少年は、ベッドの上に横たわっていた。
その肌は陽にあたったことがないかのように白く、その身体は何かを支えることができそうもないほど細い。顔色は青ざめていた。
部屋は質素で、壁や天井から察するに、建物自体、古いもののようだった。室内には、少年の他に、もう一人人間がいる。長い黒髪に黒いローブとマントを羽織った人間はベッドのそばの丸椅子に座り、少年の口もとに耳を近づける。
少年は話し始めた。
彼がしてきた旅を。
ぼくは、ある日、魔女と出会った。
それは、おだやかな春の午後だ。ぼくはいつも通り窓を開けて、日光浴をしながら庭先の木にとまる鳥たちを眺めていた。ここは三階だから、遠くの山並みも見えて景色がいい。
そうしていたら、突然、ぼくの頭のなかに声が聞こえてきた。
(そこの部屋にいる方、あなたはどなたですか?)
ぼくはしばらくの間驚いて辺りを見回したりしていた。でも、部屋にはぼくの他に誰もいない。
だから、少し間抜けな感じだったけど、とりあえず声に出して答えてみた。
「あなたは誰? どこから話し掛けてるの?」
それは、一応相手に通じたらしい。男か女かもわからない、声ではないことばが直接頭に返って来た。
(わたしは、旅の魔術師。〈テレパシー〉という魔法で、あなたに話し掛けています。今、窓の下にいますよ)
ぼくはそっと、窓の下をのぞいて見た。
家のドアの近くに、魔術師のローブを着た女性の姿があった。一見したところでは、二〇歳前後くらいか。長い黒髪が風になびいている。
ふと彼女が見上げたとき、その顔が見えた。色白で、漆黒の瞳が印象的な、綺麗な人だった。まるで、美しい精霊のようでもありながら……ぼくには、彼女は死神のようにも見えた。
その姿に見とれていたぼくは、彼女と目が合いそうになって、慌てて首を引っ込めた。
(わたしの姿を見ていただけましたか?)
(はい。あの、なぜぼくに?)
ぼくは、彼女のように頭の中で話し掛けるように努めた。届いているだろうか?
(わたしは、見聞を広めるために旅をしているんです。街の片隅に、他の人々が住人の姿を見ないと言う家があるというので、どのような方が住んでいるのかと気になって来てみました)
(色々な所を旅しているの?)
ぼくは、彼女のことばに強くひかれた。一週間に一度やってくるお使いの女性の他にことばを交わしたのは、もう、何年前のことか。
ぼくはもともと好奇心旺盛なほうで、できることならあちこちを旅してみたいと思っていたけど、もうこの身体も弱り、残された時間も少なくなってしまった。
(ええ。わたしの記憶に在る風景を、〈ビジョン〉という魔法でお見せしましょう。目を閉じてください)
ぼくは、言われるままに目を閉じた。
頭のなかに、ぼくが見たことがないような映像が浮かんでは消える。岡の上に並ぶ風車に、船からの海原の光景、知らない種類の鳥が飛び交う谷に、太陽に向かってそびえたつ三角錐型の遺跡。どこも、まるで本の中の一ページのようだ。憧憬と羨望が、胸の奥から突き上げる。
ああ、ぼくもあの風景を見たい。ただの映像じゃなくて、あの風景のなかを歩いている視界を共有したい。人が動いて、雲が流れて、歩くリズムにあわせて揺れる視界を。
(……きみは、今見ている風景を伝えることもできる?)
(ええ。やってみましょうか?)
彼女はこともなげに答えて、ことばの通りのことを実行した。
いつも窓から見える街並みが脳裏に浮かぶ。活気のある商店街に、向こう側にある岡に建つ、目立つ二階建ての家。通りを歩く人々や、空を横切る鳥が、よどみない動きを見せる。いつも見ているのと同じ、でも、角度も高さも違う光景。ぼくはそこにいないはずなのに、彼女とともに建物の外に立っているような錯覚に陥る。
しかし、目をあければ、そこは変わり映えのしない二階の一室。
ともあれ……ぼくは決めた。
(きみに、頼みがあるんだ)
(頼み? なんでしょう)
(ぼくは、きみを雇いたい。そして……きみに、あちこちを旅して、ぼくに行く先々の風景や音を伝えて欲しい。きみと一緒に、感覚だけでいい、旅をして欲しい)
彼女は、一呼吸だけ考えてから答えた。
(正当な報酬がいただけるなら。でも、どうして、あなたはそこから出られないんですか? 教えてください。それが条件です)
今度は、ぼくが少しの間だけ黙った。でも、その質問の答えはすでに考えてあった。
(ぼくは身体が弱くて、この家から出たことがないんだ。病気が伝染するかもしれないから、会えるのも医者を含む、極わずかな人だけ。それも、マスクをして、特別な服を着て、医者の立会いのもとでね。だから、ぼくは生きてきた十数年の間、外に出て歩いたり走ったりしたこともない。遠くの国のことも本で読んで知ってるけど、実際に行ったこともない)
ぼくは一旦ことばを切った。相手は、じっと黙って話を聞いている。
(だから……だから、見てみたいし、聞いてみたい。ぼくの命は残り少ないから……)
しばらくの間、沈黙が訪れた。
もしかして、彼女は去っていってしまったのかもしれない。そんなことを考えて、そっと窓から見下ろしてみると、ちゃんと黒衣の姿があった。
少し待って、彼女の心の声が聞こえて来る。
(わかりました。引き受けましょう)
(ありがとう!)
ぼくは、文字通りに心から礼を言った。これほど嬉しかったことは、もう何年もない。
それから、魔女にぼくが雇っている女性を連れてきてもらい、魔女に報酬の前金を渡してもらった。これでも、蓄えだけはそれなりにある。
魔女は報酬を受け取ると、すぐに宿を引き払って旅立ってくれた。その、旅立ちまでの買出しなどの準備や、門をくぐるときの胸の高鳴りまでもが、経験したことのない、冒険のようだった。
ドキドキしながらも、ぼくは決して、罪悪感を忘れてはいなかった。
そう、この日、ぼくは嘘をついた。人生で一番大きな嘘を。
それから、ぼくたちは旅をした。
魔女は一度訪れた場所にも案内してくれた。彼女は物知りで、聡明で、勇敢で……それに、美しかった。ぼくが知りたいことがあれば、何でも答えてくれる。行きたいところに連れて行ってくれる。もしかしたら、ただ、仕事だから、かも知れないけど。
それでもよかった。
ぼくたちは世界中を旅して回り、そして、毎日話をしているうちに、気心の知れた仲になっていた。二人で行き先を話し合い、危険を回避するために知恵を出し合ったりしているうちに、ぼくたちの間には心の底からの信頼が、太い絆が生まれていたと思う。
そうして、あるとき彼女は、ぼくの病気を治したいと言った。それができなくても、伝染してもいいから、一目会いたいと。
とても嬉しかったけど、ぼくはそれに賛成することはできない。でも、ぼくは動けない身体、彼女は優秀な魔女。抵抗する術は無かった。
そして、彼女は知ってしまったんだ。
そう……ぼくは、病弱で、外に出たことのない少年なんかじゃない。ただ、余生を悠々自適に過ごそうとしていた、少し足腰が悪いだけの老人だ。ぼくは出ようと思えば外にも出られるし、若い頃にはよく近隣の街を渡り歩いて商売をしていたものだ。
ぼくの嘘を知って、彼女は当然怒った。
「わたしを騙した代償……支払ってもらう」
彼女はぼくに魔法をかけて、去っていってしまった。
それで、ぼくはこんな身体になってしまった。嘘の通りの、病弱な少年の身体に。皮肉なことに、もとの身体より寿命は伸びていた。
でも、彼女には感謝している。
今でも、時折、彼女の見ている風景や、聞いている音が伝わってくる。もしかしたら、ぼくの幻覚か、夢かもしれないけど……。
ただ、彼女にきちんと礼ができなかったのが心残りだ。
だから……。
少年の姿をした老人は、話を聞いていた魔女に、金貨を渡した。それは、滅多にお目にかかれない、一番高価な単位の金貨だ。
「これを……どうか、受け取って欲しい。話を聞いてくれた御礼だ」
魔女は、一度差し出された金貨を見て考え込んだ後、それを受け取って懐にしまった。
「もし、彼女に会うことがあれば、ありがとうと伝えて欲しい」
「わかりました」
言って、魔女は立ち上がる。
「わたしは、これで」
彼女は一人、部屋を出、一階に降りて外に出る。家のなかには、他に人の姿はなかった。
(これでよかったのかな?)
ドアを出るなり、魔女の頭のなかに声が響く。
魔女は街へと歩きながら、小さくうなずいた。
「まあ、彼女のほうも恨まれていなかったわけだし、満足するだろう」
(じゃ、これから彼女のところに戻る?)
「面倒臭い。テレパシーで済ますよ。金貨はわたしが受け取っておく」
(いいのかなあ。まあ、いいか)
魔女は、宿屋に向かいながら〈テレパシー〉の相手とことばを交わす。空は夕暮れ色に染まり始めており、通りに人通りは少なかった。
(それにしても……凄い話だね。ずっと想像のなかを旅していたなんて)
「まあ、彼女はもともと、旅をしていた記憶があるからね」
(ねえ、ぼくが本当は病気の少年じゃなかったらどう思う?)
魔女は苦笑した。
「わたしはシゼルとは実際顔を合わせたじゃないか」
(それも実は幻……と言えないところが、セティアの喰えないところだなあ)
セティアは、魔術師として名が知られていた。彼女を騙せる幻術が使える魔術師など、果たして存在するのかどうかも怪しい。
「だまされたら、しょせんそこまでの魔術師だったってことさ。逆に、もしわたしがきみをだましていたら、どうする?」
彼女の問いに、シゼルは少しの間考えて、言った。
(どうもしないよ。まやかしでもいい。せめて短い間でもいい夢を見せて)
「そうだね……あの二人も、よい夢を見ていたんだろうね」
老いた女魔術師は、自分と同じく夢を求める相手を見つけ、彼とともに、彼女の想像と魔法により創りだされた世界で旅をした。少年のほうの嘘が明らかになり、旅は終焉を迎えたが、二人にとって幻と嘘は、何か害になっただろうか。
新しい旅を始めない理由はない。
宿に一泊し、翌日の朝、窓にのぼる朝日を見ながら、セティアは老いた魔女にそう告げて〈テレパシー〉を終えた。