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第三章 決意 ―背神者たちの〈追走〉― (1)


 美しい模様を刻む壁に四方を囲まれた、薄暗い部屋の隅に、ひとつの人間のシルエットがうずくまっている。
 窓はなく、外と部屋の中の空間をつなぐのは、木目もあらわなシンプルなドアだけだ。そのドアもかなり厚いらしく、外の物音は何一つ聞こえない。
 何も動かない、静寂の空間。
 部屋のドアが開けられたのは、もう、半日も前のことだ。一組の男女がドアを開けて現われ、笑顔で部屋の主に声をかけた。
『お疲れさま。よくやったわね、クレオ。わたしも、鼻が高いわ』
『次の任務があるまで、ゆっくり休んでいていいんだぞ。もう瞑想して精神を高めてるなんて、お前は努力家だなあ』
『それじゃあ、お休みなさい』
 本当に、そう思っているの。
 少年は、そう問いたかった。今までも、何度も本心を訊いてみたいと思った。そして、本心を聞いて欲しいと思った。
 初めて、一度でも仲間と呼んだ、同年代の少年少女たちを、自分の属する組織に殺されて、どう思うかと尋ねて欲しかった。
 心に仮面を被った両親の顔を、もう何年も、まともに見ていない。
 ここ五年間、仮面を通さず話をしてくれたのは、何も知らない同年代の信徒か、セルサスくらいだった。
『きみは、将来なにに成りたいの?』
 五年近く前、セルサスは、彼に普通の子どもとして接してくれた。周りの大人はすでに、少年を特別な、英雄たるべき存在として扱っていた。将来の自由など、とうになかった。
 それでも、彼にとっては嬉しかった。両親や大人たちの目を盗んでは、セルサスと話をするくらいに。
 その、数少ない話し相手をその手で滅ぼして。
 心を許せそうだった、少年少女たちを見殺しにして。
 またいつか、同じことを繰り返すのか。
「仮面の世界か」
 今まで考え続けていたことも、すべてを放棄したくて、自嘲気味につぶやく。
 闇の中、そのつぶやきは、誰にも聞こえない――はずだった。
「それで、あなたは、仮面の奥を見ようとしているの?」
 突然、声が響いた。
 読唇者の声に似た、頭の中に直接伝わるような声。
……誰?」
 一瞬幻聴を疑った少年は、何時間ぶりにか、顔を上げた。薄暗い、変わり映えのしない部屋の風景は、彼を少し落胆させる。
 しかし、その風景の中に、異変が起きた。
 一人の、白い少女。そこだけ色が欠けているように白く、その身体自体が淡く発光する少女のぼやけた姿が、視界の中心に浮かび上がる。長い髪が風もないのになびき、大きな目が真っ直ぐ少年に向けられる。
 哀れみも好奇心もない。ただ、少女の目は少年をそこに認める。
「あなたの歩く道は、親や組織に縛られている……でも、結局決断するのはあなた。縛られるのを選択するのもあなた」
「そんな……
「違うの?」
 少女は、少年の記憶の中にあるとおり、淡々と促す。ためらいのない、滑らかな口調で。
「他の道なんて、オレにはないんだ……それに、もう、自分の足で歩けそうにない。引き返せないんだよ」
 自分の選択のせいで、取り返しのつかない犠牲を出した。それほどの犠牲を出しておきながら、今さら、道を変えることはできない。
 クレオは、すべてを振り切るように、断定した。
「ならば、このままその道を歩いて、より多くの人を手にかけるのね」
 突き放すようなことばに、少年は、大きく震えながら少女を見上げた。
「今なら間に合う。あとは、自分で確かめなさい」
 少女の姿が、薄れつつあった。
 クレオには、彼女が暗く閉ざされた世界に唯一変革をもたらす者に見えて、急いで手を伸ばす。
「待って、キミは……
 差し出された手は、空を切る。
 白い光が薄れ、少女の背中は背景に溶けていくようにして消えた。
 ずっと閉ざされた闇の中にいたせいで、幻覚を見たのか。しばらく茫然と闇に目を向けていたクレオの脳裏を、そんな考えが通り過ぎていく。
 我に返り、乗り出していた上半身を引き戻すと、その手に奇妙なぬくもりを感じた。
 握りしめ、感触を確かめてから、目の前で手を開く。その手のひらの上には、綿毛のような、白い羽根が載っていた。
 その羽根をポケットに入れ、彼は部屋の外に出る。
 明るい通路に目が慣れるまで、視界がぼやける。その代わり、ざわめきが大きく聞こえた。
「まさか、あの三人が――」
「大丈夫、我々には賢者さまがついてる」
「そんなネズミどもはどうにでもなる。今度こそ、我々の力は絶対のものとなろう」
 途切れ途切れに聞こえる語り口は、どれも熱っぽく、自分の道を信じて疑わない意志を感じさせる。
 いつもはその熱に圧倒された気分になるが、今日は違う。
「クレオ! 丁度良かった」
 顔見知りの青年が、笑顔で駆け寄ってくる。クレオと違って、その手を汚したことのない、歳の近い青年。
「賢者様が呼んでるぜ。ついに、次の儀式の詳しい段取りが決まったんだ。期待してるぜ、救世主どの」
「ああ」
 笑顔で、少年はうなずいた。
 心の中で、相手に手を合わせながら。

 レイフォード・ワールド、カロアンの街の中央広場に、見るからに目立つ、一行の姿があった。
 緑の芝生に、涼しげな噴水。木々の間に憩っているのは、三人の、少女――らしき姿。
 そんな顔ぶれが人の多い広場の一角に一時間以上もいれば、何人もの男たちに声をかけらるのも当然である。
「だから、わたしは男ですってば!」
 しつこいナンパに腹を立てた女顔の少年、シータが弱い攻撃魔法で相手を吹き飛ばしたのも、一度や二度ではなかった。陽気な性格のルチルが誘ってきた相手についていきかけ、止められたのも。
 幸い、ステラは笑顔で首を振るだけで済んでいる。
 もう一人の少女――銀の妖精の異名を持つ少女リルは、姿を見せていない。
「おっそいわねー」
 木のベンチに腰かけたルチルは、あくび交じりにぼやき、興味の対象を探そうとするように、周囲を見渡した。
 広場の中央には噴水があり、その周囲の芝生やベンチに、多くの人々が憩っていた。ほとんどは、冒険者の姿である。
 数時間ほど前、カロアンに戻った四人は、熱烈な歓迎を受けた。多くのほかの冒険者に食堂に連れていかれ、メニューにあるすべての料理をご馳走される。
 早々に退散したものの、食堂で歓待を受けている間に聞いた話では、少女たちがアガクの塔でクラッカーを退治したおかげで、このワールドのシステム異状が直ったというのだ。
 現に、街の外に出た冒険者たちによると、いつも通りのステータスの魔物が出現するようになっていたという。
 冒険者たちの中で特に知れ渡っていた名前――それは、英雄クレオだった。
「英雄……か」
 溜め息とともに、少女はつぶやいた。
 彼女の座るベンチの背後に、緑の芝生が広がっている。その上に布を敷いて、シータと、車椅子を降りたステラが腰を下ろしていた。
 青空の天頂に輝く太陽の暖かい日差しが、木の葉に遮られ、その根もとを適度な気温に保つ。少しイラつき始めたルチルとは逆に、他の二人は木洩れ日の下、のんびりと自然の景色を眺めていた。
 偽ものの、つくられた景色。つくられたぬくもり。
 それでも、人の記憶がつくり出したものに違いない。
「いつまでもこののどかさが続けばいいのですけどね」
 心地よい陽気に包まれて、思わず眠気に襲われ、シータはつぶやきながら首を振った。ふとその視界に入ったブロンドの少女も、大きなあくびをし、視線に気づいた様子で笑顔を向ける。
 セルサスの支配権が悪意ある者に渡れば、いずれは、自由に日光浴もできなくなるかもそれない。
「続けられるのでしょうか……
 声を潜めて、少年は自問した。
 彼は今までも、決して、人前で弱音を吐くことはなかった。弱音を吐くような場面にも滅多に遭遇することはなかったし、厳しい局面では、そんな余裕はなかった。
 しかし、今回の件は、今までの『厳しい局面』とはレベルが違う。仮想現実すべてのありように関わる問題だ。
 それを阻止しようというのなら、何かを、犠牲にしなければならないかもしれない。
 その覚悟を胸に、膝の上で手を握りしめる。その手の上に、少女の手が置かれた。
「あなたは……
 大丈夫、と言いたげな笑顔を向けるステラに、彼は緑の目を見張る。
 目も見えないはずなのに、少女は、常に敏感に周囲の者の気持ちを汲み取っているようだ。その身が不自由なことなど、彼女の心に何一つ影を落としていない。
「そうですね、何とかなるでしょう」
 顔を上げ、シータが空を横切っていく鳥を見上げたと同時に、彼の服の袖が軽く引かれた。見下ろすと、ステラが彼の服の端を引っ張りながら、目を後ろに向けている。
「来たようですね」
 少女の動作の意味を瞬時に察して、振り返るより先に言う。
 まばらに生えた木々の間から、見覚えのある少女が歩み寄ってくる。長い銀髪を背に流し、ウィッチのカラフルな衣装に身を包んだその姿は、木々の間に遊ぶ妖精そのもののようだ。
「待たせたわね」
 彼女が歩みを止めると、動き出せるのがよほど嬉しいのか、ルチルは笑顔でベンチの背もたれを跳び越え、相手の目の前に立つ。
「いいってこと。それより、どうだったの?」
「とりあえず、暗号は送ったわ。相手が待ち合わせの場所に来てるかどうかはわからないけど。待ち合わせの場所への行き方は、前に聞いていたから大丈夫」
 今できる限りの、最善の手段だった。
 次にすることは、自分たちの身で動くことである。ルチルほど嬉々としてではないが、シータも勢いよく立ち上がり、ステラが車椅子に戻るのを手伝う。
「じゃあ、行きましょう。ついて来て」
 短く言って、リルは皆を先導し、歩き出した。
 彼女は通りに出ると南下して、武器や防具などを売る店が並ぶ、東通りに折れる。賑わう道の端で人込みを避けながら歩き続けると、やがて、通行人の姿が減っていく。
 東の門が見えてきたところで、少女は、細い小路に入る。そこは、行き止まりになっていた。
「これじゃあ、どうしようもないんじゃあ……
 ルチルが言いかけたとき、不意に、リルがステッキを振り上げた。

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