#DOWN
終結 ―遠い〈記憶〉の彼方―(9)
「しゃあねえな」
野球帽の男が、ズボンのポケットに突っ込んでいた両手を出す。
彼に何かさせては駄目だ。スコープを覗いて狙いをつけていたルチルは、心の深いところからそんなささやき声が聞こえた気がした。長年培ってきた自分のカンに応えて、人さし指に力が込められる。
しかし、トリガーが完全に引かれる前に、彼女は壁に向かって弾き飛ばされた。何の予兆も、脈絡もなく。
「いたぁっ!」
椅子の上に落下して、少女は声を上げる。肘を背もたれで打ち、レイガンが床に転がった。
「ルチル!」
クレオが駆け寄ろうと足を出し、ぴたりと動きを止める。
「動くな」
初めて、サングラスの男が口を開く。
クレオには見える。自分の首に、細い糸のようなものが張られているのを。それは光を受けて銀に輝き、嫌でも刃の輝きを思わせる。
世界に直接干渉できる、ハッカーの力。
何か行動を起こそうとした段階ですべては読まれ、止められる。武器を、相手に向けることすらできない。
圧倒的な差だった。クレオは唇を噛み、目で相手を倒そうというかのように、サングラスの男をにらみつける。
野球帽の男が肩をすくた。
「悪いが、これも仕事なんでな。さよらなだ、救世主さま」
「いなくなるのは、あなたたちですよ」
シータが、見えない何かをつかんで捨てるような仕草をする。剣を手に固まっていた少年が、銀の糸が消えていることに気づく。
二人のクラッカーが、それだけのことで相手の実力に気づき、だらしなく口を開く。
クレアトールというハッカーの名を、彼らも知っていたに違いない。それが金髪の少年だと、知ってはいなかっただろうが。
「しばらく、遠くで頭を冷やしなさい。さようなら」
シータが言うなり、二人の男たちは消えた。
余りのあっけなさに、クレオは、消えた男たちが最後に浮かべていた表情と同じように口を半開きにして、振り返る。
シータは、まだ油断はできないと言いたげに、小さく首を振った。
そして、彼は、そこに何かが存在するのを感じ取った様子で、中央の柱に顔を向ける。
柱の影から、三人の男が現われた。
一人は、法衣を身につけた、白髪の老人だ。その両脇を、兄弟なのか、顔のよく似た黒髪の青年たちがかためる。
「映像で見たことある」
ルチルが床に転がるレイガンを拾い上げ、足を引きずるようにして、クレオのそばまで歩いていく。
「ネファース……かつてプログラマーだった男よ。数年前に一度逮捕されたけど、釈放された」
「それが、〈賢者〉さまの正体か」
クレオは、迷いなく相手に剣先を向けた。賢者さまに祝福された聖剣、というふれ込みの剣を。
啓昇党にいた頃も、彼は、賢者の顔を見たことはない。常にその姿はベールに包まれ、神秘的な存在として崇拝されていた。
少年は、ベールの向こうからのその男の優しいことばに、何度も疑問と、信じるべきだ、そうしたほうが楽だ、という葛藤を抱いてきた。
それも、今は微塵も感じない。迷うことなど何もない、相手は、聖者の皮を被ったただの偽善者だ。
「クレオ……残念だよ。英雄たるべきキミが、悪の甘言に惑わされるとは」
ネファースが、優しく声をかける。慈悲深い、哀しげな目を向けて。
「うるさい! あんたがしたいのは、結局自分たちの思い通りの世界を創ることじゃないか。それに手を貸すようなヤツを、英雄なんて言わない!」
「人は、何かを決断するときも、必ず別のものの影響を受ける。わたしは、人々に平和でわずらわしいもののない世界を提供しようというのだよ。もっとも大切な、進化のための思索に集中できる世界だ」
子をさとすかのような、穏やかな声。
彼はその口調と仕草の端々から、誰も傷つけないように見える、奇妙なカリスマ性を漂わせる。
「人は、進化のために存在してるわけじゃない。あなたが言ってるのは、結局あなたの意志だけが反映された世界よ」
リルが、灰色の目を細める。ネファースはそちらに優しい目を向けた。
「人々が充分に成長するまで、見守ろうというだけだよ。時が来れば、世界を人々に還そう」
「あんたが、人々の成長を見極める? あんたの判断が正しいって、誰が判断できるって言うんだ!」
哀れむように、賢者は自分の元部下の少年を見た。
「クレオ、目を覚ますんだ。キミがわたしに剣を向けているのを見て、ご両親も悲しんでおられるよ」
ことばを向けられた少年は、まるで、全身に電撃が走ったような気がした。
ここで動けば、教会に残っている両親が殺される。彼には、ネファースのことばの真の意味が、直接脳に叩き込まれたように理解できた。
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