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20XX年 8月30日
赤い満月
 今日は満月だった。大気の濃度か何かの関係か、まるで物語りに出てくるような赤い満月だった。オレンジの濃い色ではなく、ピンク系の赤とでもいうか。初めてこんな赤い満月を見たけど、どこか非現実的な感じだな……大昔に満月に狼男が変身すると信じられたのも納得できるとか、馬鹿なことを考える。
 建物の間からのぞく月を見上げながら、わたしは家に戻る。この時間では店はすべて閉まっており、人通りも少ない。こんな時間に散歩に出るのはわたしくらいだろう。わたしは、どこかゴーストタウンを感じさせるような、夜中の静かな街並みが好きだ。霧が出ているような日は、さらにいい。神秘的な雰囲気が増幅されるから。今日は霧はないものの、赤い満月はわたしの想像力をかきたてる条件としてはおあつらえ向きだ。
 生ぬるい空気のなかを、あてもなくブラブラと歩く。遠くから唸りのような声が聞こえた。獣のようだが、都会とは言えないにせよ、山が近くにあるわけではない。酔っ払いの唸りか? なんだか生々しい嫌な想像を、首を振って追い払う。
 唸りは、しばらく続いていた。家に戻ってからも、かすかに聞こえる。聞けば聞くほど、獣の鳴き声に思えてならなかった。
 野良犬か、遠くの山から下りてきた獣か? 狼が住んでいるというような話は聞いてことがないが。
 明日になれば、何かわかるかもしれない。そう、わたしは明日は何か楽しいことがあるかもしれないと思いながらベッドに入る。
 いつも通り、その期待は裏切られると知りながら……。


20XX年 9月8日
子猫
 今日は休日だった。別にすることも無いので、街に出て商店街や駅の辺りをブラブラしていた。本屋で立ち読みしたり、昼はコンビニでパンとジュースを買って公園で食べたり。天気がよく、噴水の水と木々の緑がさわやかな雰囲気を作っていた。
 でも、そのままさわやかな気分で帰ることはできなかった。
 帰り道、車が猛スピードで行き交う車道の隅に、ふさふさしたものが転がっていた。子猫の死体だった。元は白い毛並みだったのだろうが、汚れて灰色に染まっている。
 猫の死体を見るのは、初めてじゃない。飼っていた猫が死んだこともあった。あの、意思の無い身体独特の重量感が嫌いだ。転がそうとすると、まるで石のようにごろんと転がるだろう。眠っていたって、生きているときは運動の方向に転がろうとするから、反動もない。死ねば、猫だけじゃない、人間だって『モノ』に過ぎないのか……。
 子猫のそばを、意に介さず、車が駆け抜けていく。
 誰も、猫のことなんて気にかけていない。
 あの猫を抱きしめたい。抱き上げて、どこか静かなところに埋めて、墓を作りたい。でも、わたしにはそうする勇気が、行動力がない。
 もし、そうすることができる人がいれば、その人は強い人だろう。
 わたしは、歩道から横目で子猫の死体を見ながら、通り過ぎようとする。
 もう考えなければ楽だろうと知っている。しかし、考えてしまう。そうしてしまう性質なのだ。
 強い人になりたくない?
 他人の目が気になるのか。いや、そんなことを気にする性格じゃないはずだ。それに、ここは他人の目が多いというわけでもないのに。
 奇人変人と思われるのはむしろ本望のはずだろ。
 ここで無視して、そうやって自分に失望しながら生きていくつもりか?
 わたしは、立ち止まって引き返した。老人がこちらに向かってくるのが見えたが、気にしなかった。

 その後、わたしが味わったのは、一種の満足感。
 服は汚れたし、道行く人には変な目で見られたし、物理的・社会的には損をしただけかもしれないけど。
 それでいいじゃないか。


20XX年 11月2日
初雪
 冬が来る。北国の冬は早い。
 年々早くなっている気がするけれど、今年は天候のため、こちらは遅いようだ。雪が降ってしまえば雪かきをしなければいけないし、非常にうっとうしいのに……この時期になると初雪が待ち遠しいのはなぜだろう。
 コタツに入って、ザルに入ったみかんをひとつとって剥き、そばで丸くなっている猫をなでながら、冷たい風が吹く窓の外を見る。ほとんど裸になった桜の木が、申し訳程度に葉をつけた枝を揺らす。
 もう数日中にも、窓の外は白に染まるだろう。芝生も、家々の屋根も、道路も。
 端に雪の積もった歩道を思い出す。街の灯も消えた深夜、しんしんと降る雪の中、別の道に分かれゆく友人たち。皆、元気だろうか。
 今年もまた、冬が来る。
 動物たちも巣に帰り、植物も風に耐えるのみの、長い冬が。
 この休息の時はチャンスでもある。わたしは夏への扉を模索しよう。心を暖め、いずれ広い世界に飛び立てるように。


20XX年 11月24日
妖精
 日本には古来より、万物に霊が宿るという信仰があったという。
 大切に使っている物には使用者の思いが宿り、匠が創りあげた芸術には製作者である匠の想いが宿る。あるものには、それに宿る神が、先祖の霊が。
 しかし、今は使い捨ての時代。使い捨てだって、それに関わる人は真剣に作ったり、検査したり、売ったりしているだろう。でも、ただお金を出してそれを買う人たちのなかには、そのことを考えない人たちもいる。ほとんど食べていないパンを、コンビニのゴミ箱に捨てて行く人たち。なんて幸福な、裕福な人たちか。
 ご飯を食べている時に、この一杯でケニアの恵まれない子どもたちをどれだけ養えるか、とか……そうまでいかなくても、パンを買うお金を稼ぐのに誰がどれだけ苦労したかとか、植物の小麦やパンに挟んであるレタスや肉の素材である動物のことなんて、いちいち考えない。でも、それが事実だってことを、知っているべきだと思う。
 高校生らしい男の子たちが散らかしていったビニール袋を拾ってゴミ箱に入れ、わたしはコンビニに目をやった。
 日本だけじゃない。ギリシア神話では、木や水にニンフという妖精が宿るとされている。説明できないことを神や妖精、悪魔などの仕業にして安心した……というのもあるが、そこには妖精や神に見立てた自然への感謝があった。他の命を奪い、生きることができることへの感謝と懺悔が。
 物が溢れて、手に入れるのに苦労がなくなって、だからありがたみがなくなったんだろうか。
 わたしはコンビニで、パンと牛乳を買った。たった179円だった。
 妖精とヒトの、179円だけの仕事。
 それでもそれは、わたしの血肉となり、骨となり、わたしの生命を維持してくれた。


20XX年 12月21日
見舞い
 わたしは、久々に隣町で買い物をした。必要なものをすべて買い終えると、汽車を待って駅の椅子に座り、熱い缶コーヒーで暖を取る。雪はそれほどではないが、外は冷たい風が吹すさんでいる。震える手に、缶の温かさが心地よい。
 もう少し暖まったら、駅の前にあるポストに手紙を入れにいこう。
 バッグから手紙を取り出し、そのあて先を眺める。
 そこに書かれているのは、離れた所に住んでいる友人の住所と名前だ。同じ学校に通っていた友人。図書館で知り合い、趣味や話も合った、初めての親友と呼べる相手。
 彼女は、今、その住所にある家にはいない。
 三ヶ月前、彼女は事故にあった。一命は取り留めたものの、今も入院中だった。手紙の封筒にはさらに彼女宛の封筒と、彼女の家族に当てた、彼女に届けて欲しいというメモが入っている。彼女が入院している病院は知らない。聞こうともしなかった。
 行こうと思えば、見舞いに行ける距離だ。なのに行かないなんて、冷たいと思うだろうか。
 病人や怪我人は、体力の無い時に見舞いにきた人の相手をするのは疲れると思う、というのを何度か聞いたが、彼女の場合、手術はとっくに終わって、病気でもないので体力が落ちているということも無く、むしろ退屈をしているだろう。だから、面倒をかけないため、というのが理由ではなかった。
 彼女は、誇り高く、自分の涙を見せるのが嫌いな人だ。だから、手紙で済ませる。自分の傷ついた姿を見られたくないだろうから。
 自分も同じ立場になったらそう思うだろうからわかる。
 わたしは立ち上がり、駅を出てポストに向かった。


20XX年 12月31日
自己満足
 わたしは退屈しのぎに、ゲームセンターでUFOキャッチャーをやっていた。100円で2回なので、よほど余裕があるときでないとできない。ふと立ち寄ってしまい、買うはずだった夕飯のおかずが買えずにコンビニのパンで済ませたことも多い。
 このゲームは結構得意で、昔は後ろに人だかりができるくらいだった。今はたまに取れたらラッキー、程度の思いでやるくらいだ。
 しかし、今日は少し違っていた。
 わたしは今日の戦利品、5つのぬいぐるみを袋に入れると、ゲーセンを出る。すでに外は暗くなり始めていて、日中以上に冷え込みが激しくなる。できるだけ寒くないうちに、しかしできるだけ暗くなってから実行したい。今日こそ、かねてからやってみたかったことを実現させるのだ。
 今まで取ったぬいぐるみが入った袋を抱えて、わたしは裏通りに入った。
 目的の場所が見えてくると、それからしばらく電柱の周りをうろうろして時間を潰す。寒くてじっとしていられない。この辺りは住宅街で、冬ともなれば、ほとんど人通りはない。怪しい人だと思われることもないだろう。
 北国の冬は、日が落ちるのが早い。大して待つことなく、辺りは真っ暗になった。
 周囲の家々の窓から光が洩れる。その光に照らされないよう気をつけながら、わたしはある建物の裏に回り込み、そっと裏口に近づいた。となりの家から見られないよう、身を低くしてドアの前の階段の上に袋を差し出す。近づいたとき、窓の奥からくぐもった、子どもの声が聞こえた気がした。
 用事を済ますと、素早く建物の隙間から抜け出し、裏通りを出る。ほっと息をつくと、真っ白い煙のようなものが立ち昇った。
 あの建物にいるのは、理由があって両親と暮らせなくなった、あるいはもともと親の顔を知らない子どもたちだ。人数は21人と、調べてある。
 本当はクリスマスにやりたかったが、サンタクロースの訪問やそれを取材する地元の記者などがいては、こっそり訪問することはできない。それで、この大晦日に実行することにしたのだ。
 取るのが楽しいだけなので、家に放っておいた、安いぬいぐるみなんてもらって嬉しいのかどうかわからない。メッセージカードを入れたので落し物として処理されることは無いだろうが、捨てられるかもしれない。いや、捨てるに捨てられなければ、押し付けがましい偽善ということになるだろう。中途半端な、おせっかいな行為だ。
 単なる自己満足……それはわかっている。
 でも、やらずに後悔するよりやって後悔するほうがいい。何かをすることで、人を喜ばせる可能性と哀しませる可能性の両方が生まれる。しかし悪い結果を恐れていては喜ばせることもできないままだ。
 それも、しょせん自己満足の理論だけど。
 自分も満足できなければ、他人を満足させることもできない。


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