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・2007年9月29日:第16話 魔法研究所の眠り姫事件PART1(上)
・2007年9月29日:第16話 魔法研究所の眠り姫事件PART1(下)
第16話 魔法研究所の眠り姫事件PART1(上)
何でこんなことが起きたのか……少なくとも、今なら予兆があったことは思い出せる。
昨日の放課後、わたしは医務室にちょっと顔を出したあと、本を持って物見台に行こうとしていた。だいぶ涼しくはなってきたものの、下の喧騒が届かない読書に快適な場所と言えば、やっぱり物見台だ。
四階に上がると、通路をこちらに向かってくる道化師さんとジョーディさんが見えた。壁も天井もない通路には、淡い夕日が思い切り照りつけてくる。
「よぉ。嬢ちゃんは勉強熱心だなー。魔道書ばっかじゃねーか」
と、言われたとおり、このときわたしが脇に抱えていたのは魔法関係の本ばかり。『幻術の応用』に『魔法語大辞典』、それに幻術の次に興味を持った『召喚魔法の基本』だ。
「召喚魔法とは、難易度の高い魔法を選ぶな。幻術も召喚魔法も、実践は習わない種類の魔法だが」
「だから、独学で色々勉強してみようかと……」
そういえば、道化師さんは召喚魔法が得意なんだっけ。幻術に対するキューリル先生みたいに、何かあれば訊けるといいな――そんな風に、のん気に考えてたときだ。
「なんだ?」
最初にそれに気がついたのは、ジョーディさん。
すぐに、わたしの耳にも聞こえてくる。ブーンという重低音の羽音の、多重奏。通路の端から見下ろしてみると、黒い塊が突き上げてくるような、夢に見そうな光景。
黒い塊は、よく見りゃ、細かな点の集合体だ。すなわち、羽虫の群。
「うわっ」
昇ってきたそれが周囲を取り巻くと、思わず声が出る。とにかくずっと耳もとでブンブンうるさいし、身体中に取り付いてこようとしてうざったい。
「ったく、この時季になんだってんだ」
ジョーディさんが言いながら尻尾で追い払おうとするが、羽虫は一向に減らない。むしろ増えている気すらする。
仕方なさそうに、道化師さんが魔法を使おうと手で口を覆うものの、結局魔法は放たれないまま、彼は膝をついた。その目が、何かに驚いたように見開かれる。
――え?
一体何が起きたのか、と驚くとほぼ同時に、首の後ろ辺りにチクリとした痛みを感じた。
――虫に刺された?
漠然とそう思う間に、視界が狭まっていく。激しい違和感。がっくりと石の床の上に膝をつくが、痛みも感じない。
どこか遠くでジョーディさんの声が聞こえた気がしながら、わたしの意識は途切れた。
気を失った瞬間の違和感が、余りに強く印象に残っていたせいか。
はっ、と気がつくなり、わたしはがばっと上体を跳ね上げた。
見回せば、そこは医務室。目の前に、ビストリカの姿がある。
「アイちゃん、大丈夫?」
心底心配そうにのぞき込んでくる彼女だが、わたしは知りたいことが多過ぎてなかなかことばが出てこない。
でも、知りたいことのいくらかは、人の姿でごった返した医務室内の状況で知ることができた。
――ベッドに見えるのは道化師さん、マリンダさん、シェプルさん、テルミ先生、それに……ええっ、四楼儀さんもっ? あと、顔に覚えのない学生さんも数名。ただ、ジョーディさんは無事のようだ。
心配そうな顔で何やらことばを交わしたりしているのは、ビストリカとジョーディさんのほかに、学長さんとリョーダ・リアス先生、ロインさん、フリスさん、それに村瀬先生。
「えと……確か、羽虫の群に刺されて……どうなったんですか?」
まだちょっとぼうっとなってる頭を振りながら、ジョーディさんに問うてみる。
相手は、お手上げ、という風に鎧付きの肩をすくめた。
「嬢ちゃんがた、いきなり倒れてよ。ここまで運んでみたものの、医者の皆さんがほかにも犠牲者いるだろって言うから捜してみたら案の定、でな」
「虫に刺されたせいらしいが、まさか、四楼儀どのまでやられるとはねえ……」
となりで、学長さんも困り顔だ。
でも、わたしはそのことばで、あるやり取りを思い出す。
「でも、物見台まで羽虫が来ることなんて滅多にないって言ってましたけど……」
と口に出してみると、何やら確信を深めた様子で、ビストリカと目を合わせるリアス先生。その以心伝心っぽさが気に入らないが、非常時なので無視する。
「やはり、これは意図的な襲撃と考えたほうが良さそうですねえ」
白衣の教授は、メガネの奥の目をきらりと光らせて言う。
「この症状……あきらかに、羽虫のものではありません。人為的に作り出された、対魔術師用の毒ですね」
「それって、まさか……」
「そういうことです。我々が作り出した毒が依頼主に届けられる前に誰かに入れ替えられ、それを羽虫に仕込まれたのでしょう」
ロインさんや学長を始めとして、みんなの表情が険しくなる。誰かが備え役らを狙ったとしたら、これからさらに、何か仕掛けてくるかもしれない。
「ともかく、警備隊に言って人手を貸してもらう必要があるな。みんなが早く目覚めれば、それに越したことはないが」
ロインさんが眉間にしわを寄せたまま、マリンダさんの寝顔を見下ろす。
「そもそも、どんな毒なのかな? ただ眠らせるだけとは思えないが」
と、村瀬先生が質問すると、ビストリカが答えてくれる。
「吸魔導眠の毒は、相手の魔力を吸い取ってそれを眠りの魔法として発動させる毒なんです。だから、魔力の高い者ほど長く深い眠りに侵されます」
「毒が作れるなら、解毒薬も作れるよね?」
と、これはフリスさん。わたしも、彼女と同じことを考えていた。しかし――
「それが……まだ、正式に効くとされる解毒薬は……」
「え、ないの?」
首を振る反応が余りに意外だったので、思わず、ちょっと気の抜けた声を出してしまう。
わたしやフリスさんの顔を見て、彼女は慌てて手を振った。
「で、でも、大抵は危険なことになる前に目覚めますから……後遺症もありませんし、眠っている間も普通の睡眠とほとんど変わりなく……ただ、研究所にいらっしゃるかたは、強大な魔力を持った魔術師ですからね……」
――危険なのかそうでないのがどっちなんだ。というか、危険でも解毒剤がなければどうしようもないのでは……。
わたしはベッドを降り、となりのベッドの道化師さんを揺すってみる。だが、いくら起こそうとしても反応はない。フリスさんなんてシェプルさんをひっぱたいたり何か魔法を試したりしてるけど、それでも駄目。
「特に、伝説級の魔術師は危険かも知れんな。普通はこの毒で死者が出るようなことはないのだが、山奥の研究室にこもってた高位の魔術師が、実験の失敗で毒に侵され、発見されたときには衰弱死していたことがあった」
学長さんのことばに、室内が静まり返る。
わたしにはどうしようもなかったとはいえ、自分が作った毒で誰かが亡くなるなんてことは嫌だな。それも、親しい人が。
「何か、ほかに方法はないの?」
解毒薬がなくても、魔法で何とかできるかもしれない、と思って訊く。ここは魔法研究所なんだし、何とかなるはず。
「魔法で昏睡状態を解くとなると、対象と以上の魔力が必要となります。それは、学生たちやシェプルさん、アキュリアさんらには可能かもしれませんけど……」
つまり、道化師さんや四楼儀さんレベルの魔力を持った魔術師を用意しなければならないと。
なんか寝てるだけじゃんと思ってちょっとのん気にかまえていたら、段々雲行きが怪しく……。
「それじゃあ、どうすれば……」
わたしは言って、並ぶ専門家たちの顔を順に見る。もう、頼りになるのは専門知識を持っている人たちだけである。
そして、リアス先生が口を開く。
「ビストリカさん、確かあなたの知り合いに、新しい魔法薬の研究をしているかたがいたでしょう。そのかたが、対吸魔導眠用の研究もしているはずでは……?」
とのことばに、ビストリカが、はっと顔を上げる。
「そうです! まだ実験段階だそうですが、コートリーのマドルックさんが新薬を開発したはずです。事情を話して、何とか分けてもらえれば……」
必死の表情で記憶を探りながら説明すると、彼女は学長さんに向き直る。
「彼とはかつて同じ研究室にいたことがあります。シヴァルド学長、わたくしに、コートリーへ行く許可をください」
普段はどちらかと言えばのんびりしている彼女の目も、やはりこの状況ではどこか鋭い印象すら受ける。有無を言わさぬ迫力だ。
でも、学長さんのほうはその表情を見なくても、専門的なことは専門家に任せようという方針らしい。
「それは任せる。その間、医務室はわたしが預かろう。しかし……きみ一人で行かせるわけにもいくまい」
「それでは……」
ビストリカの澄んだ水色の目が、こちらを向く。そして、なぜか両手はわたしの手に……って、まさか。
「アイちゃん、一緒に来てください!」
やっぱり。
「いや……わたしとしては嬉しいけど……いいのかな」
わたしは、思ったことそのままを口に出す。アレコレ心配しながら待ち続けるのは苦痛だし、わたしの性には合わないことだけど、単なる魔術師候補が研究所から出ていいのだろうか。
「学生や教授が一緒だと、また虫が来たときに犠牲者が増えるだけの可能性もある。きみならすぐ目覚めるから大丈夫だろ。でも、女二人ってのも何だし、ビストリカも虫に刺されると危険だ。ジョーディ、お前、一緒に行け」
ロインさんがそう指示する。
虫がどれだけいるのかわからないし、研究所の外で出会う可能性もあるのか。でも、それはここにいても変わらない。
「オレはいいけんどよ。こっちは大丈夫なのけ?」
「最悪、魔術師がみんな寝ちまっても、警備隊員増員で持ち堪えるさ。だからそっちは頼んだぞ」
そう言い残して、最後にマリンダさんを一瞥するものの、ロインさんは「これからが大変だなあ」とか何とかぼやきながら医務室を出て行く。早速、エレオーシュの警備隊に協力を求めるつもりなんだろう。本当は、マリンダさんのそばにいたいんだろうけど。
わたしは机の上に鞄を見つけると、手提げ部分の感触を確かめる。そして、目を閉じてるだけにも見える道化師さんや、何かうなされてるらしいテルミ先生、妙に気持ち良さそうに寝ている四楼儀さんらを一瞥する。
「早く行きましょう。長い間、研究所の守りが薄くなるとまずいんでしょ」
「そうだ」
ジョーディさんがうなずきながら、担いだ戦闘用の長柄の斧――アックスの柄で自分の肩を叩く。
棚をごそごそやっていたビストリカは、白い杖を手にし、いくつかの本や薬を入れた肩掛け鞄を肩にかけ、準備万端、という風体でこちらを向いた。
「行きましょう……わたしたちが何とかしなければ」
ぐっ、と拳を握りしめる。燃えてるなあ、ビストリカ。
でも、実際のところこの状況を救う可能性があるのはわたしたちの行動だ。眠ったままのみんなを見回すと、わたしにも、救世主のような妙な緊張感というか、自覚が芽生える。
そして、わたしの最大の役目、それはビストリカを守ること。
「行こう、ビストリカ。絶対虫を、ビストリカには触れさせないよ」
「ええ……頼りにしてます、アイちゃん!」
「おー……仲がいいのはいいが、たまに、オレのことも思い出してくれよ」
手を握り合うわたしたちの横で、ジョーディさんが困ったように立ち尽くしていた。
第16話 魔法研究所の眠り姫事件PART1(下)
わたしたちは研究所を出ると、早足のまま、橋のそばから桟橋に下りる。ビストリカの提案で、コートリーまで一番早い手段、舟を使うことにしたのだ。
この辺りには、どうやらあの虫はいないらしい。無差別攻撃が目的ではないようだ、と、ジョーディさんが予想していた。
「ま、オレは魔力なんてないから虫は平気だけどよ。それ以前に、針が皮膚を通らねえしな」
「確かに、硬そうですもんね」
小舟の端に腰を下ろし、彼は金色の目を真っ直ぐ前に向けたまま言う。
わたしとビストリカは、舟の真ん中辺りに向かい合うように座っている。船首に船頭さんが立ち、ほとんど運河の流れに任せつつ、舟を動かしていた。これが普段なら、近くに見える水陰柱などの景色を楽しむところだけど、そんな余裕はない。
わたしは学長さんにもらったエレオーシュ周辺の地図をまだ持っている。コートリーは、エレオーシュの北にある町だ。
ぐるりと街並みを囲む運河を流れて、わたしたちを乗せた舟は北へ向かっていく。
それにしても、舟は楽だけど、自分の足で歩かない分、進んでいる実感が湧かない。そうすると、背中がチリチリするような、妙な焦りを覚える。
見た目の悲惨さはないし、今すぐどうこうという話じゃないからあまり感じなかったけど、眠らされた魔術師は死ぬかもしれないんだ。道化師さんも、テルミ先生も、四楼儀さんも、あんな元気一杯なシェプルさんも、ロインさんと幸せそうな様子だったマリンダさんも。
落ち着いて色々考えているうちにそんな思いが頭に浮かんで、ちょっと落ち着かなくなる。ビストリカもいつもの態度を装っているけど、声に少し硬さがあった。いつもどおりなのは、ジョーディさんだけ。
「ま、なるようになるだろ。あんま深刻に考えんな」
わたしたちの様子を気遣ってか、彼は尻尾をパタパタ振りながら気楽に言う。その仕草とことばで、ちょっと心が和んだ。
それにしても、陽が落ちてだいぶ辺りが暗くなっている。街中だから、〈マピュラ〉が必要になる可能性は低そうだけど。
――そういや、お腹空いたなあ。
夕飯食べてないし、と思ったところで、道沿いに長く真っ直ぐ続いていた運河は、アーチ状の橋の下をくぐり、舟はコートリーの南の桟橋に着く。
ビストリカが船頭に代金を渡すと、わたしたちは階段を登り、門をくぐって石畳の通りに出たとこでやっと、門の陰に隠れていたあるものを見つけるのだが――
「えええぇぇぇえええ……?」
わたしだけじゃない。三者三様の驚きの声が混じる。
「何でいるのー!?」
周囲の目も気にせず、というか、気にする余裕もなく、わたしは大声を上げた。
相手は少しあきれたように肩をすくめる。
「そう大声を上げなくとも、聞こえておるよ。いかに仮の身体といえ、な」
そう、浴衣に似たローブをまとった黒目黒髪の青年は、まごうことなく、四楼儀さん。医務室のベッドで気持ち良さそうに寝ていたはずの彼である。
「仮の身体というと……魔法ですか?」
さすが、今のわたしたちご一行の中で唯一魔術師であるビストリカは魔法に関して飲み込みが早い。
「ああ、飛ばした意識に仮の身体を作り上げてあてがっている。幽体離脱のようなものだよ。古い魔法さね」
「へえ〜……」
ジョーディさんが目を丸くして、だるそうに門に寄りかかる相手を眺める。
「お前が物見台の外まで出かけるなんて、初めて見た」
「お
やっぱり、一緒に行く気なんだ。まさかこの人と肩を並べて外を歩く状況になるなんて思いもしなかったので、好奇心を刺激される。
でも、その前にまず興味を引かれるのは、コートリーの町。とはいえ、エレオーシュからそう遠くないだけに、建物の様子が大きく変わったりはしないけど、街並みは、少々段差が多い印象。風車、そして大きな屋敷が岡に建っているのが目立つ。それと、遠くに薄っすらと見える山並み。
この町のどこに、マドルックさんとやらは住んでいるのか。
「マドルックさんは、富豪のかたの別荘を借りて住んでいらっしゃると聞きました。確か、東区のダイナの岡です」
なるほど、パトロンをバックにして研究しているのか。住所もわかっているなら、とっとと薬を分けてもらって帰れるだろう。
そんな軽い気持ちで、通りを歩く。この時間帯ともなると、通行人は少ない。
それにしても……。
お腹すいた……。
大人しくみんなについて歩きながら、鞄の中を探ってみる。何か、おやつでもなかったかなー、と。
しかし、何もないことはわかりきってたことだった。
「どうした嬢ちゃん。腹でも空いたか?」
振り返ったジョーディさんに唐突に図星をつかれて、わたしは転びそうになった。
「そういえば、夕食とらないで来ましたものね……」
と言うビストリカも、何も食べていないはず。空腹感を思い出したように、腹を撫でる。
「オレはべつに平気だけどよ、何ならそこで食ってっか? 帰りが遅くなったら、とうに店が閉まってるってこともあるから、今のうちのほうがいいだろ」
ジョーディさんが指をさしたのは、丸いテーブルが路上に出された、オープンカフェみたいな飲食店だった。時間的に客は少なめだが、雰囲気は良さそうだ。
ウェイトレスのお姉さんが、奥の扉を前回にした店舗とテーブルの間を行き来している。屋内にも料理人など、何人かいるらしい。
「そうですね、わたくしも賛成です。お腹が空いては力が出ませんし」
「儂はいらんが、好きにしたらいい」
ということで、わたしたちはお店のテーブルに席を取る。すぐに、ウェイトレスが注文を取りにきてくれた。
落ち着いて看板を眺めてみると、このお店は、〈水鏡の映す恋歌〉亭というらしい。家庭料理やデザートを出すお店のようだ。
デザートが気になるけど、我慢我慢。さっさと食事を済ませるため、サンドウィッチとシェシュ茶を頼む。
ウェイトレスが引っ込んでいったお店のほうを見ると、人の好さそうな、四〇歳前後のおじさんが笑顔で腕を振るっている。誰かと話しているのか、目は店の奥を向いていた。
「それにしても、誰が羽虫を用意したんでしょうね」
冷静になってみると、まず、原因を探るのが第一なんじゃないかと思う。いや、命かかってるから魔法薬も重要だけれど。
「地球人を使った水没救済計画に反対する者もおろうよ。それにしても、せいぜい嫌がらせ程度だろうけどね。本気でどうにかするつもりなら、研究所の主力が欠けた段階でとうに攻めてきていただろう」
テーブルに突っ伏した四楼儀さんが眠たげに応じる。外でもあまり変わらないなあ。
「犯人捜しは、ロインたちが手を打ってるだろ。こっちはこっちでやれることをやるだけだぜ」
ごもっとも。ジョーディさんは現実的だ。
そんな感じで話してるわたしたちの前に、ウェイトレスが盆にカップを載せて運んで来て並べる。カップに入っているのは乳白色のジュースらしい液体。
「え? これ頼んでないですよ」
「それが、あちらのかたから……」
ウェイトレスが手で示したそこには、見覚えのある姿があった。
――え? なんで?
本日、二度目の意外な相手登場。
「あらぁ、こんな夜にお出かけなんて風流〜。アイちゃんも、よくここまで来たわねぇ」
夜闇の中でも目立つ、元気一杯金髪犬耳尾っぽ娘、エミール族の幻術師。
「キューリル先生、なぜここに?」
相手はエプロンを着けた格好で、手を振ってくる。
「ここの主人のハーキュルとは知り合いなのー。だから、たまにこうやって遊びにくるのよぉ。これはあたしのおごりだから、一杯やっちゃって」
「はあ……それならいいんですけど」
ハーキュル、という名らしい、さっきの人の好さそうな顔の店の主人が、苦笑いを浮かべてこっちを見ている。
「何の用事か知らないけど、最近、この辺りも物騒だから、気をつけてねー」
新しいお客さんがやってきたので、手伝いのためか、早々に離れていく。
――でも、物騒、って。
そう言えば……。
「水霊祭のときに聞いた話じゃあ……」
って、これ言っていいのかな? と、ちらっと四楼儀さんを見てみる。相手はこちらには無関心。
まあ、町の子どもが知ってたことなんだし……。
「……この町に、最近アクセル・スレイヴァの人たちが出入りしてたとか……」
言うなり、四楼儀さんがぴくっと反応してこっちを見る。
――やっぱり、まずかったのか?
「……ここで連中が介入するほどの事件が起きているという話は聞かんがね。何度も来ていたなら、どこかに協力でも仰いでいたのか……関わり合いにならなければ良いが」
「これ以上、物騒なことになるのはゴメンだからな」
溜め息交じりのことばに、ジョーディさんが同意する。
しかし、マーフィーの法則ってやつだろうか。
この状況でアクセル・スレイヴァの名を耳にして、関わり合いにならないはずもなかった。
ダイナの岡に建つ、マドルックさんの屋敷。
ノッカーを叩いて入るなり、赤いじゅうたんが敷き詰められた広いロビーで、執事風の老人と私兵らしい武装した男たち六人が、わたしたちを迎え入れた。
「お待ちしておりました、ビストリカ・タルキーンさま。お連れさまも」
「え……わたくしたちが来るのをご存知で?」
執事のことばに、ビストリカが驚いて訊き返す。研究所からでも、連絡が入ってたんだろうか。
しかし、詳しいことを訊く間もなく、執事はことばを続ける。
「ビストリカさまに、是非研究室へ来ていただきたいと言われております。どうぞ、お一人でこちらへ」
執事は手で奥の階段を示し、案内しようとするが……。
「ビストリカ一人だけ……?」
それは、彼女の身を守る使命を持ったわたしやジョーディさんにとっては、とても不安なことだった。
振り返った白髪の執事は、眉ひとつ動かさない。
「ほかのかたがたには、もうしばらくこちらでお待ちいただくことになっております。すぐに待合室の用意をいたしますので、ご安心ください」
淡々と告げて、ふたたび歩き出す。
「それじゃあ、皆さん……」
「ビストリカ、何かあったら呼ぶんだよ」
「ま、大抵は魔法で何とかなると思うが、油断はすんじゃねえぞ」
わたしとジョーディさんのことばに、彼女は覚悟を決めた表情で、「はい」と力強くうなずき、執事と一緒に階段の上へ消えていった。
――大丈夫なのかなあ。
豪華なシャンデリアを見上げ、広いロビーに立ち尽くしていると、ちょっと心細い。
まあ、そばにはジョーディさんと四楼儀さんもいるけど……。
そう思って振り返ろうとしたとき。
「……嫌な気配がする」
四楼儀さんのつぶやきに、わたしもジョーディさんも、はっと顔を上げる。四楼儀さんは、長い袖の中で腕を組み、いつもの眠たげな表情ではあるが……。
彼に向き直ろうとした途端、緑の何かが手を引いた。視線を落とすと、手に巻きつくのはシュレール族の尻尾。
「え……」
バランスを崩したわたしの目の前に、振り下ろされたらしい木刀の先が見える。それを握るのは、この屋敷の私兵。
「一旦引くぞ!」
状況が良く飲み込めないままだが、それでも、ここにいるとまずいということはとっさに理解した。ジョーディさんに手を引かれ、背後の扉に駆け寄ろうとする。
しかし、数歩進んだところで、急に足場の感触が消える。
――へ?
見下ろすと、視界に広がる闇。そして訪れる墜落感。
「えぇぇぇぇええああっ!」
わたしにできるのは、ただ宙を掻きながら悲鳴を上げることくらいだった。
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