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四、終結 ―遠い〈記憶〉の彼方― (5)


「我々はすでに、レベル3までの機能を手にしたよ。ここから先は、ガードが激しくてね……この、殿堂入りのペリタス兄弟の腕をもってしても、パスワードを解くのに時間がかかる。こんなことなら、セルサスのパーソナリティを生かしておくんだったな」
 たしなめるように言い、賢者は背中を向けた。
 もう、誰も彼らを止められないのか。
 一抹の悔しさを感じながら、クレオはシータに目をやる。もう、クレアトールの力に頼るしかない。
 幸い、もう一人の少年には、あきらめた様子はない。
「強力なファイヤーウォール……局所的とはいえ、セルサスの機能の一部です。普通なら強行突破は不可能ですが、力押しで行くしかありません」
「力押し……?」
「知ってます? 人の意識の容量は、ワールドひとつ分よりずっと大きいんですよ」
 ほほ笑みを浮かべて振り返り、シータはきき返した。
 彼の言いたいことに、すぐに気づいた者はいない。クレオにルチル、リルまでが、不思議そうにシータを見る。
 そして、ほかの皆がことばの意味に気づいたときには、彼は動いていた。
 シータが、柱に近づく三人に向かって走る。背後の異変に気づき、賢者たちは顔色を変えて振り返った。
 防壁に、手が届く――その寸前で、シータの動きが止まる。
 自ら足を止めたのではない。止めさせられて、彼は愕然と顔を上げる。
「早まるな、若いの」
 突然、聞き覚えのある声がかけられた。
 シータのそばに見える景色がぐにゃりと歪み、男の姿を浮き上がらせる。浅黒い肌の、作業服を着た、黒目黒髪の三〇代半ばくらいの男だ。
 姿は初めて見るが、少年たちは、その正体を知っていた。
「読唇者!」
 殿堂入り十人のうちの一人である男の名を、ルチルが呼んだ。
「読唇者か……
 賢者の左右に立つ兄弟も、油断ならない相手の登場に、表情を引き締める。
 だが、彼らが守るべき賢者ネファースが余裕の笑みを崩すことはない。
 賢者の余裕は、当然だ。彼らには、セルサスの力があるのだから。
「まあ、確かにこの場では、キミの言う方法しかなさそうではあるがな。それは、大人がやることだ」
「そんな、わたしは」
 目を見開くシータの前で、読唇者が苦笑する。
「後は頼む」
 言って、彼は賢者のほうへ向き直った。
 しかし――
 新たに現われた男が踏み出す前に、半透明な膜が両端の壁と床から天井までの間に広がり、侵入しようと試みる者たちを押し出すようにして弾き飛ばした。
 衝撃を受け、読唇者とシータが転がる。目の前まで膜が迫ったところで難を逃れたクレオは、尻餅をついた。
「壁は動かせないわけでも、一枚しか出せないわけでもないんだぜ」
 クラッカーの兄の方が、クレオたちを見下ろし、嘲笑する。
 膜の表面に弾かれただけなので、意識体の情報に影響があるほどではないが、シータと読唇者はかなりのダメージを受けたようだった。
「打つ手なし、ですか……
 シータが、血を吐きながら膝をつく。
 手も足も出ない。頼みの綱のハッカーたちも、一部とはいえ、賢者たちが手に入れたセルサスの力には通用しない。
 あきらめるしかないのか?
 床に手をつき、クレオは自問自答する。こうして考えている間にも、もう、すべてが終わってしまうかもしれない。世界が賢者の手に渡る瞬間が、確実に近づいているのかもしれない。
 ほとんど、無意識のうちに立ち上がろうと上体を起こした拍子に、ジャケットのポケットから、白い羽根が落ちた。
 床に舞い落ちていく羽根を目にして、クレオは剣の切っ先を上げる。
 自分で選んだ道だ。初めて、流れに逆らって決めたことだ。
 このままで満足してはいけない。
 作られた英雄ではなく、自分が、自分を勇敢だと認めるために。
……だあああぁっ!」
 理屈ではなく、本能で、彼は駆けた。不可視のファイヤーウォールに阻まれ、命を落とすかもしれないとわかっていても。
 援護しようと、後ろからルチルがレイガンのトリガーを引く。だが、発射された光線は宙で捻じ曲がり、壁に当たって焦げ目をつける。
「無茶なことを」
 あきれながら、賢者たちは、迫ってくる少年を注視していた。
 あと少しで、少年が見えない壁に触れる。
 そう思われた途端に、クラッカーの兄弟が消えた。
「ああ……?」
 よろめきながら、少年は立ち止まる。すでに、壁がある位置に達したはずだ。それなのに、何の衝撃も感じない。
 彼は顔を上げた。ネファースの顔が、思ったより高い位置にある。
 賢者が、顔を天井に向け、数十センチほど浮いていた。
 茫然と、声もなく見守る一同の前で、どさりと法衣姿が落ち、ズルズルと引きずられるように柱の向こうに移動していく。
 何が起こったのかわからない。クレオはただ、陰に消えていく足を見送るだけだ。
 最初に動いたのは、リルと、ステラだった。
「そこにいるのは誰?」
 リルは、柱の向こうに走った。
 その横で、ステラは柱に設置されている、蓋の開いたままのパネルに触れながら、視線で銀の妖精を追う。
 一拍遅れて、残された者たちが駆け寄った。
「リルちゃん、危なっ……
 柱を回り込むと、障害物が消えた視界に、異様な光景が映る。
 吊り上げられたように、賢者の身体が浮かんでいた。
 手足も首もだらりと力を失い、目は、白目をむいている。口の端からはよだれがたれ、顔は、昔のマネキンのように白かった。
 その光景の中でも、目を引くもの。それは、首に巻きつく黒いヘビだ。
「感謝するぜ、坊や。こいつらの気をそらしてくれてよ」
 声に続いて、ヘビがスルスルと床まで降りて形を変え、ネファースのとなりに黒尽くめの青年として現われる。黒い三角帽子と、仮面のように白い顔も変わりない。
 カロアン、それにレイフォード・ワールドのアガクの塔、最上階で、リルたちは、その声の主の正体を知っている。クレオにとっては、キダムという吟遊詩人だ。
「坊やには紹介がまだだったな。オレはサーペンス・アスパーってんだ」
「サーペンス……
 クラッカーとして人々の間でも有名なその名は、クレオの脳裏にも刻まれていた。
 性質の悪い、腕はいいし頭もいいがよく問題を起こすクラッカー――というのが、彼がサーペンスに抱くイメージだ。
 黒いルージュを引いた口の端を吊り上げ、独特な笑みを浮かべた男は、軽く手を振る。
「こいつはもういらない」
 面倒臭そうなことばに、即座に反応があった。
 すでに意識を失っていたらしいネファースが、なんの予兆もなく消えた。サーペンスに消されたことは、考えるまでもない。
 命が、あっさりと消されていく。まるで単なるデータのように。

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