第二章 消失 ―〈英雄〉の凱旋― (5)
『やっと来おったか、冒険者たち』
突然声が響き、緊張していたクレオたちは、思わずビクッと身体を震わせて驚いた。
「ちょ……脅かすなよ、おっさん!」
『やれやれ、おっさんはないだろう。一応心配していたのに』
驚いた反動で怒りの声を上げる剣士に、塔の出入口で聞いたのと同じ読唇者の声は、溜め息をつくような音を交えて応じる。
『まあ、辿り着いたようで良かった……着くとは思っていたし、着いてくれなければ困るがな。しかし、この先はどうなっているか、ようとして知れん。わたし以外のハッカー連中も、何人も侵入していることだしな。覚悟はいいか?』
逃げることは許されない。読唇者の声には、そんな響きがあった。
クレオは、それぞれの顔を見る。
平然と、扉の向こうを透かし見るかのように正面を向いているリル。
挑戦的な笑顔で、親指を立てて見せるルチル。
穏やかなほほ笑みを浮かべて見上げるステラ。
そして、これから起こることを確かめようと、強い意志の宿る目で見返すシータ。
全員が、無言でうなずきを返してきた。
『頼むぞ、若者たち』
読唇者が、彼らの答に安心したような声を出す。
「あんたのためじゃないけどね」
ルチルが苦笑し、メダルをくぼみにはめた。
「ここまで来て、引き返す手はないでしょ」
くぼみで途切れていた文字列がつながり、字が赤く輝き始める。同時に、地鳴りに似た音が響き始め、扉が、奥に向かって開いていく。
閉ざされていた空間が解き放たれる。塔の外観と同じ色の石造の空間に、円形の、一段高くなったステージがしつらえてある。周囲には石柱が並び、四隅に掲げられた大きな玉石が、室内を明るく照らしていた。部屋の左右には、通路の出入口がある。
見覚えのある部屋。塔の主である、魔女の部屋だ。
しかし、いつも出迎えるはずの、魔物を従えた魔女はいない。ステージ上にいるのは、三人の男だった。
「いやあ、見事だったねえ、諸君」
パチパチ、と乾いた拍手の音を響かせ、中心の白い服をまとった中年男が言う。
「実に、素晴らしい。良い仲間を持ったな、クレオ」
茫然と成り行きを見ていたルチルは、男の言っていることばの意味がわからなかった。
わからないまま、目を向けたそこで、もう目に馴染んだ白い鎧の背中が、ステージに向かって歩き出す。
彼は言った。今まで耳にしたことのない、丁寧で感情の薄い声で。
「お褒めに預かり光栄です」
頭を垂れる少年に、男たちは満足げな笑顔を向ける。人のよさそうな、熟成された落ち着きを持つほほ笑みだった。
「お友だち……? 違う……?」
混乱したつぶやきを洩らすルチルに、男の、父親のような笑みが向けられた。
「キミたちもよくやったね。感謝するよ……さて、クレオ」
片膝をついて下を向いたままの少年に視線を戻し、彼は穏やかに声をかける。
「疲れただろう? 後の始末は我々がするから、先に戻っていなさい」
「お気遣い、ありがとうございます。それでは」
機械的に答えるクレオの声に、ルチルは感じ取った。彼が、いなくなってしまう、と。
「ちょっ、待って!」
走り寄って、手を差し伸べる。
その指先が目的に届く前に、何かが、彼女の勢いを反射したように、彼女を吹き飛ばす。その身体を、リルが受け止めた。
「逃げるのですか?」
冷静に状況を見つめていたシータが、鋭い声を上げる。
ぼやけつつある身体が消える一瞬前、クレオは振り向いた。
その顔には、哀しげな表情が浮かんでいた――ように見えた。
リルが、ステラが、杖をかまえる。我に返り、ルチルもフラフラと立ち上がってナイフを抜いた。
「気の毒だが、キミたちには生きて帰ってもらうわけにはいかない。記憶を操るまでには、我々はシステムを掌握していないのでな」
「あなたたちが……セルサスを?」
男のことばに、リルが問いかける。その声は静かだが、目が鋭く細められていた。
「我々の仲間だよ。あのシステムは、人類がここで進化するためには、邪魔なものだからな」
「勝手な決め付けね」
リルはチラリと仲間たちを振り向き、ステラが法衣の腿の上の辺りをきつく握りしめているのに気づいた。
怒りと哀しみ。
不審。
そんな感情を受け止めながらなお、ステージ上の男たちはほほ笑む。傲慢なほど、穏やかに。
「この世界の人々は、このままでは外の事を忘れてしまう。やがては、考えることも止めてしまうだろう。それはここでは、人類の滅びを意味する」
「だから我々は、この世界で独自の進化を遂げなければならないんだ」
中央の男のことばを、その左隣に立つ、白い顎髭をたくわえた男が引き継いだ。
「セルサスに頼り切ったこの世界では、どんどん人間の意志が弱くなっていく。もうすでに、ワールドに夢中で現実世界を忘れ去っている者もいるのではないかね?」
「そんなわけないじゃない! 忘れようったって……忘れられるわけがない」
ルチルが叫んだ。
離れ離れになった家族。友人たち。跡形もなくなった故郷。
目をそらそうとしても、すべては記憶に深く刻まれている。埋めようもないくらいに。
「多くの人は、少しの間でも、忘れていたいの。そうしなければ、心が悲鳴を上げる。実際に、忘れていることが出来ない人は、世界に変化があるまでずっと眠り続けることを選んでいるわ」
「それは、今のこの世界には希望がないからだろう?」
リルの視線を受け止め、男は寂しそうに笑った。
「今のここは棺桶の中も同然だ。一体、誰が保障できる? 脱出した者たちが無事だと。迎えが来ると。そんな不確かなものを待ち続けるより、ここで進化を遂げるのがベストの選択だよ」
「……確かに、あなたたちの言うことにも一理ある」
無言で話を聞いていたシータが、下に向けていた顔を上げる。
「しかし、進化とは、誰かが強制的に進めるのではなく、自然に発現するものなのです。あなたたちに押し付けられ、方向を定められた道など、自然な進化とは言えません」
「それに、セルサスや管理局は、そこまであたしたちを束縛してないじゃない! 最低でも、あんたたちがやろうとしているほどにはね!」
その、侵入者たちの反応は予想済みだったのか、中央の男は軽く肩をすくめた。
「やはり、わかってはもらえなかったか」
彼は今まで何度もそれを繰り返してきたように慣れた仕草で、左右の男に目で合図する。
「すまないねえ」
本当に申し訳なさそうに言って、右側の、黒目黒髪の男が手を振った。
壁が渦巻くように歪む。そこから、コウモリのような翼を持つ人型の悪魔、ガーゴイルが三体、飛び出してくる。
魔物は、本来は持っていないはずの、三叉の矛を手にしていた。
穂先が下に向けられると、光線が飛ぶ。実際の魔物には、存在しない攻撃。
「確実に、死んでもらわないとねえ」
光の向こうで、残念そうな声がした。
床が抉られる。光線は、はるか下までをつらぬき通しているらしい。どこかで、何かが崩れる音がした。
それなのに――それは、四人には届かない。
さすがに異変を察知したのか、三人の男は攻撃を止めさせた。眩しい光が消え、切り刻まれた床と、無傷のステージ上があらわになる。
ステラは防御魔法を使っていないし、防御魔法で防げそうにもない。
「やはり……あなた……」
リルが目を向けた背中は、シータのものだ。
彼は肩をすくめると、無造作に、宙めがけてボウガンの矢を放つ。矢は空中で光を放ち、その光に照らされたたガーゴイルたちを蒸発させた。
笑みを崩すことのなかった男たちが、目を見張る。
「さて、どうする気ですか? わたしは、まるであなたたちと考えが合いませんからね。話し合いの余地はありませんよ。セルサスを元に戻すというなら別ですが」
「それは、我々としても譲れないな」
先ほどより、幾分余裕のない口調で、男は答える。
「セルサスの機能をいくつか手に入れている今なら、ハッカーたちにもある程度制約を課すことができる。今のうちに、我々の権限を強化しないと」
「それは面白そうだな」
誰かが言った。
「オレにも、一枚かませろ」
ドン、と、ステージの中央に立つ男が震えた。
男の胸から、黒い腕が突き出していた。黒い服に、黒い手袋をした手。
一体、いつの間に背後に回っていたのか。見覚えのある、黒いコートに黒い三角帽子の青年の姿が、男の後ろに現われていた。
「キダム……」
ルチルがその名を呼ぶ。
呼ばれた男は、帽子のつばを上げた。灰色の目が、少女を射すくめる。彼は、狂気を感じさせる笑みを浮かべていた。
「あの坊やが、まさか啓昇党とはな。世の中広いもんだ。けど、ここいらでこいつらの御託は止めさせてもらおう」
「やはり、ここに来ましたか……しかし一体、何のために?」
シータはあきれたように、鋭い視線を真っ直ぐ見返す。
強い殺気に似た威圧感を含む目で、キダムはハンターの少年を睨んだ。表情は笑っているが、その顔は、憎悪という唯一の感情を印象付ける。
「こいつらの持ってるシステムの機能を、丸々いただくってのも面白いと思いわねえか? しばらくは、ワールドを崩して遊べそうだぜ」
「くだらない」
淡々と返したのは、リルだった。
ルチルは、気が気でない。彼女の本能が、まずい相手だと告げている。幾度も、犯罪者と関わってきた彼女のカンが。
キダムの表情が、わずかに変わる。
彼が、ステージ中央の男の胸から腕を抜くと、力を失った身体と同時に、左右の男も倒れた。そして、横たわる男たちの身体が変貌していく。大きなナメクジに似た、グロテスクな魔物に。
「こいつらには、こんな程度がお似合いだろうよ。さて……」
うごめく魔物を見下ろしていたキダムが、視線を戻す。
血飛沫が舞った。
「う……」
後ろから何かに刺さしつらぬかれたようによろめいたあと、左肩を押さえ、シータが膝をつく。血が、白いローブを朱に染める。
「シータ!」
駆け寄ろうとするルチルを、笑みをつくり、彼はとどめた。
「大丈夫……それより、この魔物たちをお願いします」
頭を振り、立ち上がる。腕を伝って指先から流れ落ちる液体が、赤茶色のレンガを敷き詰めた床の上に血溜りをつくる。
「どうするの?」
リルが振り返るのに直接は答えず、彼は声を張り上げた。今やその上に立つのは一人だけの、ステージに向かって。
「さあ、あなたの相手はこのわたしです! ついて来なさい!」
シータは、部屋からのびた通路のうちの一方に向かって走る。彼の背中が奥の闇に消えると、それを追うように、キダムの姿も消えた。
血を流しながら一人消えたシータを、ルチルは心配そうな目で見送る。その横から、静かな、澄んだ少女の声がなだめた。
「彼なら大丈夫。あたしたちは、あたしたちの仕事をしましょう」
ナメクジに似た、おそらくレイフォード・ワールドに本来存在しないであろう魔物が、三人の少女たちを取り囲むように、ゆっくりと動ていた。
今は、目の前にある、するべきことをしなければならない。
心を落ち着けて、ルチルはナイフをかまえた。その銀色にきらめく刃に、不意に、蒼白い光が宿る。振り向くと、車椅子の少女が、色の白い顔にいつものほほ笑みを浮かべていた。
それに笑みを返し、彼女は駆けた。
「てあっ!」
気合を込め、魔力を帯びた刃で魔物の表面を薙ぐ。緑色の液体が飛んでくるのも気にせず、彼女は隙を見ては斬りつけた。
「攻撃は一応通じるみたいね……まず、一匹減らしておきましょうか」
ステッキを振り、リルが一番自分に近い魔物を示す。
「シャイニング」
ファイヤードラゴンに使ったのと同じ魔法だった。まばゆい光がグロテスクな魔物を焼き、黒い炭に変える。
「よし!」
心に溜まっていた重いものを忘れ去り、ルチルはナイフを振るう。
勝てる。
その唯一の希望をめざして、彼女は確実に、目の前の自分の仕事をこなした。