桐紗が二人を案内した店は、駅前通りの中でも駅からだいぶ離れた位置に店をかまえる、小さなカフェだった。小奇麗だが狭い店内には、仕事帰りと見えるカウンター席に若い女が一人掛けているくらいだ。
四人がけのテーブルにつくと、慣れた調子で注文を告げる桐紗を前に、美佐子は転校生と静見が初対面のはずだということを思い出す。
「あ、あの……静見さん、こちらは今日、高校のわたしのクラスに転校してきた、矢内桐紗ちゃん」
静見は、チラリと桐紗に目を向けただけ。美佐子ももともと、彼に大した反応は期待していない。
「それで、桐紗ちゃん、こちらはうちに下宿していらっしゃる静見さん」
適当なことばが思いつかず、とりあえず当たり障りのない紹介に留める。美佐子自身も静見についての情報は紹介できるほど知っていない。
桐紗はじっと、向かいに座る相手を見つめたあと、小さく笑みを浮かべる。
「へえ……美佐子ちゃん家にいたんだ」
からかうような、いたずらを思いついた子どものような声色。
「え……二人とも、知り合い?」
とても接点があるようには思えない二人だ。美佐子は意外な反応に驚く。
「まあ、昨日ちょっとね」
桐紗が誤魔化すようににやにや笑う前で、静見は否定も肯定もせず、ぼうっと窓の外を眺めている。
「それより美佐子ちゃん、聞いた? あの変なのの正体とか」
それがまるで、同級生の恋愛話を噂しているかのような軽い調子だったので、美佐子は一瞬、相手が何を話題にしているのかわからなかった。
「あ……あの怪物のこと……? それなら、静見さんが『傀儡』だって……」
先ほど聞いた単語を口にする。
傀儡、という単語の意味は知っていた。操り人形のようなものだと理解している。だが、それがどう、あの化け物と結びつくのかは知りようがない。
「まあそんなとこ」
運ばれてきたオレンジジュースのストローに口をつけ、相変わらず気楽な調子で言う。
「あれは、ごく一部の人間にしか見えないんだ。見えない人間にも影響は与えるけど、大抵は、見える人間にとって危険なものだね。見える人間は、傀儡を操るヤツの邪魔をするかもしれないし」
「操る……?」
「そう。無意識にせよ意識的にせよ、必ず操ってるのがいる。傀儡は、憎いとか妬ましいとか怖いとか、そういう負の感情が大好物なんだ。それで、そういう感情の持ち主に操られ、もっとエサをもらおうとする」
店主が餅ぜんざい三人前を運んできた。桐紗が全員分を奢るつもりらしい。
「だから、美佐子ちゃんもあんまり怖がっちゃダメよ? それって、あいつらにとっていいことだからね。まあ、実際は怖がるなってのは無理かもしれないけど、普段はそうそう出会うものじゃないよ。今日は運が悪かったね」
普段はそうそう出会うものではない、今まで一度も出会ったことのないものに、二度も遭遇したのだ。桐紗の言うとおりなら、今日は美佐子にとって最悪の厄日だったと言えた。
しかし美佐子は素直に、明日からはもう大丈夫だ、とは思えなかった。二度あることは三度ある、と言うではないか。
不安もさめない様子の美佐子に、桐紗は笑顔を向ける。
「だいじょぶだって。傀儡がいるところには、必ず傀儡狩りがいる。ヤな感じの場所に近づかなければ、大抵のところじゃ掃除されてるよ」
「傀儡狩り……」
桐紗がそちらにからかうような視線を向けるのを見なくても、美佐子にはそれが誰のことなのかわかった。
傀儡を断ち切り、祓う力を持つ者。その力を美佐子もつい先ほど目にしている。
「まあ、だから安心していいわけよ」
言って、彼女は楽しそうに餅を口にする。
緊張がほぐれたからか、桐紗の様子に美佐子は急に甘いものが恋しい気分になって、目の前に置かれたままだったぜんざいに手をつける。となりの静見は、いつの間にか椀を空にしてすでに食後の茶をすすっている。
「ところで、桐紗ちゃんはどうしてあんなところに?」
木のスプーンで汁をすくいながら、何気なく気になっていたことをきいた。
桐紗はスプーンをくわえたまま、わずかに目を見開く。
「どうって……あたし、この付近に住んでてさ。いつも暇潰しに近くを散歩したり、こういうお店で時間潰したりしてるんだ」
彼女は何てことのない日常の一部といった風に答えた。
「ああ、それじゃあ、あの近くのアパートに住んで……」
駅前近くに住んでいる。一人暮らしをしている。
昼間聞いたことばを思い出し、それから想像を膨らませ、美佐子は納得した。
しかし、実際に桐紗の口から続いたことばの内容に彼女は耳を疑う。
「んーん、アパートじゃなくてホテルだよ。狭いところだけど、慣れれば寝泊りくらい平気でできるさ」
「え……それじゃあ、お金かかるんじゃ……」
「いや、そんな高いところじゃないよ。まあ、ちょっと汚いし、寝相の悪い人とか、いびきがうるさい人がすぐとなりに入ったりすると最悪だけどね」
ただ寝るためだけにあるような、狭くてプライバシーもないようなホテル。そういう忙しいビジネスマンを客に見込んだ小さなホテルがこの周辺にいくつかあると、美佐子は聞いていた。
その想像が正しいのかどうかはわからないが、彼女はほとんど反射的に身をのり出していた。
「そ、そんなとこダメよ桐紗ちゃん! 若い女の子ひとりで、そんな男の人も出入するようなところに寝泊りするなんて……!」
「いや、でも宿泊費とか安いし、それに」
「不健康だし危険過ぎるよ、ダメだったら!」
桐紗が初めてうろたえたような態度を見せるが、思い込みが激しい方なのか、美佐子はそれにも気がつかずに言い募る。
「そんなところに泊まるくらいなら、うちにきなよ。部屋は余ってるし、お祖父ちゃんは嫌とは言わないと思うし。いっつも、お祖父ちゃんが居候を連れてくるんだから」
今まさにその祖父の孫娘であるという血筋を行動で証明している最中なのだが、当人は気がつかない。
「はあ……泊めてくれるって言うなら、あたしとしてはありがたいけど……」
結局、押し切られるような形で、桐紗が美佐子の申し出を受け入れる。
「良かった。それじゃあ早速お祖父ちゃんにも言っておくわ」
弾んだ声で告げる美佐子のとなりで静見が小さく溜め息をついていたことに、彼女は気がつかなかった。
矢内桐紗が公立楽駕高等学校に転校してから、三日の時間が流れた。
桐紗はその日の午後、ホテルを引き払って神代家に移住した。もともと狭い室内で過ごしていただけあって、荷物は少ない。引越しも、大き目のバッグを持って歩いてくるだけのことだ。
ほかの居候の大部分も紹介されることはなく、ただ、道場で稽古に精を出す男たちと、美佐子と光江、縁側にいつもどおりの様子でいる静見が彼女を迎えただけだ。
「二年A組、矢内桐紗です。よろしくっ!」
玄関の戸を開けるなり元気良く声を張り上げた彼女に、武道家たちは礼儀正しく向き直り、
「押忍!」
と、声を合わせた。
それになぜか敬礼を返して、新たな居候は廊下で待つ美佐子に向き直る。
「それじゃ、今日からよろしく」
「こちらこそ」
満面の笑みで迎えて、美佐子は桐紗の手を引き、居間に向かう。
彼女はこのときが待ち遠しくて仕方がなかったのだ。人が大勢出入するこの家に今までいなかった、同年代の、それも同性の友人が来るのが。
「まあ、よくいらっしゃったわねえ、桐紗ちゃん」
居間に入ると、夕食の準備をしていた光江が立ち上がって迎える。
縁側には、特に何をするともなく静見が腰かけていた。チラリと少女たちを一瞥すると、あとは中庭の五分咲きの桜に焦点の合わない目を向けたまま。
「よろしくお願いします、光江さん」
「よろしくね。それと、家でも学校でも、美佐子ちゃんをよろしくね。静見ちゃんとも仲良くね」
「ええもちろん」
小さな子どもに言い聞かせるようなことばに破顔一笑したかと思うと、桐紗は音もなく静見の背後に回り、首に腕をかけた。
「よろしくね、し・ず・み・ちゃん」
静見は少し嫌そうに顔を逸らすと、「眠い」とひとこと言って少女の腕を外し、いつものように縁側に寝転がる。
美佐子には、今は静見がなぜ昼間寝ているのかわかっていた。夜、充分に眠れないからだろう。
そして、なぜ昼寝にしても自室ではなく縁側で眠るのか。それは、何かあればいつでも飛び出していける場所だから。
「またそんなところで寝て。風邪ひきますよー」
膝掛けを掛けてやりながら、思わず口もとに笑みがこぼれるのを感じる。顔を見下ろすと、相手はすでに寝息をたてていた。浅い眠りなのだろうがその寝顔は心地良さそうで、無邪気にも見える。
この得体の知れない青年が、美佐子は苦手ではなくなった。