威勢の良い声がうるさいほどに、道場とふすまを隔てたとなりの居間にまで響き渡る。神代道場では、毎朝繰り返される光景だ。
そして、神代美佐子が登校前に毎朝目にする光景だった。
「光江さん、おはようございます」
肩の下辺りまで流した髪を撫で付けながら卓のそばに座ると、白いエプロン姿が笑顔でことばを返してくれる。
「ああ、美佐子ちゃん。おはよう」
女手の足りないこの家に毎朝手伝いに来てくれる家政婦の新山光江は、美佐子にとって唯一の心安らぐ相手だった。両親を早くに亡くした彼女と現在ただ一人血のつながっている祖父は、早朝から夜遅くまで、趣味の古文書の研究や道場の門下生の相手にあけくれている。
神代家には居候も多いがほとんどは祖父の関係者で、美佐子と話が合いそうな相手はいない。
「そろそろ、高校は桜が見ごろになる頃よねえ。今年はお花見やるの?」
美佐子より一学年上に自身の子どもがいる光江は良く高校での日常や流行に合った話を振ってくれる。それが、女らしい会話の欠片もない家に住む美佐子にとってとてもありがたかった。
――お母さんが生きていたら、こんな風だったかな。
記憶にある『母の味』とは少し違った味付けの卵焼きを口にしながら、少女は笑顔でうなずく。
「来週の土曜日にやるみたいです。そのころには、うちの桜も満開になるかな」
純和風の神代家の建物は、道場と倉を含む家屋が中庭を囲むように配置されていた。四角い中庭には、松と梅のほか、毎年見事な花をつける桜の木がそびえている。
まだ蕾が多いと見える桜の木に目を向けたところで、美佐子は開け放たれたふすまの向こうの縁側に薄い紺色のものを見つけた。それもある意味、見慣れた日常の一部。
「あら、静見ちゃん、またあんなところで寝ちゃって……」
「あ、わたしが」
すでに朝食を食べ終えていた美佐子が腰を浮かしかけた光江を制し、端に畳んであった膝掛けを手に取って幅の広い縁側に出る。
浴衣姿の二〇歳前後ほどの青年が縁側に寝転んで、目を閉じていた。顔立ちは端正で女と言われれば信じてしまいそうな風貌だが、それがまた、寝そべった姿から受けるだらしない印象に拍車をかける。
この、神代家の居候の一人である男が、美佐子は余り好きではなかった。
常に眠たげで何を考えているのかわからない表情をしているし、ほかの居候にも言えることだが、実際、何を考えているのか何をしているのかもわからない。美佐子が静見について把握しているのは、昼間は縁側でだらだら過ごし、夜になるとたびたび出かけているらしい、ということくらいだ。
「……起きておるよ」
少女が歩み寄ると、静見は薄く目を開く。
その感情のない漆黒の目を直視すると吸い込まれそうな気分になるので、美佐子は慌てて視線をそらした。
「だったら中で寝たらどうですか。そんなところで寝ていたら、風邪をひきますよ」
少女のことばに、素直にひざ掛けを受け取りながら青年はかすかに苦笑したらしかった。
「もう充分暖かい季節だし、そうそう風邪などひくようなヤワではないよ。邪魔なようならどけるがね」
静見は、外見の割に年寄りめいた話し方をする。それもまた美佐子が彼を敬遠する理由のひとつだ。まるで祖父やその友人たちと話しているような気分になる。事実、祖父がどういう経緯でか知り合い、二年ほど前に家に連れて来た相手だった。
「あら、邪魔なことはないわよ。静見ちゃんがいてくれるから、わたしも安心できるってこともあるし」
光江は笑いながら、空になった食器を片付け始める。
美佐子は静見以外の居候たちも苦手だった。しかし彼らはほとんど居間に出てはこない。食事も毎食、光江が二階のそれぞれの部屋に運んでいく。
道場はいつも賑やかだが、美佐子のいない間は大抵の場合、居間周辺には光江と静見しかいないことになる。そのためか、光江は静見と親しげに接していた。
それが少女にとっては何か悔しい。母親を近所のお兄さんに取られたような気分なのだ。
それでも、決してそれを表情や態度に出すことはせず、笑顔で光江を振り向く。
「それじゃあ、行って来ます」
「行ってらっしゃい!」
元気な声に見送られて、縁側廊下を歩き玄関に向かう。玄関は道場の横手にある。
「姐さん、いってらっしゃい!」
「いってらっしゃいませ!」
ドスの利いた柔道家たちの声が、背中を押すくらいの圧力で掛けられる。
いつものことではあるが、姐さんはやめて欲しいな、と思いながらも、美佐子は負けないように声を張り上げ「行ってきます!」と返して家を出る。
通学先の公立楽駕高等学校は、神代家から徒歩で十分のところにあった。美佐子は友人の高木奈美と途中で待ち合わせ、コンビニで昼食用の弁当を買ってから一緒に校門をくぐる。
空は晴れ渡り暖かな日差しの中、校舎に出入する制服姿を横目に、練習熱心な運動部の生徒たちがグラウンドでランニングをしていた。
「みんな朝っぱらから熱心だね。ほら、憧れの大間先輩もいるよ」
「もー、奈美、何言ってんのよ」
眼鏡の奥にいたずらっぽい光をたたえてからかう友人に怒ってから、美佐子は慌てて見回し、誰かに聞かれていないか確かめる。幸い、近くに噂好きな同級生の姿はない。
いつもの、変わり映えのしない日常だった。友人たちと他愛のない会話を交わし、授業を受ける。まだ二年になって間もないので、進路についてもそれほど深刻に考える季節ではない。
しかし、美佐子が二年A組の自分の席に着いてしばらく後にホームルームが始まると、急にクラスはざわめき出す。
いつもの朝とは少し違う空気。原因は担任の加賀誠一の横に見覚えのない少女が立っていたことだ。
「見ての通りの転校生だ。今日から、このクラスでみんなと一緒に勉強することになる。仲良くするんだぞ」
黒縁メガネをかけた担任はまるで小学生に言い含めるような調子で言い、となりに立つ少女に声を掛ける。
少女は長い黒髪をポニーテールにしていた。身長は少し低めだが、美佐子は何となく、大人びいた印象を受ける。
「矢内桐紗です。よろしくお願いします」
そう言って頭を下げる仕草もやけにきびきびとして、慣れているように見えた。
「桐紗ちゃんさ、放課後、ヒマ?」
美佐子は今日、何度似たような質問を耳にしたかわからない。それも、男子に限らず女子もだった。
それを、転校生は何度も繰り返したような答で断る。
「あたし、放課後のほうが忙しくってさ。一人暮らしなんで、色々あんのよ」
部活の誘いもすべて断り、それでも彼女は上手くクラスに溶け込んでいるようだった。昼休みにもなると、転校生に興味津々の別のクラスの同級生たちまでが遠巻きに眺める。
いつもよりやたらに人の姿が多いので、素早く弁当を食べ終えると美佐子は廊下に逃げ出した。奈美と話でもしようかと考えていたものの、その奈美が桐紗の取り巻きの一部と化しているのを見つけ、溜め息を洩らす。
「神代」
突然、後ろから声をかけられた。
少し驚いて振り向くと、見慣れた少年が目を向けている。C組の、進藤竜樹だ。
「ああ、どうかしたの、進藤くん」
美佐子が気安くことばを交わせる数少ない男子である竜樹とは、小学校からの付き合いだ。家にも何度も行き来しているし、心の許せる相手でもある。
「それがさ……」
竜樹は、困ったように頭を掻きながら続けた。
「またメテオがいなくなったんだよ。お前ん家、行ってないか?」
「メテオって何? なんかの魔法?」
美佐子が口を開きかけたとき、今まで何度も耳にしてきた問いかけに、まだ耳慣れない声が続いた。
――そんなはずない、ここに彼女がいるわけない。
そう思いながら目を向けると、教室のドアの向こうから上半身をのり出した、笑顔の転校生と視線が合う。つい先ほどまで、脱出不可能と思われる人込みの中心にいたはずなのに。
美佐子の表情から転校生は疑問を読み取ったらしい。
「疲れたから逃げ出してきたんだ。ねえ、メテオって何?」
「メテオってのは、ウチで飼ってる黒猫なんだ」
美佐子に負けないほど驚きながら、興味津々の転校生に竜樹が説明する。
メテオという名前は、毎朝起床時間になると棚に登って竜樹の上に落下し、強制的に起こすことから名づけられたものだという。竜樹はそのたびに馬鹿にされているような気分になるというが、母親にはかなり気に入られている猫だ。
「いっつも、神代んちに遊びに行ってるんだよ。二年前、うちに迷い込んで来てからほとんど毎日だぜ」
彼の言う通り、美佐子はたびたび家の中庭でメテオを見かけた。天気の悪い日には来ないこともあるが、嵐の中、縁側の下で丸くなっていたのを見たこともある。
「へえ……よほど居心地いいんだねえ。それでも、一応帰ってくるの?」
「んまあ……いつの間にか出て行って、朝になると帰ってるんだよなあ」
毎朝の痛いスキンシップを思い出したのか、竜樹は少し嫌そうな顔をする。
さらに桐紗が口を開きかけたとき、戻るのを待ちわびていたらしい教室の中のクラスメイトから声がかかった。彼女は「じゃあ」と言い残し、席に戻っていく。転校生が周囲の興味から解放されるにはまだまだ時間が必要なようだった。
それを見送り、美佐子は幼馴染みを振り返る。
「わたし、今朝は見かけてないけど……帰ったら捜してみる。まあ、ちゃんと自分で帰ると思うけど」
「ああ。オレ今日部活だから、迎えにいけないしな。明日の朝帰ってなかったら行くかもしれないから、よろしく」
うん、と相手がうなずくのを見届けて、竜樹はC組の教室に戻っていく。
結局昼休みの間中、A組の教室は転校生に興味を持つ同級生たちであふれていた。