
「ふうん……まあ、オレも、その顔のほうがいいと思うけどな」
 にやり、と笑顔を向けるジルに一瞬怯み、シータは顔をそむける。
 全員が軽食を注文するのを待ってから、リルが不意に、懐から瓶を取り出し、テーブルの上に置いた。瓶のなかには、紫色の液体が並々と入っている。
 ジルが、ヒュッと口笛を吹く。
「用意がいいな。確かに、オレの知らない銘柄だ」
 目の前に置かれた瓶を手にとって確かめ、彼は満足そうにうなずいた。
「代償って、酒?」
 ルチルは、拍子抜けしたような声を出した。今までの会話を聞いていると、悪魔と契約するかのごとく、もっと大きな代償を払わなければいけないように思えたのだ。
 リルは、彼女にチラリと目をやると、軽く首を振り、
「ううん。魂」
 あっさり言ってのける。
 少女は、飲んでいたハーブティーを吹き出しかけた。
「ちょっ……魂って、まさかヒトの意識? ほんとなの !?」
「ん、ああぁ……ある意味では、本当だけどな」
 ぽりぽりと頭を掻き、ジルが説明する。
「こいつには、ある一人の人間の感情と記憶の一部が詰まってるのさ。こいつを一杯やることで、オレは色々なことを体験できる。まあ、刺激的な情報交換の方法ってヤツさ」
「何だ、そういうこと……って、その感情と記憶って……
 ぎょっと目を向けるルチルに、リルは首を振る。
「大丈夫、あなたたちではないから。ちょっと通りかかった人に協力してもらっただけ」
 ルチルとシータは、リルがどうやって記憶や感情を抜き出したのか、〈通りかかった人〉が一体どんな目にあったか気になったが、怖いので聞かないでおくことにした。
 どんな形にしろ、代償は支払われた。
 ジルが今までに仕入れた情報から、ゼーメルへのルートを割り出し、メモしていく。
「あんなしけたところ、普通は近づきたがらねえもんだけどな」
 少しあきれたようにぼやき、情報屋はメモを差し出す。
「ま、最近かなり勢力を伸ばしてるようだから……あの周辺はかなりきな臭いかもな。顔を覚えられてるなら、気をつけたほうがいい」
「覚悟してるわ」
 メモを受け取り、リルはほほ笑んだ。
 滅多に見られない、銀の妖精の笑み。その瞬間を密かに待ちわびていたように、周囲のテーブルから歓声が上がる。
「ずるいぞ、ジルのヤロー」
「何だかわからないけど、頑張れよ」
「いやー、今日はついてるわ。飲もうぜ、飲もう!」
 周囲の騒がしさをよそに、リルは黙々と、激辛リゾットを口に運び始めた。
 この、常に騒がしい、客のほとんどが男らしいギルサーの酒場は、一見、少女には似つかわしくないように見える。それでも、彼女がここに通っているということからすると、周囲の喧騒もそれほど嫌いではないらしい。
 食事を終えると、四人は席を立つ。
「気をつけてな」
 カウンターの奥で忙しそうなマスターと、テーブルからカウンターに戻ったジルの声を背に、少女たちは、賑やかな酒場を出ていく。
「まったく……無茶をするもんだな」
 食器を盆の上にまとめながら、マスターは溜め息混じりに言う。
 啓昇党のような、特定の思想のもとに集う者たちは、多くの一般人には一種の脅威だった。それも、クラッカーと多くのパイプを持っているという噂もある、大きな組織は。
 クレアトールもついているとはいえ、その中心部に、少女たちが簡単に出入できるとは思えない。
「ま……大丈夫だろ。あいつなら上手くやるさ」
「あいつって、リルちゃんかい?」
「ああ。いつも、あいつの行動だけは、このオレでも完全にはつかめねえ。オレの追跡を簡単にまくなんて、タダ者じゃない」
 いつになく静かな口調で言い、ジルはもらったばかりの酒瓶を傾け、紫色の液体をコップに注ぐ。
「つい先日も、一日の行動を追ってみようとしたら、昼食の後すぐに見失ったぜ」
「ジル、お前……
 マスターの目が、見開かれた。
 いつの間にか他の客たちも静まり返り、次に外に出されることばを、じっと待ち受けているかのようだ。
「それじゃ、ストーカーじゃないか」
 その、マスターのことばが合図だったように――
「ジル、何やってんだ!」
「抜け駆けしやがって、このやろ!」
 口々にわめきながら、周囲のテーブルにいた男たちが同時にジルに詰め寄り、持っていたカップの中身をぶっかける。
「本当に、無事で帰ってきてくれよ……
 寄ってたかってジルを潰しにかかっている男たちの横で、マスターは食器を片付けながら、もう一度、少女たちが出て行ったドアを見た。

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