第二章 消失 ―〈英雄〉の凱旋― (6)
どこまでも、かび臭い石造の通路が続いていた。窓もない周囲は薄暗く、壁際に並ぶ石像の輪郭が不気味に見える。
一体、何体の石像の前を走り過ぎたのか。
通路の入口が完全に見えなくなったところで、走り続けていたシータは足を止める。たちまち、左肩を押さえる右手の指の間から血が滴り落ち、床に赤い斑点を散らした。
「その怪我でいつまでもつかな、坊や」
声は、正面から聞こえた。
床から、キダムの顎から上がせり上がってくる。顎から下は床に埋没したような格好のまま、彼は笑みを浮かべて見上げた。
死を悦ぶ者の笑みを、シータは穏やかなほほ笑みで受け止める。
「これくらい、何てことはありませんよ。サーペンス・アスパー」
その名前が、何かの魔法だったかのように、黒尽くめの男の笑みが崩れた。
キダム。そう自らを称した青年の、真の名。殿堂入りした十人のうちの一人が名のる、単語の連なり。
「その名を知られているとはな」
サーペンスは、白い顔から笑みをひそめた。
直立している長身の身体が、ズルズルと床から引きずり出され、シータと対峙する。
「消えてもらうしかない」
何の予兆もなく、暗い通路の景色の一部が歪んだ。
歪みはドリルのように渦巻き、白いローブ姿をつらぬこうと、鋭い先端を三つに分かれさせて襲いかかる。
素早い一撃だった。時間的にも距離的にも、かわす余裕などない。
そのはずなのに、攻撃が終わった後も、シータは平然と立っている。
「どういうことだ?」
攻撃が失敗に終わったことを察知すると、サーペンスの顔に初めて笑みではない表情、驚愕が広がる。
それをじっくり眺めながら、少女にも見える少年は、手を伸ばす。
「上には上がいるというだけです」
黒い鎖が四方の壁から伸び、サーペンスに絡みついて縦横に張る。足首から吊り下げられ、男は金切り声を上げた。つい数秒前までの余裕など、完全に尽き果てた様子で。
「わかった、お前は強い! そ、そうだ取引をしよう! 何でも言ってくれ!」
「本当でしょうね?」
「ああ、俺は強い者には従う、絶対だ! 命さえ助けてくれたら、知ってることは全部しゃべるし、持ってる物はなんでもやる!」
逆さになりながらも帽子を深く被ったまま早口でまくし立てる男の前で、シータは溜め息を洩らした。
十人しかいない殿堂入りプレイヤーのうちの一人であり、荒くれ者の中でも恐れられる伝説級のクラッカーが、危機を前にすればこの調子だ。
「やれやれ……殿堂入りの評判を落とされなければいいですが」
『そう心配する必要もないだろうよ』
どこかから、読唇者がことばを挟んできた。突然の声にも、シータは驚くこともない。
「だといいですけどね」
『十人の中でも、その男は最下層なんだろうな。……いざとなれば手を貸そうかと思っておったが、必要なかったようだ』
読唇者のおせっかいにほほ笑みで答え、彼は、逆さ吊りの男に視線を戻す。
抵抗する気もない様子で吊るされている男は、再び目を向けられると、怯えたように身を震わせる。
「あなたの知ってることを話しなさい……先ほど、啓昇党の男たちの記憶を喰らったでしょう?」
舌をもつれさせながら、サーペンスは答える。
「ああ。あいつら、ゼーメルの教会に拠点を持ってるんだ。そこからシュメール経由で管理局にクラッカーを派遣して、セルサスを封じてる」
「クラッカーは誰です?」
「みんな知らん名前だ……でも、偽名かも知れねえ。顔も偽ってるかも」
仮想現実の構成論理に通じた者なら、顔や名前を自由に変えることが出来た。セルサスの検査を潜り抜けられる者は少ないが、今なら、技術さえあれば難しいことではない。
一応三人のクラッカーの名前を聞き出し、シータが記憶する間に、読唇者が別の質問をした。
『ゼーメルの教会とやらに行くには、どうするんだね?』
サーペンスはその声の正体を知らないが、シータの仲間だろう、と判断したらしい。
「とりあえず、教会じゃ〈大いなる進化のために〉とか合言葉を言うんだが……あいつらは、セルサスの転移機能で移動してるからな。教会自体は、今の状況じゃ、地道に捜し歩くしかねえと思うぜ」
「そうですか……わかりました」
もう用は済んだ、という調子で、シータはことばを切る。
一体、用済みになった自分はどんな運命を辿るのか。サーペンスは震える声で、自分よりいくつも幼く見える少年にことばをかける。
「な、助けてくれよ……そうしたら、絶対に邪魔はしない! これからは、大人しくするからさあ……」
懇願する男を見上げ、シータは頭をひねる。彼としては、サーペンスがこれから何をしようと、邪魔になるだけの要素もない。
解放してもいいかもしれない、と思い始めた彼の背後に、覚えのある気配が生まれる。
「先週もそう言ったわ」
高い靴音が、コツコツと響いた。
わずかな光を反射して輝く銀髪を揺らす魔法少女が、薄暗い通路を渡る。その背後に、少し遅れて歩く赤毛の少女と、車椅子の少女の姿が見えた。
「な、なぜそれを」
「噂はどこからでも洩れるものよ」
小さく笑って、狼狽するサーペンスに答えてから、リルはシータを見る。
ハンターの少年は、左肩の傷もいつの間にか治り、平然と捕らえたクラッカーを見上げていた。それも、かなりの実力を持つクラッカーを。
「サーペンス・アスパーを圧倒するなんて……やっぱり、あなただったのね」
「何のことですか?」
振り向いてとぼけたふりをするシータに、リルは静かに視線を向ける。恨みでも驚きでもない、複雑な感情の絡んだ視線だった。
彼女は、口を開きかけて閉じ、また開く。
「待って!」
その声の意味を即座に理解できた者は、声をかけられた者だけだったに違いない。
背を向けたシータはもちろん、読唇者ですら、とっさに行動を起こすことができない、瞬間の動作。
サーペンス・アスパーの帽子が、パサリと落ちた。その尖った先端が床に触れるなり、一気に黒い液体となって床に溶ける。
シータが振り返ったときには、すでに帽子は消えていた。続いて、鎖に捕らえられていた男の身体が干からびたように縮まり、粉と化す。
目を見開くステラと口もとを押さえて驚きの表情を浮かべるルチル、そして動揺のないリルの前で、シータは肩をすくめる。
「やれやれ……油断しましたね」
『なかなか地道なトリックを使うな。まあ、あれでも殿堂入り級の実力はあることは証明されたか……さて』
読唇者も、さして残念がるような調子もなくぼやいてから、声の調子を変える。
『わたしはそろそろ失礼させてもらおう。次の目的地も決まったからな……』
「シュメールへ行くのね」
リルが、そう確認した。帰ってきた答は、肯定の沈黙。
「なぜ、そこまで啓昇党を追うの? 誰かと同じく、古くさい正義感から?」
彼女のことばに、シータがわずかに、表情に動揺の色を浮かべる。
読唇者のほうは、今までと変わりない口調で応じた。
『年寄りの、古いしがらみだ。かつてわたしがワールドの設計に関わっていたときの後輩に、現在啓昇党に協力しているハッカーがいた。べつに親しいわけでもないが、放っておくのも落ち着かないのでな』
「そういうこと」
返事を聞くと、リルは興味を無くしたのか、口を閉ざす。
『動機は違えど、また出会うこともあるかもしれんな……わたしは、シュメールをめざそう。では、さらばだ』
「さよなら」
事情がよく飲み込めないながら、ルチルが別れのことばを口にする。
壁や天井からのびていた鎖も消え、取り残されたのは、三人の少女たちと、彼女らに背を向けた一人の少年だけだ。
周囲は静まり返り、他に動くものの気配はない。
「さて……話してもらいましょうか」
ルチルが、数歩、シータの背中に近づき、リルと並んだ。
少年は、色の白い顔に苦笑を浮かべて振り返る。三人の表情を見渡したあと、すぐに身体ごと向き直って、彼はうなずいた。
「わたしは、あの読唇者と同じく、ここで何かが行われることを察知していました」
「だから、偶然を装って近づいた」
リルのことばに、シータはまた、首を縦に振る。
「他に動いている冒険者はいない……あなたたちが鍵だということは、すぐにわかりましたからね。そして、クレオがその中心にいることも……」
「啓昇党が暗躍していることも?」
「確信を得たのは、カロアンでですが。今は、彼らの目的もわかりました。わたしが次にすべきことも」
「シュメールに行くの?」
リルに続き、ルチルが質問を重ねる。シュメール・ワールドは、読唇者が次の目的地とした場所だ。
「いいえ。ゼーメルですよ」
否定しながら、彼はほほ笑む。
「啓昇党がクレオに英雄としての役目を与えたのなら、他にも彼を使った計画を立てているはずです。まず、そちらを押さえます」
最後まで言うか言わないかのうちに、彼は仰向けに転倒した。ルチルが、突然彼に飛びついたのだ。
硬い石造の床でしこたま後頭部を打ったらしく、シータは目の前に星が飛ぶのを見ながら首を振る。
「何するんですかっ!」
「いや、効率より友情を取るなんて、シータえらいっ! あたしゃ、思わず感動しちゃったよ、うん」
「そんなんじゃあありません!」
勝手に感動をあらわにして首に抱きつくのをすりぬけ、シータはのそのそと少女の下から抜け出した。床に座り込んだ彼の目の前に、屈み込んで見下ろす、銀の妖精の顔がくる。
怯んだように身を引く彼を、底知れない、灰色の目が射抜く。
妖精のように神秘的な輝きを放つ髪を持つ少女は、いつものように淡々と――何気ない独り言のように、ことばをつむぐ。
「あなたはクレアトール。あたしは、あなたを捜してここに来たの」
質問ではなく、確認だった。
「え……?」
ルチルが、気の抜けた声を出す。
その、時間が止まったような空気の中、昨日、シータ、と自らの名を名のった少年は、否定しなかった。
「言っておきますけど、クレアトール、でひとつの名前ですからね。クレア・トールと分けないでくださいね……二年ほど前から、シータ、で通していますが」
「クレアトールって、殿堂入りの?」
言うまでもないことをわざわざ説明する少年のことばに、赤毛の少女は動きを止め、疑わしげに相手の顔をじろじろ見る。
それにかまわず、金髪の少年は立ち上がり、リルに目を向けた。その表情は、真剣なものに変わっている。
「わたしも、いずれあなたと会ってみたいと思っていました……しかし、今は急ぎの用事を抱えています。いずれ、また会うことにしましょう」
「何を言ってるの……」
銀髪の少女の表情が、わずかにほころぶ。
「あたしも行くわ。足手まといにはならないわよ」
「あたしも!」
即座に、ルチルが同調する。
少し離れて眺めていた車椅子の少女が、同じ意見を表わすかのように進み出た。いつもは柔らかな笑みが浮かんでいる顔には、真剣な色をたたえた澄んだ目が輝く。
「やれやれ……わたしは、クレオのように甘くはありませんよ。自分の身は、自分で守ってくださいね」
「もちろん。……でもさ、ゼーメルに行くには、一方通行の出入口を選んで行かないと駄目なんだよね?」
レイフォードへ来るにも特定の入口をくぐらなければならなかったことを思い出し、ルチルは腕を組む。
急ぎの用事だというのに、目的地への道筋がわからなければ仕方がない。一方通行の出入口と行き先の対応を調べ上げるのは、骨が折れる上に時間の損失が大きい。
「調べるあてはあるわよ」
表情を曇らせるシータに、リルが平然と言う。
「ちょっと、高くつくかもしれないけどね」
その顔に、いたずらっぽい笑みが広がっていく。
それを、三人は期待と同時に、不安を持って見ていた。