クグツガリ

とおりゃんせ 三

 昨日と打って変わっての曇り空の下で友人たちと朝の挨拶を交わしたあと、オカルト好きの少女は開口一番、
「ねえ知ってる? 今朝早くに、またあの橋で事故があったんだって」
 と少し楽しそうな様子で親友たちに伝えた。
「もう……不謹慎だよ、奈美」
「ごめんごめん。でもその人父さんの知り合いなんだけど、軽い怪我で済んだんだ。それで、その人も橋を渡ろうとしたときに女の子の声が聞こえたんだって」
「ラジオとかじゃなくって?」
 桐紗のことばに、奈美は首を振る。
「歌もラジオも流してなかったそうよ。まだみんな寝てる朝早くのことだしね。ねえねえ、今日またあの橋に」
 メガネの奥の目が輝くのを見ると、美佐子は皆まで聞かず、
「行きません」
 即答した。
 彼女の一番の親友はほんの少しだけつまらなそうに口を尖らせるが、すぐに別の友人たちを誘おうと思い直したらしい。同級生の中に、彼女と同じ趣味を持つ仲間が何人もいる。
 少女たちの会話は他愛のない日常の話に戻り、間もなく楽駕高校の校門をくぐる。天気が悪いため少し風が冷たいが、それでも多くの運動部の部員たちがグラウンドで朝の練習を行っていた。
 その中にはいつもの通り、見覚えのある姿がいくつかある。サッカー部の進藤竜樹に、いつも主に異性のギャラリーの視線を集めている大間颯太。
「あたし、先に行ってるね」
 テニス部も朝の練習がある日らしい。奈美は今思い出したように少し慌てて駆け出した。
「じゃあ、あとでねー」
 手を振り合って別れると、美佐子と桐紗が残される。周囲には登校中の同級生や部活の準備をする運動部員などもいるが、二人の存在を気にかけるものはいない。
 桐紗にきくなら今だ、と美佐子は決意した。できるだけ奈美が喜ぶようなオカルト話に関わる場所などには近付かないようにしているものの、こうも昨日今日と話を聞かされると多少は気になるものだ。
「ねえ、桐紗ちゃん……あの橋のことどう思う? ただの偶然、噂話とたまたま何かが女の子の声に聞こえたのが合っちゃっただけ、だといいんだけど」
「そうだねえ、あたしもあの橋については詳しくないし静見ちゃんも知らないようだし」
 桐紗は桐紗で、トオラセンの橋について気になっているようだ。
「誰か、この町の古い歴史とかにも詳しい人に話を聞けるといいんだけどね」
 そうだね、と返そうとして、美佐子は思いついた。
 ――いるじゃない、町の歴史に詳しい人。
 最も身近で見慣れた顔が目に浮かぶ。
……そうだ。お祖父ちゃんにきいてみればいいんだ」
 口に出すと、桐紗も口を開けて目を丸くした。
「ああ、全然気づかなかった。灯台下暗し、ってやつだねー!」
 彼女が笑い出したのにつられて美佐子も笑う。周囲の視線が集まるが、今まではできるだけ目立たないようにしていた彼女もまったく気にならなかった。
 笑いがおさまりかけた頃、フェンスの向こうから声が掛かる。
「仲いいな、二人とも」
 ジャージ姿の竜樹が顔を向けてた。朝の練習もほとんど終わり、着替えに行くところらしい。
「おはよう、竜樹くん。練習熱心だね」
「ああ。練習試合が近くてさ」
 そこでことばを切ると、彼は何か思いついたように改めて幼馴染みを見る。
「そうだ、良かったら応援に来てくれよ。明後日の放課後に運動公園のグラウンドでやるんだ。ちょっとでも応援多い方が気合入るしな」
 こうして竜樹が誘ってくるのは初めてのことだった。美佐子は少しの間驚いてどう返そうかと迷うが、彼女にとってはチャンスに違いない。
 竜樹も彼女の想いを知っているはずなので何か思うところがあったのかもしれない――そう思いながらうなずいた。
「うん、応援しに行くわ。その分頑張ってね」
「任せとけ」
 自信がある様子で胸を叩く幼馴染みに笑みを見せながらも、彼女の頭の中はほとんど、練習試合で大間先輩と近づけるかもしれない、そうでなくても普段は見られない彼の姿が見られるかもしれないという期待でいっぱいだった。
 となりの桐紗は少しつまらなそうに、美佐子と竜樹、そして離れたところに小さく見える大間の姿を見ている。
「じゃ、行きましょうか、桐紗ちゃん」
「そうだね」
 肩を並べてフェンスを離れて玄関に向かいながら、桐紗が口を開く。
「それにしても、美佐子ちゃんってああいうのが好みなんだ」
「大間先輩のこと?」
 少し戸惑いながら答える少女の頬が、薄っすらと赤く染まる。
「好みというか……憧れ、かな。きっと叶うことない想いだろうけれど、見ていると安心すると言うか……
「確かにちょっと癒し系っぽいけどねー」
「そうなのかな……それもあるけど、誰かに似てる気がするの。昔、よく遊んでもらったりした誰かに。誰なのかどうしても思い出せないのよね」
「へえ……近所のお兄さんとかかなあ。ま、幼い頃の記憶なんてけっこう忘れてるもんだからね。あたしもあんまり覚えていないし」
 靴を脱ぎながら、美佐子はもう一度思い出そうとしてみた。
 しかし結局、覚えている断片的な思い出を繰り返すだけでしかなかった。

 朝方空を覆っていた雲は吹き流され、少しずつ力を増した太陽に熱され始めたばかりの暖かな春風が、艶のある黒髪を揺らし白い頬を撫でていく。
 神代道場に通う者もこの平日昼間の時間帯には少なく、いたとしても休憩に入っている。家政婦の中川光江は台所で昼食の準備に追われ、居間の周囲にある姿は、縁側の紺の浴衣姿だけだ。
「ご主人、本当によろしいので?」
 浴衣姿の居候――静見は目も口も閉じたままだ。しかし、声は確かに、少しこもったような声音で響く。
 小さく身じろぎして、静見は姿なき声に応じる。
……何がだ」
「あの娘のことでさぁ。あっしは心配ですぜ? あんな得体の知れないモンと一つ屋根の下なんて、いつ寝首をかかれるとも限らねえ」
「向こうからすれば、儂らのほうが得体の知れないものであろうよ」
 響きに少し不満の混じる声に、静見は淡々と応じる。
「それに、儂は傀儡を狩るために傀儡狩りをやっているわけではない」
「そら、ご主人からすりゃ、そうでごぜェしょうよ」
 声はまだ少し不満げなものの、言っても無駄だと半分あきらめたような、あきれの色を含んでいる。
 不意に、近づく足音があった。
 静見は薄目を開け、廊下を歩いてくる相手を確かめる。
……これはこれは、久しい姿だな」
 光江ならやり過ごすところだが、現われたのは白髪の老人だ。上背はないが、歳の割に背筋は伸び、肌も健康的に日に焼けている。
 静見をこの家に連れてきたその人、神代大治だ。
「今、取りかかっていた書物の調査がひと通り終わってな。久々にお主と飯を食うのもいいだろう……ああ、光江さん、わしの分もこっちに頼むよ」
 奥から居間に顔を出した家政婦は、大治の姿に少し驚きながら返事をして、台所に戻っていく。
 間もなく居間の円卓に三人分の昼食が用意された。いつもは、平日に居間で昼食をとるのは光江と静見だけだ。
「今度の書物も、なかなか興味深い内容だったな。まあ、予想通り、楽しいとか言うよりはおぞましい内容だがの」
 器用に箸で魚の身をほぐしながら、大治は成果を語る。
「あら、おぞましいなんて。また怖そうなものを研究なさってますねえ。幽霊とか、妖怪の本なんですか?」
 光江は大治が調査する本について詳しい知識は持っていないが、相手が気持ちよく話すよう相槌を打つ聞き手としては熟練していた。静見が積極的に会話に参加することはないので、彼女が聞き役に回るのは自然なことだったが。
「ある……呪いというか、呪術の研究について記した文章だよ。その呪術は近くにいる者の負の感情を引き金に成立するから、一度種を撒いておけば、何もしなくても被害は増える。その被害がさらに恨みや悲しみを呼び、呪いは広がる……
「何かのウイルスみたいですねえ」
「そうだな。しかも、負の感情が強いほどそれは強力になり、記憶を重ねると進化する。厄介なものだねえ。時代によって形を変えるものでもあるし……
 傀儡はある呪術師の手によって作られた。そのことを、静見だけでなく大治もまた知っている。
 傀儡、という単語を抜いての傀儡にまつわる呪術の講義を聞き流しながら、静見は晴れた空に目を向けていた。
 それもまた、食事を終えると縁側に戻る。大治が卓に古そうな本を広げて読み始め、道場にはぽつぽつと師範や門下生の姿が増えてくる。
 ほぼ変わりなく毎日くりかえされる、この屋敷の営み。
 その営みを辿るように、いつも通り少女たちが帰ってくる。それを大治が迎えるのも、週に何度かはあることだ。
 ただ、孫娘が祖父に奇妙なことを尋ねるのはそうそうあることではない。
「お祖父ちゃん、聞きたいことがあるんだけど」
 自室で着替えた少女たちが改まって卓の向かえ側に座ると、大治も察したように資料を寄せて待ちかまえていた。
「ああ、答えられることなら何でも答えるよ。芸能界とお金の話以外なら」
「そんな話しないわよ」
 呆れたように苦笑してから、孫娘は考えをまとめるように少しの間黙る。
「えーと、そんなに大したことじゃないんだけど……北区にある小さな橋、何だったかしら」
「トオラセンの橋!」
 おそらく美佐子は正式名称を思い出そうとしていたのだろうが、桐紗が得意げに異名の方を口にする。
 それでも、どうやら大治には通じたらしい。
「あの橋のことか。しばらくあの橋で事故は起きてなかったんだが、最近また、けっこうあるみたいだねえ」
 当たり前のように言う祖父に、少々怖がりな美佐子は、聞かない方がいいのかもしれないと不安になった。
「やっぱり知ってるの、お祖父ちゃん」
「ああ、もちろんだとも」
 懐から葉巻を取り出し火をつけながら、少女たちに目を向ける。
「そうだねえ、順を追って話した方がいいか」
 古い記憶を呼び覚ましているのか、天井を眺めて一度煙を吐き出してから語り始めた。

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