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第一章 異変 ―闇に堕ちる星― (4)


 彼女が平然と横倒しになった車椅子に向けて足を踏み出すと、見知った姿が人垣から抜け出す。
「見た目より力あるんだねえ」
 ジュース入りの紙コップを片手に、ルチルが歩み出て車椅子を起こした。そこに、リルが金髪の少女を座らせる。
 危機から助け出されたばかりの少女は、自分がどんな目にあったのかもわからない様子で、周囲を見回した。しかし、その視線の方向は焦点を結んでいない。どうやら、動揺しているために見えないわけではないようだ。
「この子、目が見えないんだ」
 ルチルが言うと、少女は彼女に目を向ける。
「聴覚はあるみたいね。でも、声も出せないみたい」
 リルが言うと、車椅子の少女は視線を動かし、うなずいた。意思の疎通が不可能ということではない様子だった。
「あなた、名前は?」
 じっと目を見つめて、銀髪の少女は問う。
 相手は、一瞬驚いたように目を見開いた後、少しの間考え、首を振った。その動作の意味がわからず、リルとルチルは顔を見合わせる。
 名を答えたくない、ということか。
 それとも――
「もしかして……記憶喪失?」
 リルが問うと、金髪の少女は、一呼吸置いてうなずいた。
 プラットフォームから落下した際に頭を打って記憶を失ったのか、それともそれ以前から記憶がないのか。
 現に事故に遭いかけたように、目も見えないのでは、一人でここに居るのは危険すぎる。なぜ、彼女は一人でここにいるのか。
 それに、現実世界ではともかく、この仮想現実では誰でも正常な五感を与えられるはずだ。なぜ、あえて視覚を遮断し、不自由な脚などを再現しているのか。
 疑問はたくさんある。もしかしたら、周囲の人々が少女が現われた瞬間を見ているかもしれない、とリルは見回すが、危機が去ったあと、野次馬たちはすぐに散開したらしかった。彼女の目に今映るのは、人の流れを縫って歩み寄ってくる少年の姿だ。
「あのさあ……ステラ、ってどう?」
 横でルチルが言うのを聞いて、リルは視線をそちらにむける。一体誰に尋ねているのだろう、と彼女が見ると、赤毛の少女の目は車椅子の上に向けられていた。
 もっとも、言われたほうもよくわからない様子で、首をかしげている。
「だって、名前がないと不便じゃない。リルちゃん、どう思う?」
 急に話を振られて、リルは一瞬戸惑ったあと、うなずいた。
「いいんじゃない?」
 とはいえ、本人の意志が一番重要である。
「あなたは、どう思うの?」
 と、軽く手に触れる。
 すると、金髪の少女はほほ笑み、うなずいた。勝手につけられた名ではあるが、どうやら、当人は気に入ったらしい。
「あたしはルチル。じゃあ、よろしくね、ステラちゃん」
「あたしはリル。よろしく」
 自己紹介しながら、相手の手を握る。ステラは、少し嬉しそうに握り返した。
 少女たちがなごんでいる間に、遅れまいと駆け出した少年が近づいて来た。彼は勢いよく車椅子の前に滑り込むと、しっかとステラの華奢な手を握る。
「お嬢さん、一緒に花園の家で暮らしましょう!」
 クレオが目を輝かせて見つめる一方で、ステラがキョトンと目を丸くして、手のぬくもりに顔を向ける。
 その横で、ルチルが腕を組み、目の端を吊り上げた。
「ちょっとあんた……女の子相手なら、全員にそういう態度なの?」
「あたしにも、結婚してって言ってたわ」
 リルが追い討ちをかけると、少年は冷たい視線を向ける少女たちから素早く離れ、わざとらしい愛想笑いを浮かべたまま膝をつく。
「いや、あの……オレはただ、三人で仲良くできればいいなー、と……
「仲良く、ねえ」
 あきれたように言い、溜め息を吐くと、ルチルは表情を緩めた。怒ったところでどうしようもない、と判断したらしい。
 恐々としながら立ち上がるクレオに、リルがステラを紹介した。声や気配を覚えようとするかのように耳を澄ましていたステラは、自分の名が呼ばれると、にっこりとほほ笑んだ。
 その笑顔に見とれていた少年は、脇をルチルにつつかれ、背筋を伸ばす。
「オレはクレオ。これからよろしく」
 再び、少女の白い手を握る。前とは違い、少女も握り返す。
 それを見届けて、ルチルが空になったカップをもてあそびながら、口を開く。
「ねえ、それで、どうするの? セルサスに頼ってみる?」
 それは、当然の提案だった。車椅子の少女を連れてワールドを渡り歩くのは危険が大きい上、ステラがどこかで家族や友人とはぐれた可能性もある。
 しかし、今、セルサスと対話することはできない。
 そのことを知るリルとクレオは、顔を見合わせた。果たして、ルチルに事実を話すべきかどうか。
「どうしたの、いきなり見合っちゃって」
 二人の、見るからに怪しい様子に、赤毛の少女は疑いの目を向ける。
 こうなったら、言い逃れをするのも返ってわざとらしい。そう覚悟を決めて、クレオが話を切り出した。
「あの……実はね、ルチルちゃん……セルサスは、今いないんだ」
「へ?」
 反射的に声を出しながら、ルチルは、何を言われたのか理解できない様子で動きを止め、ただ丸い目を向けている。
 このネットワーク〈レチクル〉を管理する管理システムが『いない』とは、普通ではあり得ない。
 彼女に、クレオは手短に事情を説明した。ギルサーの酒場でリルに伝えたことと、彼らが目指す先を。
 やがて、ようやくことばをすべて飲み込むと、ルチルは鬱憤を晴らすかのように大声を出す。
「それって本当なのっ?」
「シーッ」
 周囲の人々が顔を向けるのに気づき、クレオが人さし指を立てた。
「このことがバレると、パニックが起きるかもしれないから……何とか友だちを助けてから、セルサスが復帰すればいいんだけど」
「でも、こうしてあたしたちがいるってことは、システム自体は無事なんだよね。何とか管理局の連中が直してくれるまで、待ったほうがいいんじゃない?」
「でも、やっぱり友だちが困ってたら助けたいと思わない?」
 真摯な目で、少年は問い返す。まっ直ぐ向けられたその目を見ると、ルチルも彼を止める気は失せたらしい。
 彼女は背中を向け、頭の後ろで手を組み、もったいぶった調子で口を開く。
「あー、退屈だな。あたしも一緒に行こっかなー」
 それはもう、是非――とクレオが答えるものだと、少女たちは思っていた。しかし、意外にも、少年が返したことばは静かなものだ。
「オレたちが行く先は、危険かもしれないよ。セルサスとの交信が全面的に停止するなんて、今までなかったことなんだから」
 その横顔は、今までと同一人物とは思えないほど落ち着いていて、大人びいて見えた。瞳に輝く、今まで見たことのない光。少年の横顔に、リルははっと目を見開く。
 ルチルが、やはり驚いたように振り返る。目の前のいつもの光景からはうかがい知れない、状況の異常さを思い出したように。
 肩越しにクレオの真剣な視線を受け止めていた彼女は、やがて、日に焼けた顔に笑みを浮かべる。
「それでも行くよ。キミ一人に女の子たちを任せておけないしねえ」
「そ、そんなあ」
 真剣な表情はどこへやら、クレオの顔は一瞬にして情けないものに変わる。
 二人のやり取りを眺めて溜め息を洩らしているリルの袖が、軽く引っ張られた。それに気づいて見下ろす銀髪の少女の目に、見上げるステラの笑顔が映る。
「ステラ?」
 膝を折って目線を合わせると、その様子が見えていないはずの少女は、視線は真っ直ぐ前に向けたまま、右手の人さし指である方向をさし示す。
 そこには、スライド式のドアがあった。別世界への出入口となるゲートのうちの一つだ。
……あなたも、一緒に行きたいの?」
 なぜ、正確な方向がわかるのだろう――と思いながらの問いかけに対する答は、即座に返された。少女は、大きくうなずいて見せる。
 足手まとい、とは、誰も言わなかった。ステラがレイフォード・ワールドで遊んだ経験があるのか、どれだけ戦力になるのかもわからないが、彼女の笑顔には、そんな疑問を持つのが相応しくないような雰囲気があった。
 それに、三人に彼女を守れるだけの自信があったというのも、彼女の同行を拒否しないひとつの理由である。
「あたし、レイフォードでもレベル二〇あるよ。もう少しの間、よろしくぅ」
 一人一人と握手しながら、赤毛の少女は明るく笑う。
 それを見て、手に残る温もりを確かめながら、少年はにやけた笑いを浮かべていた。
 レイフォード・ワールドは、典型的な剣と魔法のファンタジー世界を元にしたワールドである。剣士や魔術師、その上位のクラスの技能を有効活用し、仲間を見つけてパーティーを組みながら冒険をするのが基本的な遊び方だ。
「よし……この感触、いつも通りだな」
 剣士の上位クラスの一つ〈ソードマスター〉が扱える細長い剣を鞘から抜き、握り心地を確かめながら、クレオはほっと息を吐いた。

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