一人の少女が、塔が建ち並ぶ領域に歩み入った。
そこは幅の広い、傾斜が緩やかな谷を利用した集落だった。坂になった大地には草花が咲き乱れ、少し離れたところにある滝からの水が小川にそそぎ、小鳥たちが憩う、美しく和やかな風景が広がっている。
あちこちにある木のテーブルと椅子に座った人々が談笑し、自家製ハーブティーや手作りのクッキーを振舞っていた。それは、まさに楽園の風景である。
だが、長い黒髪を束ねた黒ずくめの少女が姿を見せると、人々は表情をひきつらせ、不意に四方に散って身を隠してしまう。
少女は立ち止まって溜め息を洩らすと、再び歩き始める。
だが、間もなく、その歩みは止められた。いくつもの気配と、拒絶のオーラに。
塔の間から、槍を手にした若者たちを引き連れた老人が、姿を現わしていた。
「お主……悪魔の力を導く者だな? ここしばらく谷に満ちておる邪悪な気も、お主が訪れる予兆であろう」
「ええ。わたしは、魔術師。悪魔と契約を交わし、その力を借り受ける者。……セティア・ターナー。お初にお目にかかります」
少女は無表情ながらも、礼儀正しく自己紹介する。
それを受けた老人たちは、一様に顔色を変える。どうやら、一見十代後半程度に見える魔女の名に、聞き覚えがあるらしかった。
老人は愕然としていたが、すぐに表情を引き締める。
「お主は、ここには相応しくない。立ち去られるがいい、魔女よ」
彼は、一歩も退かない信念を込めてじっと相手の瞳を見た。セティアは、感情のない目でそれを受け止める。
「お待ちください!」
このままにらみ合いが続くかと思われたとき、不意に、老人と若者たちの背後から、声がかけられた。中年程度の上品そうな男がセティアの前に進み出ると、振り返る。
「申し訳ありません、長老。わたしが呼んだのです。用事が済み次第お帰りいただきますので、どうか、ここはお見逃し願えませんでしょうか」
男が必死な様子で頭を下げると、長老と呼ばれた老人は男とセティアを交互に見やると、考え込むように瞑目した後、小さくうなずいた。
「いいだろう……その約束、忘れるなよ」
許可を得た男は、深々と一礼した。そして、見守る一同の前から、魔女を先導して歩き始める。いくつもの刺すような視線を受けながらも、歓迎されざる客人は眉一つ動かさなかった。
魔女はクリピスと名のった男の後を追い、ある、白く背の高い塔に入った。そのまま、どこか隔絶した雰囲気の内部を登り、誰ともすれ違うこともなく、六階に辿り着く。他の階もそうだったが、どうやら、三つの部屋があるらしく、木製のドアが並んでいた。
クリピスは、そのうちの、左端のドアを開ける。
「父さん……?」
幼さを残した声が、部屋の奥から呼びかける。
部屋は、質素ながらも調度品はそろっており、一見して異状は見当たらなかった。ただ、大きな窓の横のベッドの、その上で身を起こした人物の姿だけが、さわやかな薄緑の部屋の光景に奇妙な印象を落としている。
小柄な、子どもとわかるその人物は、頭から袋状の黒い布を被っていた。両手には黒い手袋をしており、肌を露出しているのは、布が長方形に切り取られた目の辺りだけである。
「ああ、ミネラ。セティアさんを連れてきたよ」
クリピスが努めて明るく応じると、ミネラは、ベッドの横に歩み寄った魔女を、澄んだエメラルド色の目でじっと見つめた。
「セティア・ターナーさん……?」
「ああ。わたしは魔術師、セティア。きみは、わたしのことを知っているみたいだね」
仮面のようだった顔を少し緩ませ、魔女は答える。
「はい! あたし、何もできないけど、ここにはたくさん本があるから、本ばかり読んでて。それで、あなたを知ったんです」
「そして……自分を殺してもらうために?」
有名な相手とことばを交わして浮かれ気味だった少女の目が、不意に、必死な光を宿す。
「そうです……どうしても、死にたいんです」
セティアは、依頼を受けた時に、大体の事情は聞いていた。
彼女は、呪いを受けていた。彼女の一族で触れることが禁じられている、聖なる木の枝を折ってしまったのだ。そのために彼女は呪われ、一族が得意とする治癒の魔法も効かないのだという。呪いにより彼女の身体は悪魔のように変貌していき、あと一ヶ月で、完全な悪魔に成り果てて命を落とすのだという。
呪いを受けた少女は、窓の外に目を向け、小さく震える。
「こうして、外で元気な人たちを見ていると……とってもうらやましく……最近じゃ、憎らしくなるの。まるで、心まで悪魔になっていくみたい……。完全に悪魔になって死ぬのは嫌。早く終わらせたいの……せめて、半分は天使のままで」
少女は、手で背中を覆っていた黒い布をたくし上げた。
その背中には、白鳥のような純白の翼と、コウモリのような悪魔の翼が、一対になって生えていた。
天使の能力を引き継ぐとされている風霊の谷の有翼族は、本来、一対の白い翼を持っているはずである。悪魔の翼は、この一族にとっても異常な存在に違いない。
その翼の存在だけでも、もはやミネラは居場所を失ったのだ。
「他の子どもたちも一緒にいたというに、なぜ娘だけが、と仕方のないことを思った時期もありますが……風霊の民の治癒の魔法も効かないなら、もう、治すのは不可能と覚悟しました。だからせめて、娘の最後の願いを聞いてやろうと思いまして」
まだ迷いがあるのか、苦悩の表情で、クリピスは言った。
「依頼料さえ払っていただければ、わたしはやりますよ」
魔女は、平然と言ってのける。
「聖なる力を秘めたる羽根……強力な魔力を持つ者の羽根ほど貴重だという。見たところ、あなたも娘さんも、それほど高い魔力をお持ちでないようですが」
彼女は父娘の前で、歯に衣着せぬ調子で断定する。
気を悪くした様子もなく、クリピスはうなずいた。
「ええ……それは、必ず長老に取り計らっていただきますので……。とりあえず、前金としてこれを」
彼は懐から銀色の髪飾りを取り出し、セティアに手渡した。髪飾りの模様にはめ込まれた二つの緑の玉石が、神秘的な輝きを放っている。守護の力が込められた玉石だった。所持しているだけでもかなりの力で身を守ることができる上、目の良い者に売れば、かなりの値がつくだろう。
一瞬わずかに眉をひそめたものの、前金としては納得したのか、魔女は小さくうなずく。
「いいでしょう……今夜までにも、ミネラの寿命を縮めましょう。せいぜい、残り少ない命を楽しんでください」
そう言い放ち、マントをひるがえして出て行くセティアを、父娘は静かに頭を下げて見送った。
部屋を出ると、魔女は溜め息を洩らし、彼女に与えられた、右端の部屋に足を進める。
しかし、その背中に、聞き覚えのない声がかけられた。
「そんなに羽根が欲しいなら、ぼくのをあげるよ」
ミネラとそう変わらない年頃らしい、澄んだ少年の声だった。
「なんなら、この翼ごと持って行ったっていい。ぼくはかまわないよ」
セティアは目だけで周囲を見回し、次に気配を探った。その結果からして、ドアの外にいるのは、やはり、彼女だけだった。
それを確認すると、彼女は三つの並びのうち、真ん中のドアに漆黒の目を向ける。
「立ち聞きでもしてたのかい?」
「たまたま聞こえただけさ。よほど、天使の羽根にご執心のようだね。黒魔術の権威がなぜ? 悪魔への捧げものかい?」
「単なる探究心からさ」
答えながら、ドアノブに手をかける。鍵もかかっておらず、ドアはあっさりと開いた。
部屋の内部があきらかになると、少女の姿をした魔術師はわずかに目を細めた。
室内には、窓というものがなかった。ベッドの横の小さな机の上に載せられたランプの灯が、壁の本棚や小さな絵を淡く照らしている。天井が高く、壁も天井も深い紺色をしているため、長い間その部屋にいると、地上の光の届かない奈落にいる錯覚に陥りそうだった。
直感的に、ここは本来、ミネラに与えられるはずだったのではないか、と思う。
そんな暗い光景に似つかわしくない、ベッドの上の姿。黄金色の髪に空色の目、白い寝巻きの背中から見える、輝いてさえ見える翼を持つ少年。
彼はどこかおもしろそうに、高名な魔術師を見る。
「彼女を殺すんでしょ?」
歩み寄る魔女に、少年は白い羽根を突き出す。それは、セティアにはかなりの魔力を秘めているように見えた。
「そうしてあげて。聖なる木を傷つけた者は、最後には魂まで囚われるというから、そうなる前に」
「……それが、きみの望み?」
「そうさ。他に望めることもないよ。ぼくはまだ、死のうとは思えないんだ。どうせ、あと一年もなく死ぬんだろうけどね」
妙に淡々と話す少年に、セティアは違和感を覚える。だが、少年の目にはあきらめも悲哀もない。羽根を魔女に向けた彼の目にあるのは、強い願いだ。
セティアは少しの間迷った後、白く美しい羽根を受け取る。
「……いいだろう。きちんと彼女を殺してあげるよ」
彼女はどこか憂愁を帯びた顔でうなずき、少年に約束した。
陽が沈み、谷が夜闇に包まれると、集落は静まり返る。ただ、塔から洩れる控えめな光だけが、谷を頼りなく彩っていた。
闇から浮かび上がるようにそびえる塔のうちのひとつの、一室。そこに、闇から現われたような少女が音もなく訪れた。
無言で目を向ける父娘に、魔女は淡々と告げる。
「今から、二四時間後にミネラは死ぬ。明日のこの時間までに、思い残したことをしておくといい」
なんとも言えない視線で見つめる二人にそうとだけ告げると、魔女は再び、部屋を出て行った。
やがて、陽が昇り、谷もまた、日光の恵みを受ける。早起きな年長者たちから順に、塔の外に姿を見せる。
また、朝が来た。昨日と変わらずに。
「ありがとう、お父さん。あたしが死んだら、あの聖なる木が見える所にお墓を作ってね」
「ミネラ……」
素肌をさらすことのできない娘のことばに、父は何かをこらえるように唇を噛む。
「ああ……立派な墓を建ててあげよう。お前の好きだった本も一緒に埋めよう」
死を前にした少女は、黒い布空わずかにのぞく目元を緩ませ、ほほ笑んだ。
時は容赦なく移ろっていき、太陽は徐々に高く昇り、朝が過ぎて昼が訪れた。
いつも通り、人々は外のテーブルの上に昼食を広げ、青空の下で談笑する。若い男女は離れたところでことばを交わし、家族は一家専用の大きなテーブルを囲んで料理をつつく。子どもたちは母の手作りのデザートを嬉々として頬張り、一足先に食事を終えた者はハーブティーを口にする。
ミネラは塔の一室からそれを見下ろしながら、最後の昼食を取った。
できる限り娘の好みに合った食事を用意した後、クリピスは一旦部屋から姿を消していた。一人になった少女は、窓の外を見下ろす。楽しげで元気な、同じ年頃の子どもたち。その姿を見ていると、懐かしさと、心の底からどす黒い何かがこみ上げる。
彼女は、ベッドの中に隠していた、一冊の厚い本を取り出した。黒い表紙のその本をめくろうとした刹那、ドアがノックされた。
慌てて本を隠して、ミネラは部屋に入ってきた黒衣の魔女を見上げる。
「……あと、五時間余りといったところだね。何か、終わりの時までにしたいことはあるかい?」
暗い目で相手の視線を受け止め、セティアは問うた。
「あるけど……でも、それは無理だよ。この目で集落を見回して、記憶に焼き付けたかった。友だちの顔をしっかり覚えて死にたかった」
ミネラは、目を閉じて毛布の端を握りしめる。それは、はたして後悔のためか。
セティアはじっと少女の様子を見ていたが、やがて口を開く。
「きみの願いをかなえてあげるよ……〈テレパシー〉と〈ビジョン〉の魔法なら、きみも知っているだろう」
彼女の提案に、ミネラは目を丸くした。
セティアは自身の姿が他人に見えなくなる魔法を使うと、風霊の谷の集落を歩き回った。そして、陽が落ちないうちに、できるだけ多くの者を視界に入れた。それを、魔法により視界を共有している少女も見ている。
そのなかで、恋人同士らしいある若い男女を目にしたとき、彼女は、激しい嫉妬が伝わってくるのを感じた。
だが、特に何も言うことなく、魔女は塔に戻る。
(ありがとう、セティアさん。もう、思い残すことはないです)
少女は、テレパシーで静かにそう告げた。
それが、魔女が受け取ったミネラの最後のことばだった。
夕日が完全に落ちた頃、騒がしさに気づいてセティアが部屋を出ると、担架にのせられた人間らしきものに毛布がかけられ、クリピスと数人の男たちが運び出すところだった。
その姿が階段に消えていくと、依頼を完了した魔女は、様子を見るように小さく開いたドアに目を向ける。それに気づいたのか、ドアが大きく開かれ、少年が顔を出す。
「終わったみたいだね。礼を言うよ。ありがとう。……ところで、あの父娘から何かもらったの?」
彼に問われて、魔女は懐から、クリピスに前金として渡された髪飾りを取り出して見せた。
「それ、捨てたほうがいいよ」
少年に言われるまでもなく、セティアが手のひらの上で髪飾りを分解する。火薬と小さな装置が、あらわになった。
それを握りつぶして消滅させると、彼女は束の間ためらうように口を開け、閉じてから、ミネラのこともよく知っているらしい少年に尋ねた。
「彼女は、友人の一人に聖なる木を傷つけさせようと……」
「なんだ、気づいてたのか」
少年は、細い肩をすくめた。
「もう、それも終わったよ。彼女が持っていた黒魔術の本はきみが持って行けばいい。そこそこ貴重なものらしいから」
「いらないよ、そんなもの。彼女の魂の半分を悪魔に捧げ、新たな契約を得ることができた。それだけでかなりの収穫さ。そうでなけりゃ、こんな依頼受けたりしない」
彼女のことばを聞き、部屋の奥に戻りかけていた少年は、靴も履いていない足を止めて振り返る。
「そんなに悪魔へ捧げる魂が欲しいなら……頼みがあるんだけど」
魔女に向き直り、少年はそう切り出した。
魔女が外に出ると、青い炎の道ができていた。人々が、魔法で作り出した松明の火を掲げ、二列に並んでいるのだ。
炎と濃厚な月光が青白く照らし出す人々の顔は、憎しみに染まっていた。白い翼を背に生やした天使たちが、彼ら同様外見年齢より長く生きている少女に、断罪の目を向けている。
「あいつだ、あいつが娘を殺したんだ!」
男が、声を張り上げる。
クリピスが、セティアを指さしていた。
それに触発されたように、周囲の人々が罵声を上げた。
「出て行け!」
「人殺し!」
「死んでしまえ!」
セティアは妙に清々しくほほ笑み、人の列の間を歩み出す。
「言われずとも、出て行きますよ」
その呟きも、罵倒にかき消される。両脇の人々には見向きもしない魔女に、間もなく石や低級の攻撃魔法が飛び始める。しかし、そのどれも空中で遮られたように弾かれ、魔女に触れることはなかった。
無傷で集落を出て行く魔女の姿が夜闇に溶けると、クリピスが周りには聞こえないようにつぶやきを洩らした。
「ありがとう……」
まばらに生えた木々の隙間に、踏み固められただけの細い道がのびていた。どこか遠くで虫の音や動物の唸りが響く。ここは人里からは遠く、一人旅には寂し過ぎる光景を見せている。
ただ、満天の星空は、息をのむほど美しい。
(今夜は満月か……久々に見たな。ね、聞こえてる?)
「ああ、聞こえてるよ」
頭の中に直接伝わる澄んだ声に、魔女はほほ笑んだ。彼女にとっても、長年の〈独り〉という感覚が消えたことが、新鮮な体験だった。
「ところで……まだ、きみの名前を聞いてなかったな」
声に出して答えながら、彼女は一度足を止め、振り返る。幾重もの木の陰に隠れ、集落は見えなかった。
少年は少し間を置いて、答える。
(ぼくはシゼル。これからよろしく)
「ああ」
セティアは答えた。
「よろしく、シゼル」
こうして、記憶を刻むための、限りある二人旅が始まった。