Day 16 終焉への旅立ち

 出て行った男は、扉の向こうに姿を消すと、すぐには戻ってこなかった。わずかに不安を面に出し、金髪の男が扉に向かっていく。
「何だってんだ、一体……!」
 ミュートの前、舞台の下にいる赤毛の男が扉を振り返り、舌打ちする。
 全員、ミュートを視界から外していた。もっとも注意すべきはティシアを運ぶロズたちのそばにいる男だが、彼も舞台袖から歩み出し、目を扉へ向けている。
 これほどのチャンスはもう訪れないだろう。
 決意して持ち上げた少女の左腕に、注意深く見ている者くらいしか気がつかないほどの、小さな光がまたたいた。
「な……!」
 いち早く異変に気がついた筋肉質な男が声を上げるが、すでに、反応が間に合わないほどにそれは進行していた。
 男たちが立つ床が弾け、土が生き物のように、急速に身体を這い上がる。あっと言う間に、赤茶けた土が彼らの全身を隠した。
 その異様な光景に、観客たちは静まり返る。くぐもった苦鳴とうごめく土に怯えながら、人質にされていた者が離れていく。
 土が、それに形作られた人型が、小さくなっていく。まるで、溶けていくかのように。
 異質な光景に息を飲みながら、人々は、それが舞台上の少女によって起こされたことを理解していた。黒目黒髪の少女は、油断なく辺りを見渡している。
『今のうちだ!』
 ルータの声が、止まっていた時間を動かした。オペラ歌手を見下ろし、我に返って、ロズたちは再びその身体を運び始める。すでに一抱えほどの土塊と化した調整者の男には、それを止める術も、意志ももはやない。
 終わったのか。
 疲労感を覚えながら、それでも集中を切らさず、ミュートは小さくなっていく土塊の数を数えた。
「2……3、4……
 端から順に数え、もう一度、数えなおす。
 1人足りない。
 その事実を心に刻んだ瞬間、全身の筋肉が緊張に張りつめた。
「ただでは終わらないかもしれんと思っていたが……ここまでとはな」
 暗がりから、大きな姿が歩み出る。
 鍛え抜かれた筋肉に固められた長躯に、肩に担いだ長大な剣。足音もたてずに劇場の端の階段を降りてくる身体捌きは、百獣の王を思わせる。
「まったく、期待以上だ」
 仲間を失ったというのに、その目は強く輝く。
 ミュートは、同じような目をした者と、何度か出会ったことがある。その目を輝かせる炎は、戦闘衝動だ。
「大人しく、帰ってもらいたいんですけどね。あなたには、自分より弱い者を虐殺するのなんて、似合わない気がします」
 警戒を解かないまま少女が口を開くと、男は苦笑する。
「オレもそう思うが、任務をこなさないわけにはいかないからな。……しかし、考えたな。土の中のバクテリアを使ったか」
 彼は、ミュートの攻撃方法に感嘆した。観客を巻き込まず、同時に複数の敵を攻撃するのに、誰もがその上に存在する土はおあつらえ向きだった。
「こんな環境でも、バクテリアは生き延びているんですよね。少し驚きました……まあ、どんな過酷な状況でも、生きていけるものは、生きていけるものです」
「人間も、か。しかし、それではオレたちは困るんでな」
 人の胴など一薙ぎで切断しそうな剣の先が、ミュートに向けられる。
 凶悪な輝きを頭の外に追い出し、すべてを記号で捉える戦闘用の思考に切り替えながら、ミュートは腰を落とした。
「私たちのほうは、排除されては困ります」
 左右の手の指の間に、小型ナイフを2本挟む。
 そのかまえを見た男の笑みが、さらに深くなる。
「オレはフリオン……それじゃあ、行くぞ!」
 強靭な筋力での跳躍。巨体が舞台上まで一気に躍り、体重とスピードをのせた刃が、頭上から足もとまで振り下ろされる。
 ミュートは床を蹴り、大きく間をとった。相手との大げさにも思えるほどの距離を、床を破壊してひびを走らせる衝撃波が駆けた。
 轟音に、破壊。先ほどの土の襲撃より、明らかな異変。
 観客席から悲鳴が上がり、舞台に近い席の者たちは、我先に扉の近くへ逃れた。だが、外にも男の仲間がいること、敵か味方かもわからない者たちが取り囲んでいることがわかっているので、外へ逃れるわけにもいかない。
 結局、観客たちはただ、舞台の上を見ているしかなかった。
 多くの視線を意に介さず、気がつくこともなく、小柄な少女が、大男に向かって突進する。
「ふっ!」
 息を吐きながら、ミュートは右手の刃を突き出す。
 小さなナイフの一撃など、厚い筋肉の前には蚊にさされた程度にしか感じないだろう。それを意識して、ナイフの先端に、ASで次元の揺らぎを作り出していた。そこが何かに触れると、途端に揺らぎは相手をつらぬき、振れを増幅させるのだ。
 すでに消耗しているミュートが、もっとも疲弊せずに維持できるASの使い方を考えた結果だった。
「頭のいいお嬢ちゃんだ」
 フリオンは笑って胸を反らし、ナイフを避ける。
 左右の手で連続して攻撃すると、少女は相手が攻撃動作に移る前に大きく間をとり、相手の体勢がわずかにでも反応に不利なものになった時点でまた仕掛ける、というのを繰り返した。
 だが、何度目か、攻撃を終えて身を引いたとたんに、足場の感触が変わる。
「AS使いは、そっちだけじゃないぜ」
 床を破ってあふれた土に足をとられ、体勢を崩すミュートの頭上に剣の刃が振り下ろされる。
 消耗が激し過ぎる――頭では理解しながらも、ミュートは、他に方法がない、ととっさに判断していた。
 巨大な力を、力で受け止める。ASを使い、両手から噴き出した不可視のエネルギーを、刃にぶつける。眺める者の目には、長大な刃を真剣白刃取りのように両手で挟んでいるように見えた。
 フリオンの怪力を受け止めるには、膨大なエネルギーが必要だ。急速な疲労を感じながら、ミュートは刃を少しずつ、押し返す。
 いつまで耐えられるだろうか。
 そんな思いが少女の脳裏をよぎったとき、一旦、フリオンは剣を引いて大きく離れる。
「ここまで俺の力に耐えるとはな……正直、驚いた。だが、ここで時間をかけている暇はない」
 剣を握りなおし、真っ直ぐに相手を見る。正眼のかまえ。
「次の一撃に、全力を込める」
 それが、強敵への礼儀だ、とでも言いたげに見えた。
 ミュートのほうは、戦いを楽しむどころではない。すでに、早く座り込んでしまいたいという衝動に襲われている。筋肉は悲鳴を上げ、冷汗が頬をつたった。
 次の一撃には、耐えられない。少しの間は防げても、やがては押し潰されるだろう。相手の一撃を受け止めながら何かを仕掛ける余裕はない。
 それでも、やらなければいけない。一呼吸の間に、脳がほぼ自動的に、可能な作戦を組み上げる。
 一歩後ろに下がり、土のむき出しになった床を目の前にして、彼女は袖口から、1本、手のひらに隠れるほどの極細ナイフを落とす。
「受け止めて見せますよ」
 声には、疲労も迷いもまったくない。
 大剣使いの男は、にやりと口の端を吊り上げることで答えて、少女へと突進した。
 あと一歩。あと一歩で、フリオンの足が土の中に突き立つナイフに触れる。ASで、次元の揺らぎをまとわせたナイフの柄に。
 視線をそちらに集中させず、視界の端にそれを捉えながら、時を待つ。
 しかし、彼女の中の静寂の世界を破ったのは、フリオンの上におきた異変ではなかった。
 バァン、と、扉が荒々しく開かれる音。暗いはずの外から眩しい光が差し込み、舞台の真ん中の2人にも降りそそぐ。
「きみは、害虫退治のほうが性に合っているのかい?」
 小ばかにしたような口調の声は、ミュートにも、フリオンにも聞き覚えのあるものだった。
 剣士は前へ向かっていた勢いをひと蹴りで殺し、後ろに跳んで大きく相手と距離をとってから、扉へと顔を向ける。ミュートも、同じく最上段を振り返った。
 光の中に、少しぼやけた輪郭が浮かんでいた。ただ、黒いフードに、黒いマントをつけていることだけは、一目でわかる。
「お前……!」
 フリオンが表情を変えた。剣を手にしたまま舞台の下へ飛び降り、勢いを殺さぬまま、怯える観客たちの集まりの間を駆け抜け、扉の外に全力疾走する。その間に、黒尽くめの姿は消えていた。
 調整者の興味は、完全に別のものに移っているようだが、また戻ってくる可能性もある。しばらく立ち尽くし、やがて、ミュートは観客席を歩いて進み、開かれたままの扉の外へと顔を出し、周囲をうかがった。
 そこには、調整者がいた形跡も、誰かが周囲を取り囲んでいるような様子も、何もなかった。

 道具は街の住人たちからかき集め、医療知識も豊富なルータの指示に従い、ティシアの傷の手当がされた。幸い毒は塗られておらず、急所も外れていたため、彼女は命を取り留める。
 しかし、3日が過ぎても意識は戻らず、ドレス姿のまま、洞穴の部屋のベッドで眠り続けていた。まるで、物語に登場する眠り姫のようだ。
「でも、どうしてわざわざ、ティシアさんを狙ったのかしら? 必ず殺すつもりでもなかったようだし……
 ベッドの脇に置いた椅子に座り、ラティアが思いついたように言った。
「希望をくじくため、だろうな」
 紙コップに入れた、半分の分量のインスタントラーメンで昼食をとっていたオーサー教授が、同じ部屋で目を覚ましている者の当然の義務のように答えた。
「やはり、誰もが注目している舞台上の歌手を狙うのが、観客全員への精神的ショックは大きい。それに、ピンポイントでこの街にやってきたこと自体、いつでも滅ぼせるんだぞ、という力の誇示にもなる」
「だから、街の人たちにも、街を移そうっていう人と、どこに行っても同じだって言う人がいますよね……
 当然、劇場での一件は、人々にも大きな影響を与えていた。希望を失い自暴自棄になる者や、洞穴に引きこもり、外へ出なくなった者もいる。
 そして、大きな影響は、もうひとつ。
「大丈夫なんでしょうかね……ミュートちゃん」
 人々のミュートを見る目は、明らかに変わっていた。
 攻撃的な態度を取る者はいない。ただ、できるだけ彼女に近づかないように振る舞い、その姿を見かけて、遠巻きに何かをささやき交わす者、怯えたように逃げていく者――異質な襲撃者と渡り合った少女もまた、異質な者とみなされたようだった。
「なんだか……やり切れないな」
 ラティアの独り言に、内心、教授も同意した。
 おそらく、多くの人々も、理性ではわかっているのだ。少女が、自分だけでなく、彼らを守ることも目的に、命を賭けて戦ったことに。
 それでも、本能的な恐怖が勝る。あの少女に、自分の命を絶つ力がある、という事実への恐怖が。
 人々が奇妙な態度を見せ始めてから、ミュートは、街から少し離れたところに出ることが多くなった。
『本当にきみは熱心だね』
 乾いた風が吹きすさぶ荒野を、小型探査艇が直進していく。その近くには、歩み寄るエルソン人の姿もあった。
 ミュートは集中を切り、そちらを振り返る。
「もっと上手く使いこなせるようにならないと、守れるものも守れないからね」
『なあに、次は私が撃退して見せるさ』
「そうか。それは心強い」
 一度笑ってから、少女は表情を引き締める。
「いつまでも、ここに居るわけにはいかないからね。そろそろ、最後の街へ旅立たないと」
「最後の街、ですか」
 黙って、砂混じりの強風に顔をしかめていたノード副長が聞き咎める。
「この世界でやることがあるというのは、ルータからも聞きました。詳しいことは黙秘するというので、訊かないでおきましたけれどね。しかし、最後、というのが気になります。他に街はないと言い切れない。つまり、あなたたちが至る、最後の街なのですね」
 ノードのことばに、ミュートは少し驚き、やがて、うなずいた。
「そこへ行けば、この世界を止めることができるはずです……元の世界に戻れるのかどうかは、確かではありませんけれど。どうにしろ、調整者にカモにされるのを待つより、早く出発して終わらせたほうが犠牲は少ないのかもしれません」
『元の世界に戻れたとして、どこまで人体や精神へのダメージがフィードバックされるのかも、わからないけれどね』
 ノードの背中を風除けにしながら、ルータが続ける。
『それに、もう材料はそろったようだし、その前に、ロズたちが脱出用ゲートを作るかもしれないけれど。だから、副長たちはここに残って、彼らの手伝いをしてよ』
「やはり、ルータも行くのか」
『私も使命を受けたんだからね。それに、ミュートだけに行かせるわけにもいかない。さあ、行こう行こう』
「そんなに急がなくても」
 今にも強風の中に飛び出して行きそうな超小型探査艇を捕まえて、ミュートは張りつめたものが解けた様子で苦笑した。
 それを見て、目を細め、副長は肩をすくめる。
「せめて、他の皆に一言言ってから出発してください……それと、となりの街には、我々の知り合いが行っています。何か、役に立つ情報を提供できるかもしれません」
 自分たちのほかに最後の街のことを知っている者がいることに少し驚きながら、ミュートは、副長の冷静なことばに従うことにした。

 街の人々が寝静まった時間帯に、白いフードとマントをまとった姿がひとつ、外へと歩み出した。寝ている者を起こすことのないよう、静かな足取りで。
 小柄な姿は、少し歩いてから、何かに気がついたように足を止め、軽く腰を落とす。
 その警戒をものともせず、瓦礫の山の影から、1人の老女が現われた。
「ミュートちゃんかい?」
 それに応え、白い姿がフードを取る。黒目黒髪の少女が、見開いた目を、立ち塞がる相手に向けていた。
「おばさん……
 最初に街を訪れた時、髪飾りを渡してくれた老女だった。
 彼女の手には、小瓶が握られている。
「どこへ行くかは訊かないよ。でも、覚悟の必要な旅への出発には、見送る者がいたほうが気合が入るでしょ? それと、お礼を渡してなかったからねえ」
 ことばと同時に差し出された小瓶には、コンペイトーやナッツ、チョコボールなど、小さな菓子が入っている。
「本当はもっと栄養のつくものをあげたかったんだけど、とっておきの牛丼は、あのオペラ歌手さんにあげちゃってねえ……
『いい選択だよ、それは』
 マントの胸元からの声に、ミュートも賛成する。
「ありがとうございます……嬉しいです」
「他の連中が何を言っても、あたしゃ、お嬢ちゃんのことを英雄としてずっと語り継ぐさ。それじゃあ、気をつけてね」
 それに答え、少女は歩き出す。
 その背中を見送りながら、老女は長い間、どこか誇らしげに胸を反らし、手を振っていた。

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