私は実験心理学という学問を専門としていて,これは科学的な心理学,と標榜しています.でこの「科学」という概念は西洋合理主義の申し子である訳で,したがってその心理学の「科学性」を考える上で西洋合理主義というのは重要なわけです.そんなわけで西洋合理主義を生み出したこの本を手にしました.
デカルトは17世紀の人間で,そのころの一般的な高等教育を受けていました.例えばスコラ哲学です.このスコラ哲学というのはかなり世俗とかけ離れた学問であったようで,聞いた話では「針の上で天使は何人踊ることが出来るか?」といった問題を延々論じていたという話です.
一方17世紀と言う時代は,幾何学が発達しつつあり,またその応用である光学も発達してきました.
そんな中でデカルトは両方を学びつつ成長してきたわけです.そこで彼は幾何学や光学について幾つかの重要な発見をすることになるのですが,その時用いた方法をさらに幅広く様々な問題に応用できないかと考えました.この目論見には,当時のそのスコラ哲学が浮き世離れした事柄のみを問題にし,この現実を観察することを放棄していることへの批判があったようです.
そこで自分の方法論を自省した結果出来たのがこの『方法序説』です.そしてそもそもの目的から,この本は西洋合理主義の祖と呼ばれるのです.
まずデカルトは,世界を理解するための方法として幾つかの規則を決めました.ただし,これは自分の場合に有効であったというだけで,読者に無条件で薦めるものではない,と言うようなことも同時に述べています(これは以下の1に相当する態度なわけですね).
しかしながら,これらの教訓を日常でも忠実に守っていたらば生活が出来なくなってしまいます.そのためにデカルトは,日常を生活するための当座の3つの格律を提案しています.
以上の教訓と格律を元に,まず事を進める原点を探し出さなければなりません.教訓の1で述べたように,明らかに真であると認めたものだけを受け入れるわけですので,最初に少なくとも一つは明らかに真であるものがなければ,話を進めることは出来ませんから.
そこで彼はありとあらゆることを疑います.しかしながらその疑っている自分自身の存在はどうやっても疑うことは出来ません.ここに至って彼は,あの有名な「我思う,故に我あり」に到達するのです.そのようなわけで,自分という存在がいる,と言うことだけはまず真として認めざるを得ないわけです.
次にもう一つのものを受け入れます.それは自分の中に神がいるということです.これは現代の人間にとっては「理性」とか「論理性」とか言った方が分かりやすいものなのだろうと思います.
以上から,「この私のこの理性」と言う部分を原点として,思考を組み立てていこう,と言う結論と相成るわけです.
しかしながらこの最後の部分は現代ではなかなか受け入れられない部分でしょう.神云々ではなくて,人間は理性的な論理的なものだという部分のことです.いわゆるポスト構造主義な人達にさんざん批判されている部分ですから.しかしながらこれについて述べると話がまとまらないんで触れません.
その代わりにここで重視したいのは「日常生活のための格律」です.これの一番目,「極端からもっとも遠い意見に従」うというものは,アリストテレスが『トピカ』にて述べている「エンドクサ」(通念)に通ずるものでしょう.
実は西洋合理主義のポイントというのはこれにあるのではないかと思うのです.少なくとも日本で西洋合理主義というと,デカルトがこの本で述べている「全てのものを疑う」態度が強調されがちです.しかしアリストテレスの昔からの西洋の思想のバックボーンである「判断できないものは常識に従う」も,もうちょっと重視されてもよいのではないでしょうか.
これは昨今の疑似科学の隆盛を見て思うのです.疑似科学な人は自分が判断出来ないような事柄を疑ってかかって,奇矯な結論を導き出していますから.