蜃気楼の都

「サラサ、今日はもうあがっていいよ」
 今夜は、お客さんが少ないようだった。シルビィさんが皿を棚に片付けながら、あたしにそう言ってくれる。べつに用事はないけれど、早く家に帰ることができるのは、やっぱり嬉しい。
「いやあ、最近は都会に出て行く若いモンが多いけど、サラサちゃんは感心だねえ」
 店の常連の花屋のレッグさんが、友人のアタリさんと向かい合いながら、テーブルのそばを通るあたしに声をかける。
 あたしは、足を止めて振り返った。
「だって、あたしがいなくなったら、ますます若い人いなくなっちゃうじゃない。若い男の子がいないのが悩みの種だけど」
「そりゃそうだ」
 と、レッグさんが笑うのに、
「都会から連れてくるか、旅人でもとっ捕まえてここに住まわせるしかねえな」
 アタリさんが付け加えた。
 ここは、特に交通の要所にあるわけでも、観光の目玉があるわけでもない、ようやく町の規模を保っているだけの辺境の町だ。旅人も、一ヶ月に一度来るかどうか、という程度だった。
「若い旅人なんて、もう半年以上来てないですけどね」
 あたしが言うと、レッグさんは驚いたように見上げる。
「知らないのかい? 昨日、三人の旅人が来たって話だよ」
「え、ほんとに?」
 あたしは心底驚いた。でも、こういうことは、よくあることだ。
 みんな、家族から色々と情報を聞いたりするけれど、あたしの家ではそんなことはない。父さんも母さんも兄さんも、できるだけ外に出ないよう、他人に会わないように毎日を過ごしている。そして、何とかこの店でのアルバイトは許してもらったけど、あたしにも外に出るなと言う――あの、二年前の火事があってからは。
 だから、あたしはこの町から出ないし、出られない。
「それと、今日も何だか、妙な一団が入ってきたらしい。教会関係者だったか、こっちには若いのはいなそうだねえ」
「運が良ければ、若い旅人に会えるかもしれませんねえ……では、失礼します」
「ああ、お疲れさん」
 シルビィさんやお客さんたちの声を背中に受けながら更衣室に入り、着替えて夜の街に出た。
 三日月の綺麗な夜だった。少し霧がかかっているのが、物語の中の世界のような、神秘的な雰囲気をかもし出す。
 歩き慣れた石畳の道を少し歩くと、すぐに静かな住宅街になる。遠くから飲食店街からの喧騒が聞こえてくるものの、それも、別世界のことのように思えた。
 通い慣れた道。でも、今夜は……どこか、怖い。
 こんな雰囲気の夜、ときどき、あたしは怖くなる。この辺りは、火事があった場所だ。昼間見ると怖くはないけど、あちこちに焦げたあとがこびりついている。
 ――あの大火で、あたしの家も燃えた。そして、逃げ遅れた人が亡くなったらしい……
 そう耳にしたのは、ほんの偶然だ。働いている店に入る瞬間、お客さんが話しているのを聞いたのだ。みんな、あたしの前であの話はしなかった。だからみんな、あたしが火事のことを知っていると知らない。
 そして、家族も知らない。あたしが、あたしが寝ている間に、時どき夜中に何かを話し合っているのを聞いていることも。
 あたしには、火事のときの記憶が全然なかった。きっと、ショックだったんだと思う。目の前で、家族を失ったこと。
 色々な思いが頭の中を回っている。立ち止まってぼうっとしていると、霧の中、何かが、目の前を横切って行ったような気がした。鎧を着けた姿がいくつかと、法衣姿がひとつ。
 教会へ行くんだ、と思った。教会には、火事の後、父さんが絶対近づくなと言うし、あれ以来一度も行っていない。
 なぜか、今夜は行ってもいいか、という気がした。
 町の北にある、教会へ。あたしは霧の中に隠れるようにして、聖職者らしい一団のあとをつけた。ずっと幼い頃にやっていた、探険ごっこのときのような、わくわくした気分で。
 三角屋根の、十字の聖印を刻んだ紋章を掲げる建物に、一団は吸い込まれていく。
 あたしは身を低くして、端からそっとを顔を出し、中をうかがう。
 夜の教会は、記憶の中にある、昼の様子とは全然違っていた。月光がステンドグラスの窓から差し込んで、祭壇の上に、神話の一説の光景を描き出している。
 その光の中に、五人の姿が見えた。一人は、この教会の司祭さまで、あたしも昔は何度も会った。今は、昔に比べてだいぶ老けているけど。
「この近くにいるというのは本当か」
 法衣姿の男が、司祭さまに言った。司祭さまは、少し緊張した声で答える。
「ええ、確かに見たという者がおるのです。さまよえる死霊を」
「そうか……まあ、我々が来たからには、そう気にやむことはない。これでも専門家だからな」
 専門家――死霊祓いの人たちだ。自分が死んだことに気づかない者、この世に未練がある亡者が成り果てる死霊。それを、成仏させる専門家たち。
 あたしには、ピンと来た。
 まずい。知られるわけにはいかない。あたしさえ、黙っていればいいんだ。ただ黙って、この町で変わらない日常を続けていればいいんだ。
 家族をこの人たちに近づけるわけにはいかない。ここに近づくとは、なんて馬鹿なことをしたんだろう、あたしは。
 そっと、石の階段を降りて、音を立てずに立ち去ろうとする。
「そこにいるのは誰だ!」
 荒々しい声に、思わずびくっと身体が跳ねる。
 鎧をガチャガチャ鳴らしながら、何人もの大きな男たちが近づくのがわかった。あたしは霧の中に隠れようと腰を落としながら、必死に家のほうに引き返そうとした。なのに、足が上手く動かない。
「怪しいヤツめ、そこを動くな!」
「妙な気配がするぞ、手分けして捜せ!」
 あたしは混乱しながら、手を使って、ほとんどほふく前進で逃げ出した。でも、普通に歩ける、それも複数の大人相手に、逃げ切れるわけない。
 ただ、あの建物の陰に辿り着ければどうにかなる気がして、霧の中を、当てずっぽうに這い回る。
「そこか?」
 身体を引きずる音に気がついたのか、誰かがあたしの後ろに迫った。
 そのとき、唐突に、手を引かれたような気がした。
 引き起こされ、引っ張られる。霧の中を、あたしは誰ともわからない人に手を引かれ、走った。
「あの、あなたは……
 だいぶ離れた、と思ってから、尋ねてみた。
「旅の者さ。何だか知らないが、追われていたので、助けた」
 何も答えないかもしれないと思ったけど、ちゃんと答えがある。想像していたより、若くて高い声だった。もしかしたら、あたしと、そう変わりない年代なのかもしれない。
 霧が途切れると、相手の姿が見えた。
 艶やかな黒髪を束ねた、黒衣の女の人。あたしより、いくつか年上のようだ。その服装は、魔術師、と呼ばれる職業の人たちが良く着ているものだった。
「あの……ありがとうございます」
 旅の人に会えたら色々訊こうと思っていたのに、いざとなると頭の中が真っ白になる。ただ、お礼だけはきちんと言おうと思って、頭を下げる。
 彼女は、少し奇妙な目で、あたしを見た。
……夜の散歩のついでだから、大したことはしていないよ。ところで……
 漆黒の目をそらして、魔女は言う。
「もう、ああいう場所、ああいう連中には近づかないほうがいい」
 言われるまでもなかった。
「ええ、絶対近づきません」
 家族を危険な目に会わせるわけにはいかない。あたしはことば通り、そう誓った。
 家の近くなので、その場で彼女と別れ、あたしは帰宅した。玄関の外で、母さんと父さんが心配そうに待っていてくれた。
「サラサ、遅かったじゃないか。何かあったのかい?」
「ううん。この霧のせいで、ちょっと迷いそうになっただけ」
 余計な心配はかけたくなかった。父さんに嘘をついて、家に入ると、すぐに自分の部屋でベッドに潜りこんだ。
 居間から、まだ起きている家族の声が、途切れ途切れに聞こえてくる。
「まずい……そろそろ限界だ。どこか人里離れたところに引っ越すほうがいいかもしれん」
「余計、怪しまれるんじゃ……
「今朝、死霊祓いが着いたんだ。きっと、もう……
 ギュッとベッドの毛布を握りしめる。
 みんながどこかに逃げるなら、あたしも行こう。大事な家族を守りたい。例え、それが蜃気楼みたいなものだったとしても。

 翌日、あたしは慎重に家と店の間を歩かなければならなかった。というのも、あの聖騎士たちがたびたび狭い町の中を巡回しているせいだ。
 どこかで、あの魔術師の女の人に会えるかもしれない。そう思って辺りを見回しても、目につくのはあの鎧姿。それで、慌てて隠れながら少し進んでは、また見回す。
 そんなことを繰り返しながら、どうにか店に辿り着き、店ではあいつらが入ってこないよう祈りながら、シルビィさんには悪いと思いつつ、「気分が悪いので」と言って、カウンター内での仕事を中心にやらせてもらった。
 幸い、聖騎士たちが店に入ってくることはなかった。
 問題は、帰り道だ。夜ほど、聖騎士たちは動き回る。それに今夜は、霧も出ていない。
 あたしは慎重に辺りを見回しながら、家路を急いだ。
 少し雲が出ていて、暗い夜だ。いつもは何てことのない道が、火事の記憶とは別の意味で怖い。そこの陰に、誰かが潜んでいるかもしれない。建物の横に辿り着いた瞬間、聖騎士が飛び出してくるかもしれない。
 もやもやと、色々と怖いことを想像しながら、歩き続ける。聞き慣れてるはずの犬の遠吠えにも、背筋をひやりとさせながら。
 早足で石畳の上を歩いていると、やっと、もうすぐ家だ、という地点にさしかかる。家の赤い屋根が見えて、少しほっとする。
 その、ほっとした気分が、一気に吹き飛んだ。
「やめろ! 何の権限があってこんなことをするんだ!」
 父さんの声だ。あたしは走り寄ろうとして、見覚えのある鎧を視界の端に捉え、慌てて建物の陰に隠れる。
 鎧姿二つに、法衣姿があった。
「我々には、その権限が与えられています。そこをお退きなさい」
「嫌だ! 我々は無関係だ、帰ってくれ!」
「力尽く、ということになりますよ?」
 聖騎士の一人が、剣を抜いた。その切っ先で脅すようにして、家に押し入ろうとする。
 途端に、小さな悲鳴が上がった。
 何が起こったかわからない。ただ、法衣姿と聖騎士が慌てたようにことばを交わし、家の奥のほうから、母さんの金切り声が聞こえる。
「医者だ、医者を呼びに行くぞ!」
「司祭に法師の居場所を聞いて来ます!」
 この町に、医者なんていない。何人かの、いくらかの傷を治療する魔法が使える法師と、多少の病気を治すことができる薬師がいるだけだ。
 慌てて去っていった三人を見送って、あたしは駆け出した。
 玄関の前に、父さんが倒れていた。脇腹から、赤いものが流れ出している。母さんがほとんどパニックになって、必死にハンカチで傷を押さえていた。
 駆け寄ってから、あたしは立ち尽くす。
 何か違和感が頭の中をよぎり、混乱する。その一方で、ひどく焦っていた。
 父さんが死んじゃう。死んじゃう。
 いつか、どこかで感じた思い。火事のときにも、こうだったんだろうか。いや……違う、これはおかしい。こんなはずはない。
 黙って立っていることしかできないあたしの横から、急に、白いものが現われた。
 革の鞄を肩から下げ、銀縁の眼鏡をかけて白衣を着たその人は、この町にいるはずのない人だった。医者、という職業の人間は、幼い頃に他の町に出かけたときか、本の中でしか見たことがなかった。
「この近くに診療所は?」
 包帯を取り出して傷の上を縛りながら、彼は冷静に言って来る。
 あたしは答えることもできず、首を振る。
「医療施設はないんですか? 他に医者は?」
「ないです、いないんです!」
 それだけ言うのが精一杯だった。
 旅の医師らしい男の人は、家の中で茫然としている兄さんに手伝わせて、父さんを中に運んだ。
 それを見送って、あたしは駆け出す。
 もうわかった。
 あの血、専門家が診た肉体、死霊なんかじゃない。
 あたしは走った。母さんが何かあたしの背中に向けて言っていた気がするけど、耳に届かない。ほとんど足の感覚もなく、飛んでいるような気分で、教会に向かう。実際に飛んでいたのかもしれない。
 あの火事で、亡くなっていた人――それは、あたし。
 あの聖騎士たちが退治しようとしていた死霊――それは、あたし。
 あたしさえいなければ、家族を危険な目に遭わせることもない。
 ただ無我夢中で、気がつけば教会の階段を這い上がり、冷たい石の上を、礼拝堂のなかに滑り込んだ。
「誰だ?」
 なかには、司祭さまと、あの四人がいた。法衣姿の男が、あたしを見るなり、目を見開いた。
「お前……人間ではないな?」
 じろり。とにらまれ、足がすくむ。
 でも、これが当然の報いだ。あたしはもうとっくに死んでるはずだったんだから。
「大人しく、神のもとへ召されなさい」
 法衣姿が、祝詞のような呪文を唱え始める。
 祭壇の向こうにそびえる神像を見上げて、あたしも二年前以来、初めて、神さまに祈った。
 天に召されるときって、どんな感覚なんだろう。心の冷静な部分でそう思う。どうせ、すぐに感じて――もう、何も感じられなくなるんだ。そう考えると少し寂しくなるけど、後悔はなかった。これで、父さんも母さんも兄さんも、普通に、平和に暮らせるんだ。
 何もかも見渡したような、穏やかな気分だった。
 少しずつ、光があたしの身体を包む。暖かい、気持ちのいい光。これが、浄化されるってことなんだろうか。
 法衣姿や聖騎士たち、司祭さまは目を見開いたまま、瞬きもせず、時が止まったようにじっとこちらを見ていた。でも、あたしはその上のほうに、目をひかれる。
 蜃気楼のようにぼやけた、白い人型が見えた。男か女か、大人か子どもかもわからない。
 ただ、それは神か、それとも天使のように感じた。
『もうしばらく。あなたが救った人間の数の年、あなたの蜃気楼を続けましょう』
 その人は、そう告げた――ような気がした。

 あの夜、光が消えると、司祭さまや聖騎士たちは、あたしのことをすっかり忘れていた。
 あたしの正体も、わからなくなったらしい。何が何だかわからない五人の前から急いで帰って、あたしは、父さんの手当てをするお医者さんを手伝った。
「どうやら、教会に来てた人たちも、旅の人たちも帰ったようだねえ」
 あれから数日後。店で、レッグさんが杯を傾けながら、アタリさんと話をしていた。
 あたしは、そう言えば、あの魔術師さんにまともにお礼も言えなかったな、と思う。
「でも、出て行ったのは二人だそうだよ。一人は、この町の人口が増えたかな」
「それが、ずっとだといいですね」
 あたしは言って、洗った食器を棚に片付ける。
 そろそろ時間だ。あたしはシルビィさんに頭を下げた。
「今まで、本当にお世話になりました」
「こちらこそ、良くしてくれて」
 シルビィさんは少し目じりを拭いながら、首を振る。
「新しいところでも、頑張るんだよ。いや、サラサちゃんなら、頑張り過ぎるくらいだろうけどね」
「はい、大丈夫です。ちゃんと、自分のできる範囲で頑張りますから」
 笑って、あたしは、何年も働いた場所を離れた。
 あたしが働く場所。それは、新しくできた、診療所だ。
 『救ったの人間の数だけの年数』――あのことばを信じたから、だけじゃない。何か、他人のためになることをしたかった。せっかく延長してくれると神さまが言うなら、その分、役に立ちたかった。
 この町に留まってくれるという、父の命の恩人でもあるあのお医者さまと神さまに感謝しながら、あたしは、新しい仕事場に足を向けた。